小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

杉本 圭司

小林秀雄はしかし、「ベエトオヴェン」は書かなかった。その理由の詮索は、今は措いておきましょう。それよりも、もし小林秀雄が「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼は一体何を書いたのか。本人が何度も語っていたように、その書き振りは、確かに「モオツァルト」とは異なるものになったかもしれない。けれども、「もっと専門的なもの」を書くとはいっても、たとえば彼がベートーヴェンの楽曲のアナリーゼをやったり、「私」ではなく「我々」を主語とするような研究論文を書いたとは思えません。彼はやはり、「モオツァルト」を書いたとき同様、「詩人としてのイデー」より入る他なかったでしょう。それはすなわち、ベートーヴェンが演じた「人間劇」を描くということであり、その「人間劇」が孕む「イデー」を、この作曲家が奏でた調べの裡に見出すということだったに違いありません。そしておそらく、その「イデー」は、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と彼が坂本忠雄さんに語った、「早来迎」という言葉に凝結するものだったろうと思われるのです。

「モオツァルト」において小林秀雄が見出した調べといえば、何といってもK.550のシンフォニーの第四楽章と、K.516の弦楽クインテット第一楽章に通底する「ト短調」の調べです。そしてその調べが語る「イデー」を、彼は、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」というあの一節に結晶させました。小林秀雄は、この作品の中でモーツァルトのト短調の音楽だけを取り上げたわけではありませんが、この二曲についてそれぞれ書いた第二章と第九章が、彼のモーツァルト論の要であり、文章全体の調子を決定していることは疑いありません。あるいはそれは、「モーツァルトのト短調」というより「小林秀雄のト短調」と言った方がいいものかもしれないが、その彼の文章の調子が、モーツァルトの音楽が持つ或る調子と深く共鳴するものであったことは確かです。

一方、そのことについては昔も今も変わらぬ批判があります。モーツァルトの音楽の魅力はト短調、あるいはもう少し広く言って、短調の音楽だけにあるのではないという批判です。至極もっともな批判だが、小林秀雄の「モオツァルト」がト短調に偏っているという非難は、たとえばト短調シンフォニーを初演したモーツァルトに向かって、「今度のシンフォニーはト短調の響きが支配的で、あなたのイ長調の音楽のよさが出ていない」と非難するようなものです。モーツァルトがト短調シンフォニーという一篇の交響曲を書いたように、小林秀雄は「モオツァルト」という一篇の散文、一筋の歌を歌おうとしたのです。歌には調べが必要です。K.550を作曲するにあたって、モーツァルトがト短調という特定の調性を選んだように、「モオツァルト」という歌を歌うために、小林秀雄は一つの調べを選択した。すべての調べを盛り込もうとすれば、それは完全無調の音楽になってしまうようなもので、学術論文にはなるかもしれないが、歌にはなりません。彼が歌った「モオツァルト」の調べは、モーツァルトが作曲した数ある調べのうちの一つに呼応するに過ぎなかったかもしれないが、それはモーツァルトの調べの中でもっとも本質的な調べと思われた。少なくとも、小林秀雄にとってはもっとも切実な調べであった。その調べを、その調べのままに綴ろうとしたのが「モオツァルト」なのです。彼自身、この作品を発表した翌年のパネルディスカッション(「文壇の崩壊と近代精神他」)で、「モオツァルト」で自分がやりたかったのはモーツァルトについてのあれこれの分析ではなく、だった、それは、調調ということだったと発言しています。

では、小林秀雄が「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼はこの作曲家にどのような調べを見出したのでしょうか。だがそう問うてみる前に、「ベートーヴェンの調べ」と言われて、皆さんの頭の中で真っ先に鳴る音楽がありはしないか。それは、「タタタターン」というあの主題で始まる、第五シンフォニー第一楽章の調べではないか。無論、人口に膾炙したベートーヴェンの調べという意味では、たとえば第九シンフォニーの「歓喜の主題」を思い浮かべる人もあるでしょう。しかしあの旋律は、ベートーヴェンが願った一つの理念を象徴する調べではあっても、ベートーヴェンという芸術家その人を彷彿とさせるような調べと言われれば、多くの人は第五シンフォニーの冒頭部をまず思い浮かべるのではないでしょうか。

いや、あれは通俗化されたベートーヴェン像に過ぎないという人もあるだろう。では、「タタタターン」の調べではなく、「ベートーヴェンのハ短調」と言い換えてみればどうだろう。「モーツァルトのト短調」と言われて、そこに通底する或る独特な調べを想起させるものがあるように、「ベートーヴェンのハ短調」と言われたときにも、ベートーヴェンの音楽をよく知る人であれば、一つのはっきりした特徴ある調べを思い浮かべることができるはずです。しかも「モーツァルトのト短調」は、「モオツァルト」に引用された二曲を除けば、あとはK.183のシンフォニーとK.478のピアノ四重奏があるくらいで、モーツァルトが生み出した膨大な音楽の中でいえばむしろ例外的な調べであり、特異点のようなものと言った方がいいくらいです。一方、「ベートーヴェンのハ短調」は、ベートーヴェンが何度も使用した調性であったというだけでなく、多くの人に「もっともベートーヴェンらしい」と感じさせる特徴があり、かつベートーヴェン自身もそのことをはっきり自覚していたのではないかと思われるような、そういう調べであることを否定する人はおそらくいないはずです。

実は小林秀雄も、その「ベートーヴェンのハ短調」に触れたことがあります。「小林秀雄とのある午後」の中で、モーツァルトではト短調という調性が重要のようですがと問われると、「ベートーヴェンのハ短調と同じだろうな。モーツァルトは意識なんかしなかっただろうが、とにかく、そういうことはあるのだ」と答えていますし、「文学と人生」という鼎談では、文学者にとって一番大切なこと、本質的なことは何かと問われて、それは根底的な自分の世界という意味での「トーン」をこしらえることだと言い、たとえばベートーヴェンの「トーン」は作品十八でもう決定している、と語っています。ベートーヴェンの作品十八とは、六曲一組で発表された初期の弦楽四重奏のことですが、その中にも一曲、唯一の短調の曲としてハ短調のカルテットが入っています。「ベートーヴェンのトーンは作品十八でもう決定している」と言われたときにまず思い当たるのは、このハ短調カルテットですし、小林秀雄もこの曲を思い浮かべてそう言ったと思われるのです。

もっとも、「モーツァルトのト短調」や「ベートーヴェンのハ短調」というのは少し大雑把過ぎる言い方かもしれません。「モオツァルト」で小林秀雄が見出した調べは、ただ「ト短調」というだけではなかった。そこにはもう一つの、極めて重要な調べが加わっていた。「モオツァルトのアレグロ」です。「モオツァルト」では、「ト短調」という調性そのものよりも、むしろそれがアレグロで疾走するというところに重点があったと言えます。「モオツァルト」の言葉で言えば、「人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかったとでも言いたげな」モーツァルトの音楽の速さ、「涙は追いつけない」というその「かなしさ」の速度です。

一方、「ベートーヴェンのハ短調」をもう一歩進めて言えば、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」ということになるでしょう。「アレグロ・コン・ブリオ」とは、「生き生きとした輝きをもつアレグロ」という意味だ。それを明るく開放的なハ長調の響きではなく、悲劇的で悲愴なハ短調で作曲するのです。ちなみにゲオンがモーツァルトのアレグロを形容した「tristesse allante駆けめぐる悲しさ」の「allante」というフランス語にも、「潑剌とした」や「活発な」という意味があります。小林秀雄はゲオンのこの「tristesse allante」を「互いに矛盾する二重の観念」とも評していますが、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」もまた「二重の観念」と呼んでよいものかもしれません。

ベートーヴェンは、二十五歳のときに出版した作品一の中ですでにこの調べの音楽を書いています。それは、三曲一組のピアノ・トリオですが、ちょうど作品十八のカルテットに一曲だけハ短調の音楽が織り交ぜてあったように、作品一の三つのトリオにも一曲短調の音楽が含まれており、その第一楽章が「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」で書かれているのです。当時ベートーヴェンが教えを請うていたハイドンは、このピアノ・トリオの初演を聞き、ハ短調のトリオだけは出版しない方がよいと勧告したといいます。その理由は定かではありませんが、ピアノ・トリオというのはその頃はまだ家庭やサロンで気楽に演奏される娯楽音楽だったために、その穏健なイメージを逸脱し、破壊するベートーヴェンのハ短調トリオは世間には理解されないと考えたのでしょう。しかしベートーヴェンは、このハ短調トリオにこそ自信があったのです。

その後も、初期の代表作であり、ベートーヴェンのピアノ音楽の中でもっともポピュラーな曲の一つである「悲愴ソナタ」の第一楽章、中期の傑作の一つであるピアノ協奏曲第三番の第一楽章や「コリオラン序曲」など、ベートーヴェンはこの調べの音楽を書き続けます。そしてこの「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の象徴であり、権化のような音楽が、第五シンフォニーの第一楽章なのです。

このシンフォニーについては、誰もが知る有名な逸話があります。あるとき、ベートーヴェンが秘書のシントラーに向かって、この曲の冒頭の楽譜を示し、「運命はこのように扉を叩くのだ」と語ったというものです。この逸話は、今ではシントラーの捏造の一つとされていて、誰も真面目には受け取らなくなった。そもそも二十世紀以降の音楽の世界では、それ以前の浪漫主義音楽への反動もあって、こういった文学的な音楽の鑑賞や解釈の仕方を通俗で幼稚なものとみなす傾向があります。たとえば、徹底して楽譜に即した音楽を追求しようとした指揮者のアルトゥール・トスカニーニは、この楽章は「運命」などではない、ただのアレグロ・コン・ブリオだと言ったと伝えられます。

私も、ベートーヴェンがこの主題によって「運命が扉を叩く」様を描写しようとしたとは思わないが、あの主題に、というよりもあの楽章全体に、そしてあのシンフォニーの全篇に、ベートーヴェンが自分の運命、自分の宿命というものをどう捉え、それに対してどのような態度を取ったか、その態度のとり方がはっきりと表れているように感じます。すなわち、「運命の喉首を締め上げてみせる」と言った(これは正真正銘ベートーヴェンの言葉だが)この音楽家が人生に対して取った態度です。ベートーヴェンがこの曲でそれを表現しようと意図したということではないが、結果としてそれが如実に表れているのです。その意味で、シントラーの捏造はいかにもよくできた捏造だと私には思われますし、日本では相変わらずこのシンフォニーを「運命」の名で呼ぶことを、単に日本人の音楽的教養の低さだとも思いません。トスカニーニが指揮したこの曲の素晴らしい録音を聞いても、これが「ただのアレグロ・コン・ブリオ」だとは到底思えないのです。

この「運命の主題」については、小林秀雄にも一つ面白い逸話がある。それをご紹介しましょう。彼は戦前、明治大学や文化学院で教鞭をとった時期があったが、教室に入って教卓の前に座るなりタバコに火を付け、「質問ありませんか?」と学生に問うのが常だったといいます。そして一つずつ学生の質問に答えながら、時には「質問からして違ってらあ」と相手にしないこともあったが、三つ四つと出揃った中から最後にあらためて一つを取り上げ、その日の講義を進めたそうです。取り上げられた質問は、いつも彼自身にとって切実な問題であった。ある時、学生の一人が立ちあがり、「先生、テーマとモチーフと、どう違いますか」と質問した。すると小林秀雄は、「タタタターン」といきなり叫び、「ベートーヴェンにとって、これが第五のテーマであり、モチーフだったんだ」と答えたというのです。

音楽におけるモチーフ(動機)とは、楽曲を構成する最小単位として楽句のことです。同じ形の小さな煉瓦を積み上げながら一つの大きな建築物を作るように、「タタタターン」という一つの楽句を幾重にも折り重ねて行くことで音楽を構成するのです。第五シンフォニーの場合、このモチーフは第一楽章のモチーフであるだけでなく、四つの楽章全てのモチーフとして使われている。さらに言えば、これは第五シンフォニーのモチーフであったばかりでなく、ベートーヴェンが生涯を通して何度も使用したモチーフでした。

一方、テーマ(主題)は、モチーフと同じ意味合いで使われる場合もあるが、小林秀雄が「これが第五のテーマであり、モチーフだった」と言ったときの「テーマ」は、単に楽曲を構成する音楽的単位としての主題のことではなかったでしょう。それは、「運命はこのように扉を叩くのだ」とベートーヴェンが語ったというような意味での、この音楽に刻印された、あるいはこの音楽が喚起するところの、或る人間的主題としての「テーマ」のことだったでしょう。そしてその「テーマ」は、第五シンフォニーのテーマであっただけでなく、ベートーヴェンという芸術家が生涯を賭して対峙し続けたテーマでもあった。ですから小林秀雄は、「これがベートーヴェンのモチーフであり、テーマだった」と言ってもよかったのです。いや、実際には彼はそう言ったのではないかと思う。つまり小林秀雄が言った「テーマ」とは、「詩人としてのイデー」のことなのであり、「文学と人生」で言われた言葉で言えば、その作家が持つ「トーン」、そして若い頃の彼の言葉で言えば、「作者の宿命の主調低音」のことなのです。

 

芸術家のどんなに純粋な仕事でも、科学者が純粋な水と呼ぶ意味で純粋なものはない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思う処を抽象する事が出来る、と言う事は又何物を抽象しても何物かが残るという事だ。この豊富性の裡を彷徨して、私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる、その途端、不思議な角度から、新しい思想の断片が私を見る。見られたが最後、断片はもはや断片ではない、忽ち拡大して、今了解した私の思想を呑んで了うという事が起る。この彷徨は恰も解析によって己れの姿を捕えようとする彷徨に等しい。こうして私は、私の解析の眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきくのである。(「様々なる意匠」)

 

「主調」とは、第五シンフォニーの主調がハ短調であるように、その曲を貫く「主な調性」のことです。とくに近代以降の音楽では、純粋に一つの調性だけで曲が成り立っていることは例外で、第五シンフォニーにしてもハ短調以外の楽章もあり、第一楽章の中だけでいっても他の調性に転調することがある。それでも全体としてみれば、この音楽にもっとも支配的な調性はハ短調であることから、それをこの曲の主調と呼ぶわけです。一方、小林秀雄の言う「主調低音」とは、一つの作品を貫く「主な調べ」のことだけを言うのではない。その作者が生み出したすべての作品、すべての調べにおいてその一番の方で鳴っている、言わば「作者を貫く主な調べ」をいうのです。そしてそれが、その作者の「宿命」であるというのです。

「主調」も「低音」も一般的な言葉だが、「主調低音」という言葉はおそらく小林秀雄の造語でしょう。これは私の想像だが、彼は、この「作者の宿命の主調低音」というフレーズを、ベートーヴェンの第五シンフォニーから思いついたのではないかと思う。少なくともこのフレーズがもっとも似つかわしい「作者」は、東西古今ベートーヴェンを於いて他になく、またその音楽的シンボルとして、「運命交響曲」というハ短調アレグロ・コン・ブリオ以上にふさわしい調べはないはずです。

この「作者の宿命の主調低音」という彼の有名な言葉は、意外なことに上掲の文壇デビュー作を除けば、それ以前に書かれた二つの文章(「ランボオ Ⅰ」と「測鉛 Ⅱ」)に登場するだけですが、小林秀雄という批評家が、一貫して「作者の宿命の主調低音」に耳を澄まし続けた人であったことは間違いありません。また彼は、様々な言い方でそのことを語り続けました。たとえば次の一節は、本居宣長とともに最も長い時間をかけたドストエフスキーについての最初の大きな仕事である「ドストエフスキイの生活」の出版直前に書かれたものです。「今はじめて批評文に於いて、ものを創る喜びを感じている」と自ら語った「ドストエフスキイの生活」は、彼が「作者の宿命の主調低音」をきくために身をもって「彷徨」し、「眩暈」した最初の仕事であったと言えますが、この一節は、その彼の「経験」をもっともわかりやすく噛み砕いて語ったものとも思われるので、少し長いが読んでみましょう。

 

一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。

そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々な事を試み、いろいろな事を考えていたかが解る。彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなに沢山の思想を犠牲にした結果、生れたものであるかが納得出来る。単純に考えていたその作家の姿などはこの人にこんな言葉があったのか、こんな思想があったのかという驚きで、滅茶々々になって了うであろう。その作家の性格とか、個性とかいうものは、もはや表面の処に判然と見えるという様なものではなく、いよいよ奥の方の深い小暗い処に、手探りで捜さねばならぬものの様に思われて来るだろう。

僕は、理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしている内に、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了うと、その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる。

これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。(「読書について」)

 

小林秀雄が言った「作者の宿命の主調低音」とは、「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握った」というその「手」のことです。作品の奥の方にいる「人」のことです。そしてその「人」は、作品を生み出した実在の作者という意味での「人」なのではない。それは、「詩人としてのイデー」なのであり、その「イデー」を、彼は一つの「トーン」として批評家だったのです。

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。