宣長さんのかなしみ―本居家先祖の墓の絵

溝口 朋芽

小林秀雄氏は、「本居宣長」の最終章において、“精神”という言葉を繰り返している。「(古人達の)純粋な精神活動」「彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい」とある。私は前回の小林秀雄に学ぶ塾での質問で、「その宣長の精神と遺言書は一体のものだったのではないか」という自問を挙げたのだが、それに対する自答に辿りつくことができないままでいた。そこで、宣長の「遺言書」全文をあらためて読んでみようと思い、筑摩書房の『本居宣長全集』を開いた。『全集』第二十巻冒頭「解題」において、編者の大久保正氏が興味深い論考を書いている*①。

―宣長の家系や家の伝統に寄せた並々ならぬ関心は、はやく延享四年(一七四七)十八歳以後の手記にしばしば「本居榮貞」と署名し、二十三歳の寶暦二年(一七五二)三月、医学修行のため上京するや小津姓を本居姓に復姓した事実によっても窺われるが、(中略)寛政十年(一七九八)に至って宣長が、さらに家の昔に思いを廻らし、かつて記録しておいたものを材料として、自己の心情を託した系統的な新しい『家のむかし物語』を書き上げようと意図するに至ったのは、『古事記伝』を完成して心のゆとりを得たというだけではなく、『古事記伝』の完成により完結することができたと確信する自己の学者としての生を、われを生み出した家の歴史の中に位置づけようとする、言わば「祖先帰り」とも言うべき宣長の根源的な生の意識の発露であったと思われる。その事は、(中略)「商人のつら」を離れることによって確立し得たと信じる「物まなびの力」を、なお家の歴史の中に位置づけることによって、正当化せざるを得なかった宣長の姿勢の中にはっきりと見てとられる。それを近世におけるもっとも偉大な学者の一人である宣長の、近世人としての意識に現れた、本能的にも近い個我の生命に対する畏れであったとも見られる。宣長が『古事記伝』完成と同じ年に『家のむかし物語』を書残しているという事実は、宣長の思想や学問の構造と無縁の事として見過ごすには、あまりにも重い意味をもっていると思われる。……

この一文を読み終えて、「遺言書」のページを開く途中で、馴染みのある筆跡で丁寧に描かれたスケッチ風の絵に目が止まった。「本居氏系図」内にあるその絵は、本居家の先祖のお墓とその周辺の風景を描いたもので、大きく描かれた松の木が印象的で、宣長が「遺言書」に自身で描いた山桜の絵を連想させるような筆致で丁寧に描かれており、絵の傍に、「この松を里人 六本松という」と宣長本人が書いたであろう直筆の文字が添えられている。「本居氏系図』」全体には、ほかのページにそのような絵はないので、なぜここにだけ挿絵を入れたのかが気になり、挿絵の前後に書かれている文章*②を追ってみた。下記は安永三年(一七七四)に宣長が先祖の墓を訪れた際の記述である。

―田畠の中に方十歩ばかりもあらんとおぼしき草原あり、東南西は平地つつきて田畑也、北の方は片岸にてややひきく山田あり、その草原の中央に古松あり、本一株にしてみつまたなり、上へ高く立のびたり、その株は甚大にして、四五囲もあるべく見ゆ、これ即ち道長居士の墓となん、石塔はなし、さてそのめぐりに、一囲ばかりもあるらんとおぼしき松数株あり、その木の本ごとに石塔あり、これ子孫代々の墓と云り、右の草原は、本居氏先祖よりの墓城と見えたり、村里より半町ばかり西方にはなれたる處也、彼大松、遠所よりよく見えたり……

挿絵を眺めながら、宣長の生来の観察眼により綴られた、この詳細な記述を読むと、自身の「遺言書」において、墓の形から植える桜の木の位置まで細部にわたって指示書きをしているくだりが思い起こされた。まさしく宣長の資質そのもの、といえる特色ある文章である。

さて、この先祖の墓についてもう少し見て行きたい。宣長が「これ吾家の祖也」といっているのが、本居左兵衛武秀であるが、その父、そして武秀の兄(長男)がこの墓の主である。つまり宣長の「祖」である本居左兵衛武秀は次男である。長男、本居庄右衛門延基は寛永十三年(一六三六)十月十九日に逝去している。その死後一三八年が経った、安永三年(一七七四)三月九日、宣長四十五歳の年にこの地(大阿坂村)を訪問した際に見た墓の風景をスケッチしたのが前出の挿絵と思われる。しかしその後、寛政十年(一七九八)三月二日に宣長六十九歳の時にその地を再訪した際、かつてあった、挿絵に描いた本居家の墓はなくなっていたのである。宣長の書くところをそのまま引用する。

―宣長又此墓所ニ詣テ見ルニ、往年見タル所ノ傍ナル松ノ本ニアリシ本居氏ノ石塔ドモ一ツモ見エズ、タダ中央ノ大松ノ本ニ他姓ノ石塔一ツタテリ、思フニ此村ノ本居氏、近来断絶シタルニヨリテ、此墓地モ他家ヘ売却ナドシタルユエニ、本居氏ノ墓石ヲバミナ取棄テ、今松ノ本ニタテル墓石ハ、コノ地ヲ買得タルモノノ先祖ノ碑ナトニヤアラン、ソノ委細ノ事ハイカナラム不知、……

と書いており、最後に「イトモイトモ アハレニ悲キ事也」と結んでいる。二十四年前、四十五歳のときに見た先祖の墓、そこを晩年再訪した際に、既に家絶えて、墓も無くなっていたという事実は、宣長にとってどれだけ深い悲しみ、精神への影響があったのだろうか。六十九歳という晩年に至って知った悲しい事実は、「イトモイトモ アハレニ悲キ事也」という言葉となって読み手に強く伝わってくる。この墓再訪から三か月後の寛政十年六月十三日に宣長は「古事記伝」全巻終業をむかえ、翌七月には「家のむかし物語」の清書をしている。この「古事記伝」全巻終業から「家のむかし物語」清書にいたる流れについては、前掲の編者、大久保正氏の文章の通りである。そして、その二年後の、寛政十二年(一八〇〇)七月に宣長は「遺言書」を執筆するのである。宣長が「遺言書」に絵を描き添えたことと、『本居氏系図』に六本松の絵を描き残したことについて、つらつらと見比べながら、宣長の心情に思いを馳せてみる。小林氏は「本居宣長」第五十章の最後にこう書いている。

―宣長は、あるがままの人の「こころ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「こころ」を、しっくりと取り巻いている、「物のこころ、事のこころ」を知る働きでもあったからだ。……

今回、宣長の先祖の墓について考える機会を経て、あらためてこの文章を読んでみると、その深い味わいの中に新しい側面を見た気がして、次のように読み替えてみたくなった。「宣長が書き残した自身の墓のこと、自身の葬式の出し方のこと、遺言書そのもの、それぞれには『こころ』があり、宣長のこころをしっくりと取り巻いている」と。宣長が先祖の墓がなくなってしまったことについて、「イトモイトモ アハレニ悲キ事也」と嘆いた心情に思いを馳せるとき、そこにはこれまで見えていなかった「何か」を私の中で感得することができたような思いを抱いた。その「何か」とは、先人たちが古書に身交むかう際の態度、というようなものかもしれない。宣長がどのような「こころ」で遺言書を書き、自身の墓の絵を描き、葬列の絵を描いたのか。それらの源にある宣長の「こころ」を“極めれば足りる”とは……。

書き手の「こころ」の働きを何とか知りたい、摑みたいと願い、実践してきた宣長をはじめとする「卓然独立した豪傑」たちの態度を、小林氏が「本居宣長」全五十章を通じて繰り返し私たち読者に伝えようとした、その最後に到達した真意が前掲のこの言葉に凝縮しているように思えた。一見シンプルに過ぎるようにもみえるこの一文に込められた小林氏の思いは、氏自身が宣長から遂に直接聞いた声だったのではないだろうか。そして「遺言書に戻るほかない」と言い残して全五十章の本文が終わるのである。遺言書の最後を宣長はこう結んでいる。

―家門絶断之無様、永く相続之所肝要に而候、御先祖父母へ之孝行、之過不候、以上……

お家断絶により先祖の墓を失った宣長が自身の遺言書にこう書き残したこころに思いを馳せつつ、今後も遺言書を折に触れて読み続けていきたい。

(了)

*①:『本居宣長全集』第二十巻 筑摩書房 「解題」P9より抜粋

*②:『本居宣長全集』第二十巻 筑摩書房 「本居氏系図」P67より抜粋。
安永三年に先祖の墓を訪れた際の記述