続『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ

石川 則夫

1 柳田国男の歴史観

 

この4月、ある新聞の投書欄に眼が止まった。

 

ぽかぽかしたとても暖かな春の日。たしか小学3年生。1年から担任だった大好きな男の先生の家庭訪問がとても待ち遠しかったあの日。

庭には真っ白なユキヤナギの花がしだれ咲き、黄色いスイセンの花もたくさん。いくつもの小さなガラスの空き瓶にこの2種類の花を挿し、門から庭を通って縁側まで先生が歩くだろう両側に、位置を何度も確認しながら並べました。そうすることがとてもうれしかったのです。

私の父は、私が生まれて13日後に戦死。34歳でした。茶の間に飾られていた、コスモスの花に囲まれ笑う軍服姿の写真。私のお父さんなんだなーと一人で時々眺めていましたが、寂しさや悲しさはありませんでした。母の苦労とぬくもり、姉と兄の優しさは感じていました。

先生はいつも腰に手ぬぐいをぶら下げて、眼鏡の下の汗をふきふき。腰をかがめて小さな私たちと一緒にお遊戯、鬼ごっこなどを真剣にしてくださいました。私にとっては父の代わりだったのだと思います。

あの日の光景、先生の笑顔。かけがえのない幸せな思い出なのです。

(「朝日新聞」声 4/10)

 

今年75歳になる女性の文章である。「春」をテーマにした投書欄であったが、この文章の見出しは「先生の通る道、花を飾り待った」とあった。書き手の年齢から察するに戦後しばらく経った昭和20年代の終わり頃であろうか。この見出しを見て、読み出した時、ハッとした。そして、ああ、これが柳田国男の言う<歴史>なのだと感動したのである。この当時の小学3年生の子供の仕草とその気持ちの中に『先祖の話』は生きていると感じ入り、そうか、こういうかたちである人の言葉、文章の中に忽然として心意は顕れるのか、伝承とはそういうものだったか。そしてこのように具体的な行為や表現として形になるのが柳田国男の描き出した<歴史>というものなのだ、と思った。しかし、正確に言えば、この投書を読んですぐそこまで了解したわけではなかった。

いつも気になる記事は切り抜いておくのだが、この文章は読み捨てただけで新聞は処分してしまった。しかし、後々まで心に残り、気になってしかたがない。前稿を書き終えてその続きをと思っていた頃だったせいか、もう一度読んでおきたく図書館で新聞のバックナンバーを閲覧して再確認できた次第である。

さて、この問題提起について、前稿で記したところを再掲し、もう一度確認しておきたい。

柳田の想像力は、暦というものがまだ行き届かない昔へ、日本全国どこへ行っても1月1日の元旦という特別な日を迎えて年が改まる、という共通認識に至っていなかった暮らしの中の人間へと舵を切って進んで行く。暦の制定と普及とは極めて政治的なしくみの中で強制される最たるもので、これが人々の生きる時間を意識的に制御し、支配していく社会構造をもたらす始原であることも明瞭である。この時間の観念を制度化した暦の下で、何々時代、何世紀、何年のどの地域ではこうした葬送儀礼や年中行事が行われており、それがどのような過程によってこう変化したとか、こう改まったなどと、歴史的時間のそこここに民間習俗を印しづける、そういう歴史的考察を柳田は行ってはいない。したがって、取り上げられたある習俗や祭りの形式が日本全国の時間的な垂直方向、空間的な水平方向に必ずしも整序されているわけではない。多くの事例に垣間見られる幾つかの切片が組み合わされることで、その先に浮かび上がる人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在が、柳田国男の考える歴史なのではなかろうか。

つまり、先の投書をそのまま読めば、遥か昔の小学生時代、父親のいない自分にとって、今から思えば父親の代わりであったような存在として回想される先生、慕わしく憧れていた教員が家庭訪問に来てくれる時を楽しみに待ち望み、そのまま家で待っているだけでは気が済まなかった思いを改めて確かめている文章となる。しかし、その待ち焦がれた先生が我が家の玄関からそこで腰掛けて談話をするはずの縁側まで、その道筋の両側を、自ら手折った花々を飾っていった。その所作には、尊い人を我が家へお迎えする最大限の歓迎の心持ちがこもっていたことは紛れもないが、「そうすることがとてもうれしかった」という感性の記憶をそのままに記しているところに感じ入るものがあった。この子供には何故だか分からないながらも、そうせざるを得なかったという、いわば身体が自然にそうすることを促し、自分はただその動きに従っていたというような思いが見え隠れしていると思うのだ。これを、尊い存在を歓待する所作、喜んで迎え入れようとする思いの現れであり、誰かがそうすることを教えたわけでもないという無意識の所作であったことに焦点を当てるなら、この子供が咲き誇っている花々を手折り、小さな瓶に挿しながら、迎え入れる道を一所懸命に飾っていく姿の向こう側に、『先祖の話』で柳田が見出していった行事と作法に思い及ぶのである。

たとえば、かつて正月前後に行われた行事に「松迎え」と言われるものがあり、いわゆる松飾りの起源としてこれを柳田は注視し、「明きの方の山から」松の木を迎える所作を次のように記している。

 

山ではこの木と思うものに神酒を供え、新しい縄を持参して丁寧に背負うて来る慎みだけは、年の若い年男たちも皆持っている。松は屋敷うちの最も清浄な場所に横にして置き、これを休ませると言って、この時も神酒を上げる家があった。そうしていよいよこれを立てるに先立って、ほどよいところから下を削り尖らせることを、お松様の足を洗うなどと言っているのである。

(二一 盆と正月との類似)

 

これに対して盆の行事としては、「明きの方」すなわちお迎えする吉方ということと、「松その他の縁の木の利用が無いこと」という差異は認められるものの、「盆花採り」という行事が見られるという。

 

盆花採りといって、山に登っていろいろの季節の花を手折り、それをきまって盆棚の飾りにしているのである。その日は十一日という村が多いのは、あまりに早くからでは萎れてしまうためで、それと同一の目的からとも見られるのは、それから数日前に盆道作り、または盆草苅りとも称えて、山の高いところから里へ降りてくる小路を、きれいに掃除をしておく習わしである。

(同)

 

また、盆の祭りに触れて「盆路造り」という作法をこう紹介する。

 

盆草苅りまたは盆路造りということがあった。大抵は七日またはその以前に、山から降りてくる一筋の小径を、村中が共に出て苅り払うので、それと同時に墓薙はかなぎということもするから、これが高いところから石塔のあるあたりまで、みたまの通路をきれいにしておく趣旨であったことが判る。

(五八 無意識の伝承)

 

ここで柳田が注意しているのは、かつての正月の行事と盆の行事が、祖霊を我が家へ迎え入れるための準備であることであったが、そこから祖霊の鎮まっている場所へと考察は移行していく。

 

無難に一生を経過した人々の行き処は、これよりももっと静かで清らかで、この世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、大よそ望み見られるような場所でなければならぬ。少なくともかつてはそのように期待せられていた形跡はなお存する。村の周囲のある秀でた峰の頂から、盆には苅り払い、また山川の流れの岸に魂を迎え、または川上の山から盆花を採って来るなどの風習が、ひろく各地の山村に今も行われているなどもその一つである。

(六六 帰る山)

 

こうして、柳田の筆致は、山から降りて来る先祖の霊魂をどう迎えて来たかというところから、死して後の霊魂が赴くところ、すなわち遥かに望む秀峰への信仰を解き明かす方向へ移って行き、多くの神社の大祭が卯月八日(旧暦4月8日)であることを押さえつつ、その神社の立地条件の共通性を見出して行く。

 

少なくともその目ぼしいものに、背後の霊山の崇敬を負うている御社のあることは事実である。山宮里宮の二つの聖地があって、順次に二所の祭を執り行うものは、その関係が今も明らかであるが、そうでなくとも神渡御の儀式がよく発達していて、祭の最も深い感激が、特に臨時の祭場に御降りを仰ぐ瞬間にあるものが、この日の祭には多いのではないかと思う。

(六七 卯月八日)

 

暦以前の時代の人々にあっては、季節の移り変わりの節目節目に<時間>の経過を感じていたであろうが、新年、年が改まるという実感を味わうのはいつであったか。もちろん、今の正月や旧正月ではないはずで、山宮の祭が卯月に行われることが多い事例から、これを遡上していけば、「それが大昔の新年だったから」(同)という推測が浮かび上がって来る。そして、こうした新年とは、「苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか」(三〇 田の神と山の神)という収穫への期待に満ちた喜びの時であるよりも、実は不安に苛まれるばかりの時であったはずだと柳田は言う。田植えを迎える時、はたしてこの苗が健やかに育っていくかどうか、植え終えてからの太陽と水の恵みを一心に祈願するということは、その人々の親の親のそのまた親へ、すなわち先祖の助力を祈願することに他ならないということなのだ。

こうした祖霊への信仰を想定してみれば、先の投書に見られるのは、尊い存在を我が家へ迎え入れ、歓待するという心性の顕れであり、それが人々の心の深層に残存しているのではないかと、私には思われるのである。

 

2 先祖と共に暮らすこと

 

さて、ここまで随分と時間をかけて『先祖の話』に展開される柳田の思考の動線をたどって来たわけだが、そろそろその結論を描いておきたい、とは言っても前稿に記したように、柳田の文体は、問題の基礎的考察を積み上げて行った末に、論考の最終結論へ至るというような体裁を採っていないので、全81回の記述からそこここに垣間見られる発想の先に浮かぶ光景を、私の読みで切り取り、私の言葉で綴っていくしかない。そのことを承知の上でまとめてみよう。

 

御先祖になるという言葉には、二つのやや違った意味があると言っておいたが、煎じ詰めてみれば二つとも、盆にこうして還って来て、ゆっくりと遊んでいく家を持つようにと、いう意味であることは同じであった。以前はあるいは正月と二度、もしくは彼岸の中日とその他、別に定まった日があったように私は考えるのだが、その点はどうきまろうとも、とにかく毎年少なくとも一回、戻って来て子孫後裔の誰彼と、共に暮らし得られるのが御先祖であった。死後には何らの存在もないものと、考えている人々は言うに及ばず、そうでなくてもそんなことは当てにならぬと、疑っている者にもこれは重要な話ではないだろうが、我々の同胞国民は、いつの世からともなくこれを信じ、また今でもそう思っている人々が相当の数なのである。この信仰の強みは、新たに誰からも説かれ教えられたのでなく、小さい頃からの自然の体験として、父母や祖父母と共にそれを感じて来た点で、若い頃にはしばらく半信半疑の間にあった者でも、年をとって後々のことを考えるようになると、大抵は自分の小さい頃に、見たり聴いたりしていた前の人の話を憶い出して、かなり心強い気持ちになってこれを当てにするようになるのみか、家の中でもそれを受け合うべく、毎年の行事をたゆみなく続けて、もとはその希望を打ち消そうとするような、態度に出ずる者は一人も無かった。すなわちこの信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来たのである。

(六一 自然の体験)

 

「無意識の伝承」が育まれていく過程をこのように極めて簡潔に、しかし力強く描いているが、重要なのはこの過程の内実であって、「暦」以前の人々の生活を思い見た地点から実に長大な時間がここには流れており、その中を貫流する伝えごとが、言葉として、概念として頭へ入っていったのではなく、文字通りに幾多の人々の心身に刻み込まれていったということなのだ。そしてこのことを『先祖の話』の文章の内側に、深さとして想像すること、それが非常に難しいのである。柳田は、読者の想像力を少しでも促していくように、身近な民俗事例の多くを取り上げて言葉を尽くして来たのだった。しかし、大事なことは、「この信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来た」ということで、すなわち、死んだらどこへいくのかという疑問に発する数々の倫理的な問題を言葉で説明することは絶えてなかったということであり、その回答は毎年反復される行事と儀式と所作の中に溶かし込まれて来たということなのである。

たとえば、ここで『本居宣長』の最終回を思い起こせば、「生死の安心」を問われるならば、「安心なきが安心、とでも言うべき逆説が現れる」(『本居宣長』五十回)というところと通い合う問題と改めて気づいてみてもいい。神道に教義がないことは、繰り返し説かれていたところであった。それを、民俗という思想には生活様式としての崩してはならない形はあるが、なぜそうでなければならないかという根拠を説明し、相手を説得する言葉は持っていないと言い換えても構わないことになるだろう。このことは柳田も繰り返し説いて来たところでもあった。

 

私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、恐らくは世の初めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。これがいずれの外来宗教の教理とも、明白に喰い違った重要な点であると思うのだが、どういう上手な説き方をしたものか、二つを突き合わせてどちらが本当かというような論争はついに起こらずに、ただ何となくそこをあけぼのぞめのようにぼかしていた。そんなことをしておけば、こちらが押されるに極まっている。なぜかというと向こうは筆豆の口達者であって、書いたものがいくらでも残って人に読まれ、こちらはただ観念であり、古くからの常識であって、もとは証拠などの少しでも要求せられないことだったからである。

(二三 先祖祭の観念)

 

このように、日本人の祖霊信仰の持ち方、その有り様を通時的な視野において考察し、そこに貫道する動きの断面を、共時的に思い描く時、柳田の摑もうとする<歴史>の姿が降臨して来るのである。それを「死の親しさ」と言い表している。

 

生と死とが絶対の隔絶であることに変わりはなくとも、これには距離と親しさという二つの点が、まだ勘定の中に入っていなかったようで、少なくともこの方面の不安だけは、ほぼ完全に克服し得た時代が我々にはあったのである。

(六四 死の親しさ)

 

ここで言う「時代」も、いわゆる歴史の教科書にあるような何々時代といったものを指すのではもちろんないことは、先に記した通りであるが、祖霊の存在を肌に感じて信じていた人々にとって、死とはどのようなものであったか。

 

日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持ちを、抱いていたということにはいくつもの理由が挙げられる。

(同)

 

と言って、柳田は「四つほどの特に日本的なもの、少なくとも我々の間において、やや著しく現れているらしいもの」を次のように挙げる。

 

第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけではなしに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難でないように思っていたこと、第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代わって、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。

(同)

 

このような構図を想像していくと柳田国男の祖霊観の端的なイメージが得られるのだが、さらにもう一点、これに付け加えるべきことがある。こうしてこの世とあの世の交通が緩やかに連続し、生と死の境界に日を定めて隙間が現れるような経験を共有する生活の中で、この世を去った者がいつまでもその名を呼ばれ、生きていた時の姿をもって顕れるのではないということ。すなわち、かつての家々においては、新たな死者を祀るのは、祖霊を祀っている御霊みたまだなとは異なる仮のたま棚を作って祀るという作法があって、しかし一定の年月が経過すれば、新しい霊魂も祖霊の中に含めて祀るということである。

 

人は亡くなってある年限が過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようである。

(二五 先祖正月)

 

また、一人の死者の弔い上げ、つまり死んでから年忌の終了する期間を調べ、三十三年の法事が済めば「人は神となる」という各地の習俗を挙げてこう論じる。

 

つまりは一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである。

(五一 三十三年目)

 

こうして死者の霊魂が徐々にその個性を脱ぎ捨てて行くことを、柳田特有の言葉で「まわる」と言う。すなわち近代以降の常識が、後生大事にしている個性などというものは実は汚濁に他ならず、死後になれば漸くこの汚れは拭い去られていく、魂全体が澄み切った時、晴れて先祖の霊とひとつに合体していくというのである。

これを現代にも生きている具体的な生活、暮らし方における発想形式と捉えるなら、たとえば、日本の伝統芸能の担い手たちの襲名という作法や、工芸職人等の社会に息づく代替わりのみを名乗る「何代目○○」という同一の名前を受け継いで行く習慣を連想してもいいのであろう。そうした世界にあっては、確かに特定の個人に備わった固有性とは邪魔者以外の何ものでもあるまい。つまり、これは日本文化の基層部を形成する人生観の問題を示唆するが、ここでは補足するに止めておく。

さて、このように『先祖の話』が示唆している日本人の祖霊信仰のあり方を受け入れた後に、この柳田国男のヴィジョンがその奥に垣間見せようとする重要な問題について考えてみなければ、あるいは、柳田の想像力が指し示すその先に拡がる人々の生のありようを摑もうとしなければ、この希有な書物の可能性を引き出したことにはなるまい。『先祖の話』の読了後、私に迫って来る問いとは何か、それは次のように言えばいいだろうか。

このような死生観に立っていた人々の、また、我々の身体にも確かに刻み込まれている<生>とは、現代の我々が現代の社会制度を前提として把握している<生>の姿とはまるで異なるものだったはずだということである。

 

3 時間への思考

 

小林秀雄が書いて来た文章を、全集を通して思い浮かべてみると、その折々に特権的な言葉、つまり様々な作品、文章を通してあちらこちらに思い当たる用語がある。それぞれ異なる対象について言葉を連ねつつ、何回も反復して現れ、そのたび毎に特徴的な強いイメージを喚起する文体を形成している、そういう言葉である。

「歴史」や「言葉」、「姿」、「形」などが思い浮かぶが、「時間」もまた独特な表情を持って使われて来た言葉である。しかし、これらの言葉は、使用されている作品中において各々が固有のイメージに包まれてはいるものの、それらを包み込む文体においては繊細ではあるが強靱な一筋の糸によって結びつけられているように思う。

 

歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。

 ……中略……

上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時いつ如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

 

いまさら出典を記す必要がないほど、人口に膾炙した、作中の文言を借りれば、鎌倉時代の「絵巻物の残闕」のような鮮やかな文体である。そして、ここに溶かし込まれている「時間」という言葉も、「歴史」と「形」とともにここでの色合いを帯びて現れるが、しかし、ここでの「時間」は単一のベクトルに領されており、「歴史」とは対極に位置するものであろう。同じ1942(昭17)年の「ガリア戦記」の末尾にも、「サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る」と使われている。この時期の文章は、『本居宣長』に現れる<時間>への問い、そのプロローグだったかもしれない。いや、実は「人生斫斷家アルチュル・ランボオ」を書き、「千里眼ヴォワイヤン」の思想を摑んだ時から通念的な<時間>を組み替えようとする試みは始められていたと言ってもいいのかもしれない。ともあれ、「無常という事」の一節に表現された、人の生から死へ至る「飴の様に延びた時間」は、死という消滅点を仮構したことによって有限性を帯び、暦、日付、時計によって幾重にも網掛けすることで、生体の死の時に至るまでの詳細かつ客観的な階梯を設計したとも言える。しかしこの時間とは、「現代に於ける最大の妄想」であるならば、これを崩壊させなければ、『本居宣長』における最も難解な箇所へたどり着くことは出来ないと、私には思われるのである。

それは『本居宣長』第四十八回にこう記されている。

 

高天原に、次々に成りす神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、ツギニ何の神、ツギニ何の神とある、そのツギ二という言葉は、―「ソレ縦横タテヨコワキあり、縦は、仮令タトヘば父の後を子のツグたぐひなり、横は、の次にオトの生るゝ類ヒなり、記中にツギニとあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とあるツギニまで、皆同時にして、指続サシツヅ次第ツギツギに成リ坐ること、兄弟の次序ツイデの如し、(父子の次第ツイデの如く、サキノ神の御世過て、次に後ノ神とつゞくには非ず、おもひまがふることナカれ)」、―と言う。「カミ七代ナナヨ」の神々の出現が、古人には、「同時」の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。

神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様よこざまに並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。「天地初発時アメツチノハジメノトキ」と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の「時」は、「天地ノ初発ノ」という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、「時」の縦様の次序は消え、「時」は停止する、とはっきり言うのである。

 

最終の第五十回では、このことを再確認しようと書き方を変えて記している。

 

「神世七代」の伝説ツタエゴトを、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地アメツチ初発ハジメの時」と題する一幅いっぷくの絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。「神世七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。

 

そして、また伊邪那岐命と伊邪那美命が「黄泉比良坂」の「千引石」を挟んで語り合う場面への宣長の註解を踏まえて次のように記している。

 

女神が、その万感を托した一と言に、「天地アメツチ初発ハジメの時」の人達には自明だった生死観は、もう鮮かに浮び上って来たに違いない。彼等の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次ツイデ」は、時間的に「タテ」につづくものではなく、「ヨコ」ざまに並び、「同時」に現れて来るカタチを取って、映じていたのである。

 

この記述の難解さはもはや指摘するまでもないだろう。そして、私が柳田国男の『山宮考』から『先祖の話』まで引きずって来たこだわりは、我々の心身の奥底までも支配し、制御している<時間>という思想を如何にして崩していくかというところにあったのである。

さて、このことは次稿に展開、拡張していきたい。そして、ここまで執拗に読み続けてきた『先祖の話』について一通りの記述を終えたことに安堵しつつ、その締めくくりと言ってもいいような一文を掲げて本稿を終えよう。これもたまたま眼にした新聞の投書の一部である。書き手は68歳になる方であった。

 

妻と孫と一緒に近くの川にホタルを見にいきました。歩く途中、竹やぶの横から白く光るものが近寄ってきました。ホタルでした。

川辺からちょっと離れて迷ったのでしょうか。光は消えずに、ふわふわ、ゆらゆらと、私たちに向かってきます。妻が手を差し出すと右手の小指にとまり、二度三度、光を放ちました。私たちはしばらく、その光とともに歩きました。

少し手を揺らすくらいではホタルは離れません。孫は「指輪みたいでキレイだね」とうれしそうです。川に着いて橋の上から「飛んでいけ」と促しても、そのままです。その姿に、昨年末と今年初めに旅立った義父母の姿を感じました。私には2人の魂がそこにいるように見えました。

橋にはたくさんの人。川面を映す光にため息がもれています。すると、妻の指にとまっていたホタルがふと飛び上がりました。そして仲間が待つ川辺ではなく、夜空に上っていきました。遠く消えていく光を追いながら、魂への感謝と社会の安寧を祈っていました。

(「朝日新聞」声6/24)

 

同様な経験を持つ人も多いのではないかと思うが、本誌の読者の皆さんには、きっと思い当たる文章をよくご存じのことと思う。

 

(つづく)