ボードレールと「近代絵画」Ⅲ
―「エヂプト」の衝撃

坂口 慶樹

私が青空に君臨する姿は、さながら、不可解なスフィンクス。
私は、雪の心を、白鳥の白さに結び合わせる。
線を動かす運動は、私の忌みきらうところ、
ついぞ泣きもせねば、笑いもせぬ、この私。

シャルル・ボードレール

「美 La Beauté」、『悪の華』より(*1)

 

1953年2月、小林秀雄先生は、エジプト奥地の砂漠にある神殿やピラミッドなどの遺跡を巡った。「ギリシア・エヂプト写真紀行」では、ルクソール神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿、サッカラの階段ピラミッドなど、生れて初めて扱ったニコンのカメラで撮影された写真も見ることができる。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)

旅の記録は、文章のみでも残されており、ナイル川(*2)と建築・彫刻類が、とりわけ印象的だったようである。まずは、ナイル川について―「肥沃なナイルの流域と漠然と考えて来たが、とんでもないことだ。緑の麦畑と気味悪く赤茶けた砂漠との境界線は、ただただ使用可能なナイルの水の量ではっきりと定まるのである。もう一杯バケツの水があれば砂漠に向ってもう一本麦を植えることが出来る。町の街路樹も芝生も、緑のものはことごとく、ナイルから引かれた鉄管による、絶え間ない散水によって生きている。砂漠との戦いは五千年以来同じように続いている」(「エヂプトにて」、同20集)。

続いて、古代エジプト人による建築・彫刻について―「彼等は、よく均衡のとれた健全な感覚で、正直に、ごく当たり前なものを作ったに相違ない。僕は、エヂプトの建築や彫刻に、不気味な、人を威圧するようなものを想像して来たが、ややグロテスクな感じのあるものはごくごく少数の例外であって、すべては、真面目で、静かで、優しいのである。ピラミッドの強い大きな直線から墓の壁面に描かれた小さな魚や踊子の線に至るまで、同じ精神が一貫している」(同)。 

さらには、建築・彫刻などエジプト芸術が語りかけて来るものは、「ナイル一本にすがって、他の世界を知らずに生きつづけて来て、完全に表現を終えて滅んだ民族の心だな。あんなに単純で力強く、完全な様式が、あんなに長い間一貫して継続したという事は、芸術史上他にない」と、感慨深げに語っている(「美の行脚」、同21集所収)。

小林先生が現地で直観されたように、エジプトでは古代から、国土の約九割が砂漠のため、彼の地で日々の生活を営む人々の生殺与奪の権は、すべてをナイル川が握っていた。毎年繰り返される氾濫により沈泥シルトが堆積すると、畑は肥沃な土地として新たに蘇る。加えて、灌漑用の水源、南北を結ぶ主要交通路、食料となる魚の宝庫、さらには建築構造物たる日干し煉瓦の素材となる大量の泥の供給源としても利用し尽くされた。実際に使われた暦も、ナイルの動きを基準として、氾濫期アケトから始まり、水が引き堆積土に満たされた沿岸の土地に種を撒く播種期ペレト、家族総出で刈り入れを行う収穫期シェムゥの三期に分かれていた。

まさにすべては、ナイルの賜物であった半面、上流地域での降水量によっては、干ばつや大洪水に見舞われることもあれば、落ちて急流に流されたり、水草に絡まり水死することもあった。流域で共存する動物もやっかいな存在であった。獰猛なワニやカバに襲われることも多く、東風が運ぶイナゴの大群、ウズラなど野鳥の大群の襲来も大きな悩みの種であったようだ。(*3、4)

 

ところが、先生の感慨はそれだけに留まらなかった。エジプトの空港からギリシアに飛ぶと、着いたその日にアクロポリスに登った。その際、「エジプトとギリシアの美の姿の相異について、を経験した」と言っているのである。(「ピラミッドⅡ」、同24集所収)

 

 

その「非常に激しい感覚」を、帰国後の小林先生の胸に、まざまざと蘇らせたものこそ、ヴォリンゲルによる著作「抽象と感情移入」(*5)であった。先生は、そこに「当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして」、「美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人の叫びのようなものが」(同前)感じられたと言っている。

ヴォリンゲルによれば、近代美学は、対象の形式からではなく、対象を観照する者の主観の態度から出発する方に理論の重点が移り、感情移入説で頂点に達した。この説は、リップス(*6)によって包括化され、その内容は「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(同)であり、「美的享受は客観化された自己享受である」という言葉で、簡潔に表現された。

彼は、その感情移入説が、時代と場所を問わず常に芸術的創造の前提であったとは言えないという立場を取り、むしろ人間の抽象衝動から出発する。ここで抽象衝動とは、生命を否定する無機的なもの、結晶的なもののうちに、より一般的にいえば、あらゆる抽象的な合法則性と必然性のうちに美を見出すことを言う。言い換えれば、「感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているのに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生まれた結果」であって、これこそ、あらゆる芸術の初期に出現するものと確信し、その次の段階として感情移入に移行していくこともあり得よう、そう考えたのである(「抽象と感情移入」)。

そこで原始民族は、「混沌不測にして変化極りなき外界現象に悩まされ」、「無限な安静の要求を持つに至った」。換言すれば、「外界の個物をその恣意性と外的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによってし、それによって現象の流れのうちに」(同、傍点筆者)に至ったのである。ヴォリンゲルは、その永遠化や静止点を見出すことの具体的な成果物として、描写が平面化されたエジプトの浮彫や、観照者がその前に立つと二等辺三角形の鋭く区切られた面のみが見えるピラミッドに見、叫んだ。同様に小林先生も、叫ぶがごとくに書いている。

「ロマンチストのルッソオ(*7)が考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、製作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」(「ピラミッドⅡ」)。

 

そんなヴォリンゲルの理論について、小林先生は、画家ゴーガンと同じ身振りから出たものだということを、次のような言葉で述べている。

「ゴーガンは絵画上の自然主義が、印象主義という形で行詰った時、当代文明に対する嫌悪の赴くがままに、何処に連れて行かれるかも知らず、原始芸術に突破口を見附けた。……美的享受とは、客観化された自己享受であるという考えが通念化されて、美に関する常識的な自己満足のうちに行詰った時、また、そういう考えを生んだ、人間中心の、思い上がった合理主義の世界観の行詰りを感じた時、彼(坂口注;ヴォリンゲル)にその突破口を教えたものは、今更のように彼の驚きを新たにしたピラミッドの姿であった。それは彼に、美は己惚うぬぼれ鏡ではないことを、はっきり語っていた。砂漠の中に、屹立したその客観的な様式は、人間と自然とのもっとも切実な、もっと根源的な対決の経験から、美が生まれた事を語っていた」。(同)

 

 

さて、「近代絵画」(同、第22集所収)の冒頭において、小林先生は、近代絵画の運動を「画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」と定義付け、そのように、題材の語る言葉よりも、物言わぬ色彩や形の魅力に向けて発展するであろうという、ボードレールの予言について書いている。それは、彼が「詩は単に詩であれば足りる」ことを直覚したうえで、同様に、画壇においても「絵画は絵画であれば足りる」という先駆的な画家が出現し始めていることを直観したということでもあった。そこで、小林先生は、ヴォリンゲルの抽象衝動仮説は、ボードレールの言わんとした、芸術意欲の自律性、純粋性の上に立っている、と言うのである。

ならばボードレールは、一体何に対して、どのような不安や恐怖を覚えたのであろうか、加えてそれらへの「静止点」をどこに見出したのであろうか、前々稿から引き続き、小林先生の恩師、辰野ゆたか氏の「ボオドレエル研究序説」を座右に置いて見て行きたい。

 

フランスの四大浪漫派詩人中の一人であるヴィニー(*8)は、「『牧人の家』の一節において、自然をして、『人は我を母と呼ぶ、されど我は墓なり』と云わしめた。自然は偉大である。然し冷酷である。人間の如何に悲痛な叫びにも断じて耳を傾けず、人間の苦悩を見ようともしない。『傲然ごうぜんとして巡る自然は蟻の群れの如き人類を決して顧みない』」。辰野氏は、ボードレールが、自然というものに対してヴィニーの衣鉢を伝えていると思う、と述べたあと、このように続けている。

「彼(坂口注;ボードレール)は水のように澄んだ晩秋の空を眺め、かもめのように白帆しらほの浮ぶ海原を見渡しながら、茫漠たる快感の裡に恐るべき力を認め、如何なる『感』にも勝る『無限感』の鋒鋩ほうぼう(坂口注;刃物の切先)の鋭さを痛感して、

ああ、芸術家は永遠に苦悩するのか。然らずば、永遠に美を回避しなければならぬのか。自然よ、慈悲を知らぬ美しき妖女、常に勝ちほこる敵、我を放せ、我が欲望と自矜じきょうとを誘惑いざなうことをめよ。美の探求は汝と闘う芸術家が、敗るるに先だって揚ぐる悲鳴である

と歎いた(散文詩「芸術家の祈り Le Confiteor de l’artiste」)」

 

さらに、彼の詩作に現れた風景について、このように述べるのである。

「彼が想像力をたくましくするに従って、自然の生命が漸く稀薄になり行き、醒めた風景が次第に眠りに赴くが如くに思われる。……ボオドレエルは自然の有する狂暴なる生命を怖れ憎むが故に、その生命を出来る限り弱めて、自然の形式の美のみを極力味わんと欲したのである。彼は遂に『美』(坂口注;冒頭エピグラフに抜粋提示)をして『我は石の夢の如く美し……我は線の位置を移すうごきむ』と叫ばしむるに至った。『線の位置を移す動を忌む』事は、生命を憎む事に他ならない。生命を有せざる自然はボオドレエルには限りなく美しく眺められたのである」。

これこそまさに、ボードレールが苦悩するなかで見出した「静止点」であったのか。

それは、彼が咬出かみだした詩そのものであった。

 

―自然は一宇の露堂にして、生ある柱
時ありて 幽玄の語を洩らす、
人、象徴の森を辿りて、かの堂に入れば、
森は慈眼にして人を目送もくそう

「交感 Correspondances」(「悪の華」より、辰野隆訳)

 

 

「近代絵画」に話を戻そう。小林先生が、ヴォリンゲルが言うところの「抽象」から生まれる、「本質的に装飾的なもの」、換言すれば、各自がそれぞれの「静止点」として見出したところについて言及しているのは、ゴーガンによる「無私な直覚」に留まらない。

セザンヌについては、「感情移入の道を果てまで歩いた事について、独特の体験を持っていたに違いない様に思われる。は、彼の凝視の裡に、自ら姿を現したのである」(傍点筆者)と書いている。セザンヌが、ヴェルナールという画家に宛てた手紙にある「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」という、巷間では既に本意を離れて教条化してしまっているような言葉があるが、それは知的に頭の中で編み出されたものではなく、先駆者の孤独を賭けた、苦行のような修練の末に姿を現しえたものであることが、改めて実感できよう。

ゴッホについても、「恐らく、彼の執拗な自然観察は、その限度まで達したのであり、ヤスパースが言う様に、存在のある根源的な疑わしさの経験が、彼を驚かしたのは間違いない様である。彼は、視覚経験の上での、何か汚れのないプリミティヴィスムとも言う様なものに捕えられて、が、其処に、必然的に現れて来る」(傍点筆者)と言っている。確かに、この孤独な独習画家が「糸杉」の画について弟テオドールに宛てた手紙に、こんな言葉があった。「僕の考えは糸杉でいつも一杯だ。向日葵のカンヴァスの様なものを、糸杉で作り上げたいと思っている。僕が現に見ている様には、未だ誰も糸杉を描いたものがないという事が、僕を呆れさせるからだ。線といい、均衡といい、エヂプトのオベリスクの様に美しい」(No569、「ゴッホの手紙」、同20集所収)。(*9)

 

最後に、擱筆にあたり留意しておきたいことが二つある。

一つは、小林先生が、ヴォリンゲルの抽象衝動仮説を無二の教条の如くにして、すべてを説明しようとしたわけではない、ということである。先生はむしろ、一日のうちにエジプトからギリシャに飛んだことで覚えた「非常に激しい感覚」、その衝撃と重なり合う彼の仮説の真髄を、あくまで補助線として引くことで、ボードレールが予言したことを、画家一人ひとりがその気質に応じて演じ切った人間劇を、より立体的に、より深い処で、読者に体感してもらおうと意図していたのではなかっただろうか。

 

そしてもう一つ、この仮説の真髄は、小林先生が若い頃から体感体得していた感覚とも、強く響き合っていたように思われる。

「『大海の無感覚に反感を起こさせる』と言ったがボードレルをひとえにデカダン(*10)とけなす者は、先ず自分のさつま芋のような神経が、自然の美をつかんで居るか如何か確かめるがよろしい。ボードレルは自然の美の鋭さに堪え切れなかったに過ぎぬ。情緒の色眼鏡なんかで、自然の美を胡麻化そうとする処に自然描写の失敗がある」。

 

小林秀雄、二十二歳の時の独白である(「断片十二」、同1集所収)。

 

 

(*1)阿部良雄訳、ちくま文庫

(*2)長さ6,650km。ビクトリア湖を水源とする白ナイルと、エチオピアのアビシニア高原のタナ湖から流れ出す青ナイルが、ハルツーム付近で合流し、いくつも急流を経て地中海に注ぐ大河。

(*3)吉村作治「貴族の墓のミイラたち」平凡社ライブラリー

(*4)ドナルド・P・ライアン「古代エジプト人の24時間」、大城道則監修、市川恵里訳、河出書房新社。ちなみに、古代エジプト人は、ミイラ作りにおいて、肉体と知性と感情の中心である心臓だけをそのまま残した。その心臓は、死後の審判の場で、真理と不変の調和たる「アマト」の羽根と天秤にかけられる。そこで両者が釣り合わなければ、ワニの頭に豹の体、カバの足を持つ、怪物アムムトの餌食となってしまうと考えられていた。

(*5)ヴォリンゲル(Wilhelm Woringer)「抽象と感情移入―西洋芸術と東洋芸術」、草薙正夫訳、岩波文庫。原著初版は、1908年出版。ヴォリンゲルは美術史家。1881-1965年

(*6)Theodor Lipps ドイツの心理学者。1851-1914年。

(*7)Jean-Jacques Rousseau フランスの啓蒙思想家。1712-1778年。

(*8)Alfred de Vigny フランスの詩人、1797-1863年。「牧人の家 La Maison du Berger」 は詩集『運命』所収。

(*9)ピカソについての言及は、拙稿「ピカソの『問題性』」(本誌2020年冬号)を参照されたい。

(*10)décadent(仏語)、退廃的な。

 

【備考】

坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ―我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅱ―不羈独立の人間劇」、同2021年春号

同「「セザンヌの『実現レアリザシオン』、リルケの沈黙」、同2020年1・2月号

同「のがれるゴーガンの『直覚』」、同2020年5・6月号

同「ピカソの『問題性』」、同2020年秋号

(了)