『2位じゃだめなんですか?』

荻野 徹

小林秀雄の『本居宣長』を読んではおしゃべりをするのが楽しみの4人組。一人が何かを読みふけっている。

 

生意気な青年(以下「青年」) なに読んでるの?

元気のいい娘(以下「娘」) 小林秀雄先生の文壇デビュー作。

青年 『様々なる意匠』だね。

娘 これ、2位だったのね。

青年 そう。『改造』という雑誌の懸賞論文、昭和4年(1929)のことだけど、その二席だった。

娘 小林先生の上をいく作品があったなんて。

青年 宮本顕治という人の『「敗北」の文学―芥川龍之介氏の文学について―』という評論ですね。

凡庸な男(以下「男」) そうだ、ミヤケンだったね。

娘 知ってるの?

男 昭和30年代生まれの僕らとか、その上の世代にとっては、有名な人だよ。政治家としてね。代々木の、いや日本共産党の指導者として長かった。でもこの論文は、小林秀雄を差し置いて一席だったという話だけは有名だけど、いま読む人いるのかな。だいたい、昭和初年や、戦後しばらく盛んだったというプロレタリア文学運動というのが、僕らの世代ですら、もはやピンとこないしね。

青年 それで、ちょっと、怖いもの見たさで、読んでみたんです。

江戸紫が似合う女(以下「女」) あら、正しい学習の仕方とか、決まっているんじゃなくて。

青年 脅かさないでください。

女 で、独習の成果ございました?

青年 ええ、途中までは、なかなか読ませる作家論、芥川論なんですが、最後の方になって「小ブルジョア・インテリゲンチアの痛哭つうこくをそこにみなぎらせている」とか言い出すんです。(注1)

娘 小ブルジョア?インテリゲンチア?

男 プチブルとか、小市民とか、もう死語なのかな。資本家と労働者の中間の階級に属する人々。労働者とともに資本家と戦うべきなのに、そこそこの暮らしをしているため、政治意識が保守的になる。インテリゲンチアは、今でいうインテリ。合わせて、小賢しい日和見主義者みたいな感じかな。

青年 人間社会に不幸は絶えないが、だからと言って、社会全体のため闘うのではなく、自己に絶望したとかいって内向するのは、属する階級に由来する弱さだと非難するんです。「我々は氏の文学にされた階級的烙印らくいんを明確に認識しなければならない」とか「階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」とかいって(注1)。

娘 だから、「敗北」の文学っていうタイトルなんだね、理屈はよく分かんないけど。

青年 この宮本論文は、それほどでもないんですが。ついでに、同じころ有名だった蔵原惟人とか平林初之輔というあたりを、恐る恐る眺めてみると、いきなり「文学(芸術)は党のものとならなければならない」というレーニンの引用で始まるとか(注2)、「『古池や蛙飛び込む水の音』という芭蕉の句は、マルクス主義的評価によれば、価値は零である」(注3)と言ってのけるとか。ちょっとついていけません。

男 でも、小林先生がデビューした頃って、こういう言論がそれなりの支持を得ていたんだろうね。

娘 だからって、小林先生が2位じゃだめだよ。

男 確かに、いま読むと、ミヤケンたちのはイデオロギーに傾斜した強引な議論だね。

娘 えっ、イデオロギー?

男 まあ、厳密な定義は知らんけど、マルクス主義でいえば、マルクスの学説そのものではなく、マルクス主義革命の指導理念というかというか、運動の考え方みたいなものかな。

娘 運動?

男 そう。革命を目指すんだから、一人じゃできない。階級と階級の闘いなんだ。人々を奮い立たせ、目的を共にし、集団的に政治的に意味のある何かを実行していく。そういう運動を進めるため、集団が共有する考え方が、イデオロギーということかな。

娘 思想という言葉と、どう違うわけ。

青年 思想という言葉は、もともとは、心に浮かんだ考えくらいの意味ですよね。そこからさらに、人生や社会、政治に対する一つのまとまった考えの意味でも使われる。末法思想とか、反体制思想とか、危険思想とか。

男 だんだん政治の色がついてくるね。だから、思想というとイデオロギー的なものを連想するのは仕方ない面もあるけど、もともとは、集団ではなく個人の、他者に働きかける運動ではなく内面的で反省的な、思いや考えといった意味じゃないかな。

娘 小林先生の『本居宣長』には、宣長さんの「思想」という言葉が沢山出て来るけど、これはどうなのかな。

女 そこは要注意ですわ。宣長さんという「誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった」と書かれているでしょう(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集39頁。以下引用は同作品集から)。

娘 ええと、宣長さん自身の考えや、思いということだね。

青年 イデオロギー的なもの、たとえば、国学の運動や、皇国思想とか、国粋主義なんかはどれも関係ないということですね。

女 そうね。

娘 じゃあ簡単だね。普通に受け取ればいいんじゃないの。

女 そうでもないの。宣長さんの「思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた」とも書かれているでしょう(第27集39頁)。

娘 困難って、なんだろう。

男 宣長さんは、幅広い分野について深く考え、独創的な見解を多数著作として残した大学者だね。だから、後世の学者の研究の対象になるんだな。

青年 研究というからには、まず、宣長さんの論述をいくつかの要素に分解し、分類整理し、抽象化し、その学者なりの考えで、宣長さんの議論の進め方や組み立て方、いわゆる論理構造はこうだと仮定する。そして、その論理構造に沿った形で再構築された宣長学説を、それ以前や同時代、さらに後代の他の学者の学説と比較し、相互の影響関係を論じ、宣長学説は、このようにして生まれ、このような形式と内容を持ち、このように継承されていった、という風にまとめてしまうんですね。

男 でもそれは、普通の学問で用いられる方法だよね。環境という原因から思想という結果を導こうとする方法も、珍しくないよ。

女 だからこそ問題なんですわ。そういう方法を取ることで、抽象化しにくいことや構造化しにくいことは、見えにくくなる、あるいは、考えられなくなる。方法が研究者の思考を縛ってしまうのね。

青年 それが「思想構造という抽象的怪物との悪闘」というやつですかね。

娘 小林先生は、どうなの。

女 先生は、思想構造を抽き出そうなどとはせず、「自分はこのように考えるという、宣長の肉声」(第27集40頁)に、ただ、耳を傾ける。

娘 宣長さんの声? どうやって聞くの?

女 宣長さんの仕事を、「『さかしら事』は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る」(第27集52頁)と仰る。

娘 さかしら事?

女 宣長さんは、「物まなびの力」つまり学問だけを信じていて、学問という大きな力の中に小さな自分が浸っているという意識でいた。というのは、そうね、自分の知力で新しい理論を打ち立てて、新しい解釈を主張するということかしら。宣長さんは、そういうことには手を出さず、ただひたすら、いにしえふみを味読していたのですわ。

男 無私の精神で学問に臨むというわけだね。そういう宣長さんの学問の成果が宣長さんのだというのは、どういうことかな?

女 小林先生は、宣長さんの日記を読み、「彼の裡に深く隠れている或るもの」を想像し、これこそが、宣長さんの「自己」であり、宣長さんの思想的作品の独自の魅力の源泉であるとお考えのようね。宣長さんの作品には宣長さんならでは魅力が自ずと現れる。それを、小林先生は、宣長さんの告白として捉えていらっしゃるのではないかしら。

男 このあたりのことを、先生は「直知している」と書かれているね(第27集59頁)。

女 宣長さんの生涯にわたるいろいろな作品と向き合い、ご自身の直知について、宣長さんに質問をされている。『本居宣長』という書物全体が、小林先生の自問自答なのかもしれませんわ。

青年 おやおや、ずいぶんと大上段に。

女 そうね、ちょっと恥ずかしいわ。でも、宣長さんの思想や、それに耳を傾ける小林先生の思想が、時代の状況に左右されるイデオロギー的なものと縁遠いというとこは、間違いないでしょう。

娘 それじゃさ、いま懸賞論文があったら、小林論文が一等賞だね。

男 さあ、どうだろう。往時のマルクス主義も、貧しい者を救うという道徳的な正しさだけでなく、「すべての歴史は階級闘争の歴史である」みたいに、人間の社会や歴史のすべてを論理的・整合的に説明してしまう世界観としての迫力があるから、若い人の気持ちを摑んだ。今でも、人類の長い歴史の積み重ねをひっくり返して、人々の価値観を一新させるような議論が持てはやされるんじゃないかな。

女 流行の最先端であるとか、最大多数に支持されているとか、そういうことが思想の価値を決めるのではないということですわ。

娘 「2位じゃだめ」じゃないということだね。

 

4人の話は、取り留めもなく、続いていく。

 

 

(注1)宮本顕治『「敗北」の文学―芥川龍之介氏の文学について―』。引用は小学館刊『昭和文学全集』第33巻(随筆評論集Ⅰ)から。(注2)および(注3)も同じ。

(注2)蔵原惟人『「ナップ」芸術家の新しい任務―共産主義芸術の確立へ―』

(注3)平林初之輔『政治的価値と芸術的価値 マルクス主義文学理論の再吟味』

 

(了)