本居宣長は、「古事記伝」の冒頭(一之巻)で、このように言っている。「此記(筆者注;『古事記』)の優れる事をいはむには、先ヅ上ツ代に書籍と云物なくして、ただ人の口に言伝へたらむ事は、必ズ書紀の文の如くには非ずて、此記の詞のごとくにぞ有けむ」。つまり、まだ文字というものがなかった上ツ代、いわゆる上古の時代、人々が口伝えしてきた言葉は、「日本書紀」ではなく「古事記」の詞のようであった、その点で「古事記」に軍配を上げたい、そう言い切るのである。
そんな「古事記」で目に付くのが、あまたの神の御名である。例えば、新潮社刊「日本古典集成」版には、巻末に三百二十一柱にも及ぶ神名の釈義が付されている。具体例を示そう。
・ 大綿津見の神:「偉大な、海の神霊」
・ 正鹿山津見の神:「正真正銘の、山の神霊」
・ 正勝吾勝々速日天之忍穂耳の命:「まさしく立派に私は勝った、勝利の敏速な霊力のある、高天の原直系の、威圧的な、稲穂の神霊」
・ 建比良鳥の命:「勇敢な、異郷への境界を飛ぶ鳥」
・ 木花之佐久夜毗売:「桜の花の咲くように咲き栄える女性」
宣長は、上古の人々がそのように取り交してきた「神(迦微)」という言葉について、神社に祀られている御霊や人に対しては言うまでもなく、「鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」と言っている。(「古事記伝」三之巻)
そこで小林秀雄先生は、古人が神を直知し命名する行為について、宣長が確と捉えたところを、このように述べている。
「天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己れの具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。この素朴な経験にあっては、空の彼方に輝く日の光は、そのまま、『尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物』と感ずる内の心の動きであり、両者を引離す事が出来ない」。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収、「本居宣長」四十一章)
以上のことを踏まえ、本稿でまず熟視したいのが、上古の人々により語られてきた伝説について、小林先生が書いている件である。
「上ッ代の人々に必至であった、広い意味での宗教的経験は、現実には、あたかも神々の如く振舞う人々の行為として、語られたのである。宣長の『古学の眼』が注がれたのは、其処であった。彼等は、基本的には、そういう語り方以外の、どんな語り方も知らなかったし、又、そういう語り方をしてみて、はじめて、世にも『怪き』『可畏き』物を信ずるという容易ならぬ経験が、身について、生きた知慧として働くのを覚えた、と言ってもよかろう。それなら、更に進んで、そのように語る事により、生活の意味なり目的なりが、しっかりと摑まれ、生き甲斐として実感されるに至ったのは、決定的な事だった、と言えよう」。(四十九章、傍点筆者)
わけても、ここで言われている「生き甲斐として実感されるに至った」とは具体的にどういうことなのだろうか。本稿では、あえて「生き甲斐」の内容に的を絞り、我が事としても体感、体翫すべく、できる限り深耕してみたい。
*
ここで、「漢語に固有な道具としての漢字」が外部から持ち込まれる以前、すなわち未だ文字を知らなかった古代日本人の生活に思いを馳せてみることにしよう。例えば、漢字導入以前の、縄文(*1)の人々は、衣食住で言えば食料獲得に、より多くの時間を割いていたようである。近くの山野に分け入ってはシカやイノシシを追い(狩猟)、クリやクルミ等の木の実やキノコ類を採った(採集)。内湾では回遊するイワシ等の魚類を、浜辺ではアサリ・ハマグリ等の貝類を獲った(漁労)。ヒョウタンやマメ類は、栽培種も出現していた。後・晩期になると、稲作も始まっていたようである(原始的農耕)。
もちろん、良いことずくめではない。地域によっては、自然環境の悪化に伴う豊かな森の消失のみならず、集団の肥大化や衛生環境の悪化等に翻弄され、無人に近いほど衰微してしまった集落もあった。
ともかくも、自らの周りに広がるあらゆる自然と直かに向き合う時間や、自然の変化に直接的な行動変容を強いられることが、現代の我々よりも格段に多かったのである。
小林先生は言う。「上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、『その性質情状』を見究めようとした大人達の努力に、(筆者注;宣長は)注目していたのである」。(同)
彼等は、そういう努力のなかで、「自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味い」を覚えたし、「其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の『性質情状』を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍ら」した。そこで先生は、このように続ける。「これこそ人生の『実』と信じ得たところを、最上と思われた着想、即ち先ず自分自身が驚くほどの着想によって、誰が言い出したともなく語られた物語、神々が坐さなければ、その意味なり、価値なりを失って了う人生の物語が、人から人へと大切に言い伝えられ、育てられて来なかったわけがあろうか」。
自らの思いを読者に投げかける、啖呵を切るような言い方が、もう一つ続く。
「誰のものでもない自分の運命の特殊性の完璧な姿、それ自身で充実した意味を見極めて、これを真として信ずるという事は、己の運命は天与のものという考えに向い、これを支えていなければ、不可能ではないか。このような事に、誰が『たゞ信ずるかほして居』る事が出来ようか」。
*
以上により、上古の人々が「充実感」を覚えるに至る背景には、眼前の自然や事物に直かに接し、そこで感知した『性質情状』について、一人ひとりが、自分なりの着想でもって言葉として表現する行為と、それを相手に語り伝えて行く行為の二つがあることが確認できた。
さて、本書通読のたびに感じていたことは、小林先生が、この二つの行為について、様々に言及を重ねているということである。以下、具体例を示すことで、古人が感じた「生き甲斐」の内容をさらに深めてみたい。まずは前者、自ら直観したことを言葉で表現する、ということについて示す。
・ 古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己れの感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、身体の動きによって、外に現わさざるを得ないとすれば、言語が生れて来る基盤は、其処にある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。(三十三章、傍点筆者)
・ 少し反省してみるなら、この場合、自分は、或る意図なり意味なりを伝える単なる道具として、言葉を扱っているのではないという、それくらいの事は、すぐに解って来る筈だ。喜びは、言ってみれば、言葉とは私だ、と断言出来る喜びだ。言葉の表現力を信頼し、これに全身を托して、疑わない、その喜びである。(三十九章、同)
・ 上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう、恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕らえられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。(同)
一方、後者の、相手に語り伝えて行く、ということについては、以下の通りである。
・ (筆者注;語の「いひざま、いきほひ」という)その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に翻訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語という巨きな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。(二十三章、同)
・ そういう言語の機能がなければ、日常言語の生気ある円滑な進行は、忽ち停止する事に注意するなら、表現上の目立つ意識的な技巧など、すっかり洗い落した所で、凡そ言語というものがその本質を、その持って生れて来たがままの表現性の骨格を、露わしているのが、見えて来るのに気付くであろう。誰もこの骨格に捕えられているが、これを逃れようとは思わない。その裡にいて、安心して、これに己の心を托している。まるでそれは、私達の心の骨格と言ってもいい程である。互に語り合うとは、そういう心を互いに見せ合う事だろう。(四十二章、同)
つまり、神の命名をはじめとする古人の言語による自己表現は、身体感覚や、対象物との直接的な接触感と表裏一体のものであり、また、その表現された言葉が語られ、伝えられていくところでは、人々の相互の信頼感や安心感といったものが自ずと醸成されているのである。
*
「古事記」の冒頭、「神代一之巻」は、十二柱の神の御名が並ぶだけである。この件について、小林先生が述べている言葉に耳を傾けてみたい。
「宣長は、神の名について綿密な註釈、神の名を誦む音声の上げ下げまでに及ぶ、非常に綿密な註釈をしているが、何故そういう事をしたかというと、神の名が、当時の生活人の大事な、生きた思想を現わしていると考えたからだ。『古事記』の筆者が、『天地初発之時』から神の名を次々に挙げているのは、神の命名という神代の人々の行為を記するという考えに基く。そういう考え方が、今日の人々にはなかなか納得出来ない。何故かというと、事物の知的な理解が、非常に発達して、その中にいる者には、事物の理解以前に、先ず事物に名をつけるという行為があるという事は、普通忘れられている。物に名があるのは解り切った事として無視されている。(中略)物の言語化、物の印象を言葉で言い現わす一番簡単な行為が、物に命名する事でしょう。神の名は、ある非常に強い物の印象を、どう言語化したものかという、切実な人間経験の現れなのです。名とは全然新しい発想であり、発明だった。従って、神様の名前から、その時代の人々の宗教的経験の性質がわかる事になる」(「新年雑談」、同、第26集所収)。
最後に、宣長が詠んだ「神代一之巻」を掲げる。
ゆっくりと黙読したい。
天地初発之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並独神成坐而。隠身也。
次国雅如浮脂而。久羅下那洲多陀用弊琉之時。如葦牙因萌騰之物而成神名。宇麻志阿斯訶備比古遅神。次天之常立神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。
上件五柱神者別天神。
次成神名国之常立神。次豊雲野神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。
次成神名宇比地邇神。次妹須比遅邇神。次角杙神。次妹活杙神。次意富斗能地神。次妹大斗乃弁神。次淤母陀琉神。次妹阿夜訶志古泥神。次伊邪那岐神。次妹伊邪那美神。
上件自国之常立神以下。伊邪那美神以前。併称神世七代。
これこそ、上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである。
(*1)いわゆる縄文時代は、今から約1万2,000~3,000年前から、約2,300年前までの1万年強続いた。
【参考文献】
本居宣長撰、倉野憲司校訂「古事記伝」岩波文庫
岡村道雄「縄文の生活史」改訂版、『日本の歴史01』講談社
中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書
(了)