私は、共通一次試験の最初の受験生だったが、その頃は、小林秀雄氏の文章がよく試験に出ていた。いくら考えても答えが見つからない。理屈がわからない。いっそのこと、理屈で考えるのは止めにしよう。それより、心を澄まして、自分にしっくり感じられる選択肢を解答にしよう。そう思い、模擬試験を受けたことがあった。しかし、解答時間の大半を費やした小問は、誤りだった。
「㋑って思ったから、㋑でえぇやないか」
学校近くの寺の境内で友人にボヤいたことを、今も思い出す。感じた事を否定されるのは、考えを違うと言われるよりも腹が立った。このボヤきを、小林氏に聞いてもらいたかった。氏は何と言っただろう。氏の『本居宣長』が刊行された、昭和五十二年の秋だった。
それから二十数年経ち、『本居宣長』を読もうと思い立った。外国に暮らして、その国の人達が幼児も喋る身の丈の言葉で深い意味を話し、学問までしているのではないかと、愕然としたことがあったのだ。何かにすがらずにいられなくなった。それには、小林秀雄と本居宣長の組み合わせが、最も頼れるように思えた。その国では、人の話す言葉がわからず、その言わんとするイメージだけを必死に想像していた。それを思えば、『本居宣長』で小林氏の言わんとすることを、想像できるような気になっていた。
何が書かれているかではない。何を言わんとすると、このような文章になるのか。それを、とりかえひきかえ想像し、文章の中を行きつ戻りつ確認した。わからない所は今でも多々ある。しかし、「学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」、「直かに推参する」といったことに感動した。入試に文章が使われ、私が知識人の鑑だと信じていた小林氏が、「さかしら」を攻撃していたのには、天地のひっくり返るような気がした。自分もさかしらは止めよう。やまとだましひで、世界と伍してみようと誓った。しかし、もっと驚いたのは、小林氏が出てきた、というか、いつの間にか氏が居間で寛いでおられるような錯覚を感じたことだ。二人称として関西周辺で使われている「自分」を使う同級生が、私の勉強部屋に上がって来たような気分に戸惑った、そんな錯覚である。
小林氏の身になって、氏の考えていることを想像してみる。確認する術は、書かれた文章がしっくりするかどうかだ。おぼろげに、小林氏のものだったかもしれない考えが、頭の中に居付くようになった。と、すれば、この脳は誰のものになるだろう。そうか、それが錯覚か。などと考えている間に、もう一人、人が増えていた。私の心の中に入って来た小林氏は、本居宣長の身になろうとしていた。しばらく時間がかかったが、それに気付いた頃には、三人目の女性が登場していた。その宣長さんは、やはり、「源氏物語」を味読していたのだ。
頭の中が随分と賑やかになってきた。これは、私だけの体験ではない。江藤淳氏はもっと豊かな体験を、小林氏との対談で述べている。
「同時に、これはたとえが正しいかどうかわかりませんけれども、宣長を初めとして、宣長を取り巻く人々、宣長という人がこの世に生れて、ああいう学問を始める因縁をつくった人々が出てまいりますね。それは契沖から、賀茂真淵にいたるいわゆる国学の学統のみならず、中江藤樹も荻生徂徠も堀景山も出てまいります。また論争相手には上田秋成のような人も登場します。彼らがある遠近法にしたがってこの思想のドラマの登場人物の役割を果しています。『本居宣長』を読み進むときの読者の体験は、ムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴いているときの感じとどこか似通っているようにも思われます。小林さんの跡をついて歩いていきますと、それまでは単なる名前でしかなかった登場人物たちが、宣長をはじめとしてそれぞれ肉声で語りはじめます」。
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集212頁7行目)
小林氏は、承知のうえで、わざとこのように文章を書いている。何のためだろう。そう思いながら読み進んだが、話が「古事記」に進み、だんだんと、宣長さんが出てこなくなってしまった。
私は、「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」(同第28集90頁10行目)という言葉がしっくり来るような、宣長さんの気持ちを、まだうまく想像できずにいるのだ。読書力の限界が不甲斐なかったが、自分一人の問題でないことも、わかってきた。
小林氏は、講演で、「宣長という人は、非常に論理的で実証的な精神をもっていた頭のはっきりとした学者であるが、とうとうしまいには非常に狂信家になってしまった。……そんなばかなことはない。……宣長さんという人は一人に決まっているんだ。一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読めば、きっと一人になって現れて来るに違いない。……そのいきさつが僕の本に書いてあるんです」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻『本居宣長』)と、述べている。この箇所が、私にとって、初めて意味を持った。小林氏も、長い間かかって、一生懸命に読んでいたのだ。そうするに値する、大きな問題だった。いろいろなことが、かみ合ってきた。
宣長さんは一人。別に、狂っていたのではない。これが『本居宣長』に書かれている。冒頭で、折口信夫氏に、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」と口走ったのは、動揺している小林氏から飛び出した、宣長さん自身だったようにも思えてきた。小林氏はこう書いている。
「今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」。
(同第27集26頁2行目)
どうやら、分析しにくい動揺する感情を、読者は受け取るようだ。冒頭での、一向に言葉に成ってくれぬ、無定形な動揺する感情に再び向き合い、何かを企てる氏の姿が、そう感じさせるのだ。
氏は、この感情が、宣長の思想の一貫性を信ずることだと、意識している。
「ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ」。
(同第27集40頁3行目)
もし、宣長について書きたいという希いが、動揺する感情を言葉に成したいということであれば、そうなるだろう。だとすれば、どのように、この企てがやり遂げられるのだろう。私は、どう宣長の一貫性を受け取るだろう。
折口氏との思い出に始まった導入部が、次の文章で締めくくられる。
「要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」。
(同第27集40頁9行目)
やはり、理屈で考えるのは、無益のようだった。宣長の思想の形体、構造ではなく、むしろ彼の肉声こそが書かれようとしている。それなら、読者は、彼の思想の一貫性を理屈で追うことは出来ず、肉声から直に感じるしかないではないか。私は、自分を無にし、心のスクリーンを張り、安らかに、小林氏の投影するままに任せて良いようだ。そうすれば、一人になった宣長さんが映るはずだ。それを味わえばよい。自ら、一貫性も知られるはずだ。私は、宣長について書きたいという、小林氏の希いとは何だったかを念頭に、もう一度、思想劇を観直そうと考えている。
宣長が、自分はこう思う、と発言したために始まった周囲の人々を巻き込んだ思想劇、その舞台は私の中に、いや、その現場に私もいる。
(了)