以前、プラトンの「国家」をはじめて読んだ時、或る音楽の調べについてソクラテスが語る一節に出くわし、あたかも古代ギリシアのあのオルケストラに突如ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオが轟いたかのような錯覚を覚え、驚いたことがあります。
このプラトン中期の対話篇では、ケパロスが提起した「正義とは何か」の問題をめぐって、個人の正義の延長としての国家の正義が探求され、そこから国家というもののあるべき姿が様々な形で論じられるのですが、その議論の中でソクラテスは、彼が理想と考える国家には悲しみや嘆きを伝えるような詩や物語はいっさい不要であると主張します。そして文芸とともに人間の魂を教育するものである音楽においても、それは同様であると言い、そういう調子を帯びた調べにはどのようなものがあるかとグラウコンに問うのです。これに対し、音楽通であるらしいグラウコンは、それは「混合リュディア調」や「高音リュディア調」だと答える。この「混合リュディア調」や「高音リュディア調」とは、ハルモニアと呼ばれた古代ギリシアの音階の一つで、私たちに馴染みの考え方でいえば「ドレミファソラシド」の長音階(長調)や、「ラシドレミファソラ」の短音階(短調)に相当します。つまり、長調で書かれた音楽が一般に明るく喜ばしい調子を帯び、短調の音楽は暗く悲しげなものとなることが多いように、古代ギリシアのハルモニアにも、それぞれに異なる性格が備わっており、その中で悲しみや嘆きを奏でることの多い「混合リュディア調」や「高音リュディア調」は、ソクラテスの理想国家からは排除されなければならないというのです。
続いてソクラテスは、「酔っぱらうこと」や「柔弱であること」、また「怠惰であること」も、国の守護者や戦士にはふさわしくないと言い、そのような調べとしては何があるかとグラウコンに尋ねます。するとグラウコンは、「イオニア調」や「リュディア調」のある種のものが「弛緩した」(あるいは「物憂い」)と呼ばれていると答えます。現代風に言えば、これは「アンニュイでデカダンな調べ」とでもいうところでしょうか。当然、これらも排除しなければならないということになる。
古代ギリシアの世界にいくつ音階があったのかは知りませんが、グラウコンによれば、残るは「ドリス調」と「プリュギア調」の二つであるという。それを受けて、ソクラテスは次のように語るのです。
「ぼくはそれらの調べのことは知らない。しかしとにかく、君に残してもらいたいのはあの調べだ。すなわちそれは、戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人、また運つたなくして負傷や死に直面し、あるいは他の何らかの災難におちいりながら、すべてそうした状況のうちで毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人、そういう人の声の調子や語勢を適切に真似るような調べのことだ」(藤沢令夫訳)
ここでソクラテスは、さらにもう一つの調べ――自発的な行為と幸運のうちにあって「節度を守り端正に振舞って、その首尾に満足する人を真似るような調べ」を付け加えている。訳者の藤沢令夫氏の注釈によれば、一つ目の調べがドリス調を、二つ目の調べがプリュギア調を指すそうですが、今お話ししたいのは古代ギリシアのハルモニアについてではありません。プラトンが自ら理想とする国家に残そうとした一つ目の調べ、というよりも、それをグラウコンに伝えるソクラテスの言葉の調べが、そのままベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べを想起させたということなのです。裏返して言えば、ベートーヴェンにとってのハ短調アレグロ・コン・ブリオとは、この作曲家が選択したドリス調であり、そのハルモニアによって書かれた第五シンフォニーとは、まさにソクラテスの言う「強制的な状況に対応し、不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子を最も美しく真似るような」音楽だとは言えまいか。これは私の独断ではないはずです。ベートーヴェンという人物と音楽を知る多くの人々の脳裡に刻まれているはずの、これがベートーヴェンという芸術家の「詩人としてのイデー」であり、第五シンフォニーのうちに皆がきき取っている「作者の宿命の主調低音」ではないでしょうか。それは第五シンフォニーを「運命」と呼ぶのと同様、ほとんど通念と化したベートーヴェン像であり、第五シンフォニー像でもあるが、しかしその通念を、ベートーヴェンという芸術家は決して裏切らないように見えるのです。
これまで、ベートーヴェンという作曲家における「作者の宿命の主調低音」はハ短調アレグロ・コン・ブリオであり、その権化のような音楽が第五シンフォニーだとお話ししてきました。しかし小林秀雄の言う「作者の宿命の主調低音」とは、「傑作の豊富性の底を流れる」(「様々なる意匠」)ものであり、「表面の処に判然と見えるという様なものではない」(「読書について」)以上、第五シンフォニーという交響曲にしても、ハ短調アレグロ・コン・ブリオで書かれたその他の楽曲にしても、それ自体はベートーヴェンが書き残した「傑作の豊富性」の一つに過ぎないものです。「作者の宿命の主調低音」とは、「ハ短調」や「アレグロ・コン・ブリオ」といった作曲形式上の諸性格の底を流れるものだ。ということはまた、それはこの作曲家の長調の音楽にも、アンダンテの楽章にもきき取れるはずのものだということになる。実際、それはその通りでしょう。そうであればこそ、小林秀雄は「その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる」と言ったのですし、ひと度それをきき取ってしまえば、「ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる」のです。
このことは、小林秀雄がモーツァルトの音楽にきいた「かなしさ」についても言えることです。これも多くの人が誤解しているところだが、彼は、この「かなしさ」をト短調クインテットの第一楽章にだけきき取ったわけではありません。現に、「モオツァルト」の第十章ではこの作曲家のディヴェルティメントに触れながら、ここにも「あのtristesseが現れる」とはっきり書いています。ディヴェルティメントとは「嬉遊曲」と訳される音楽のことで、基本的に長調で書かれた軽快な気晴らしのための音楽ですが、そういう音楽にも、彼は「あのtristesse」をきいているのです。そもそもゲオンの「tristesse allante」という言葉からして、直接にはK.285のフルート四重奏曲の第一楽章についての言及で現れる言葉であり、この楽章は基本的にイ長調で書かれた音楽です。展開部ではそれが短調に転調して疾駆するくだりがあり、ゲオンは「ある種の表現しがたい苦悩」とも書いていますから、あるいはこの展開部のパッセージを指しているのかもしれないが、いずれにしてもそれはト短調ではありません。
ただ、これはゲオンもはっきり書いていることですが、K.285の第一楽章は、モーツァルトの「tristesse allante」を「時として響かせている」のであって、その響きが「最高の力感のうちに見出される」のは、K.516の第一楽章なのです。それは、必ずしもこの楽章がモーツァルトの最高傑作という意味ではないが(いや、ゲオン自身はほとんどそう評していますが)、少なくともモーツァルトの様々な音楽のうちに見出される「tristesse allante」が、もっとも純粋な形で結晶した、あるいはもっとも露わな形で表出した音楽が、ト短調クインテットであり、中でも冒頭のアレグロ楽章だということは確かに言えるでしょう。他の楽曲においては、それは微かな萌しであったり気配であったり陰影のようなものであったりしたものが、このト短調アレグロの楽章においては、ほとんど「tristesse allante」一色で塗りつぶされていると言いたくなるほどに、その調べが音楽全体を支配するのです。
同じことは、ベートーヴェンのすべての作品の中での第五シンフォニーについても言えるでしょう。プラトンの理想国家に鳴り響くべき「あの調べ」は、たとえば変ホ長調を主調として書かれた第三シンフォニーのうちにも無論きき取れるものだ。しかしベートーヴェンの第五シンフォニーは、いわば「あの調べ」だけから純粋培養されたような音楽であり、その「声」は、「豊富性の底を流れる」どころか冒頭の第一音から終楽章のカデンツに至るまで、常に剥き出しの形で咆哮し続けるのです。そのことはまた、すでにお話ししたように、この交響曲が全楽章を通してあの「運命の動機」で緊密に構成されているという事実とも照応していますし、「ベートーヴェンにとって、これが第五のテーマであり、モチーフだったんだ」と小林秀雄が答えたというのも、そのことを指しての言葉であったわけです。
その第五シンフォニーに比べれば、第三シンフォニーの方がよほど「豊富」な音楽だと言えるでしょう。とりわけ同じくアレグロ・コン・ブリオで書かれた第一楽章は、そこに盛り込まれた楽想の豊かさ、その展開の豊穣さという点で、第五シンフォニーを遥かに凌駕していると言って過言ではないし、おそらく好き嫌いということで言っても、第五シンフォニーよりも第三シンフォニーを選ぶ人の方が多いのではないか。それは第五シンフォニーの、おそろしく純度の高い単結晶ダイヤのような書法に驚嘆しつつも、その音楽が提出するイデーのあまりの純一、あまりの直截さに、ある種の息苦しさを覚えるからに違いない。その意味で、ベートーヴェンのハ短調シンフォニーとモーツァルトのト短調クインテットは、それぞれが孕むイデーはまったく異なるにしても、相通じるものがあるように私は感じます。
そういう次第で、「モーツァルトのト短調アレグロ」や「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」というのは、それぞれの作曲家における「作者の宿命の主調低音」の或る象徴的調べ、あるいは一つのメタファーであって(そもそも小林秀雄の「主調低音」という言葉がメタファーなのですから、これを音楽家に当てはめた場合、メタファーにメタファーを重ねることになるのですが)、実際にそれらの形式で書かれた音楽以外にはその「主調低音」をきき取ることができないという話ではありませんし、逆に、モーツァルトが書いたト短調アレグロの曲や、ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオの音楽には無条件に「主調低音」の最たるものが現れるということでもないでしょう。そういったことを申し上げた上で、しかし、モーツァルトが実際にト短調アレグロで書いたいくつかの曲や、ベートーヴェンがハ短調アレグロ・コン・ブリオで作曲した数々の楽曲は、確かに或る特別な調べを帯びた音楽であるように思われるのです。
おそらくこのことをさらに突き詰めて考えていけば、そもそもト短調やハ短調といった調性そのものに特定の情趣や性格のようなものが備わっているのかという議論に行き当たるでしょう。そしてこの議論は、それこそモーツァルトやベートーヴェンの時代から繰り返されながら、未だ明確な結論の出ない問題でもあります。先にお話しした古代ギリシアのハルモニアや、現在の長・短音階のように、音階そのものが異なる場合(もう少し正確に言えば、音階における各音の音程関係が異なる場合)は、そこにある特徴的な性格の違いが生じるということはある。しかし、たとえば同じ短音階のハ短調とト短調とでは、主音がハ音であるかト音であるかの違いはあっても、オクターブを構成する七つの音が「全音・半音・全音・全音・半音・全音・全音」の関係で配列されていることに変わりはなく、基本的には音階全体の相対的なピッチが異なるだけですから、それだけでそれぞれの調性に固有の性格が生じるとは、少なくとも絶対音感を持っていない多くの人からすれば考えにくいことでしょう。しかも、イ音(中央ハの上のイ)のピッチを440Hzの周波数に定めたということ自体、二十世紀に入ってからの話であり、それまでは多くの国で今よりも半音ほど低く調律されていたのですし、今でも楽器のピッチをどう設定するかは、奏者やオーケストラによっても微妙に異なります。つまり、ト短調の曲が常にト短調のピッチで演奏されるとは限らないのです。
一方で、楽器にはそれぞれその楽器に適した調性、つまりその楽器が最も鳴りやすい、あるいはその楽器が最も演奏しやすい調性というものがある。たとえばヴァイオリンはニ音を開放弦として持つため、これを主音とする調性で演奏すると弦がのびやかに鳴るということがあります。ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーがそれぞれ書き残した唯一のヴァイオリン協奏曲がいずれもニ長調で書かれているのは、それが理由の一つでしょう。またクラリネットにはイ長調のクラリネットと変ロ長調のクラリネットがあるが、モーツァルトはイ長調のクラリネットの音色を特に好み、クラリネット五重奏曲とクラリネット協奏曲というこの作曲家のクラリネット音楽の二大傑作は、いずれもイ長調で書かれています。あるいはクラリネットが主役の音楽でなくても、たとえばイ長調ピアノ協奏曲(K.488)の中で、クラリネットが特別な彩りを添えるということもある。この場合、「モーツァルトのイ長調」とは、「イ長調」という調性そのものが持つ性格というよりも、イ長調クラリネットの音色の性格であり、それを好んだモーツァルトのある音楽性が反映された結果だということになります。
さらには、作曲家本人が特定の調性に何らかの思い入れをもって作曲するということもあるだろう。たとえば先ほどお話ししたニ長調という調性は、ただヴァイオリンがよく鳴る調性というだけではない。主音であるニ音(D)は、ラテン語で綴る神「Deus」の頭文字です。ヘンデルの有名な「ハレルヤ・コーラス」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」など、神を讃える音楽の多くがニ長調で書かれているのは、このことと無関係ではありません。するとニ長調の音楽は、結果として崇高で輝かしい喜びの印象を与えるということになる。加えて、ヘンデルを大変尊敬したベートーヴェンが、ヘンデルのニ長調の響きを模倣するということもあるはずです。そうすると、「ヘンデルのニ長調」が歴史的に継承されていくことにもなるわけです。
しかし私のような音楽の素人が、これ以上この問題に深入りしても意味はないでしょう。調性とその固有の性格の有無という問題は、それが存在する理由も存在しない理由も、永遠に等しく論うことができるというのがおそらく真相でしょう。またその実証が、ここでお話ししたいことの眼目でもありません。仮に第五シンフォニーがハ短調以外の調性で書かれていたとしても、この音楽がベートーヴェンの「宿命の主調低音」の象徴的形姿であるという事実に変わりはないはずです。大事なのは、この交響曲が何調で書かれているかではなく、この音楽がわれわれに与えるイデーである。そしてそのイデーは、ベートーヴェンが生まれる二千年以上も昔、古代ギリシアのひとりの哲人によってすでに示唆されていたものであった。私が驚いたのは、その事実でした。それは、ソクラテスの語った「あの調べ」が、第五シンフォニーが作曲されて以後二百年、この音楽について語られたどの言葉よりもその本質を衝いていたからではありません。人間は、紀元前の昔からベートーヴェンの「あの調べ」を待望していたという、その事実に驚き、感動するのです。
さて、ソクラテスが語った「あの調べ」――戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人、また運つたなくして負傷や死に直面し、あるいは他の何らかの災難におちいりながら、すべてそうした状況のうちで毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人、そういう人の声の調子や語勢――を、私たちはベートーヴェンの音楽のうちにだけでなく、他ならぬベートーヴェン自身の「声」としてきくことができます。否、その「声」が現に存在するからこそ、ソクラテスの台詞に出会って思わず錯覚するということもあるのでしょう。そのベートーヴェンの「声」は、この作曲家の音楽を愛する人であれば、直接にも間接にも、いつか、どこかで、一度は目に触れたり耳に触れたりしているはずのものだ。けれどもこの驚くべき「声」の全文を熟読したことがある人は、第五シンフォニーを全曲聞いたことがある人よりもずっと少ないことは確かでしょう。
あの「tristesse allante」について書かれた「モオツァルト」第九章の冒頭で、小林秀雄は、母親の死を父レオポルトに知らせる二十一歳のモーツァルトの書簡を取り上げ、しかしその「凡庸で退屈な長文の手紙」を引用するわけにはいかないと断って、それを数行のうちに要約して紹介した。けれども、ベートーヴェンの「あの調べ」を伝えるこの長文は、省略されることも要約されることも自ら断固拒否している。それは、この長文が凡庸でも退屈でもないからだけでなく、ここに発せられた「声」が、この作曲家の「遺書」として書かれたものでもあったからです。モーツァルトがレオポルトに宛てた手紙からは、「あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想いがする」と小林秀雄は書いている。一方、弟カルルとヨーハンに宛てられたこのベートーヴェンの「遺書」の紙背から現れて来る魂は、紛れもなくあのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べを世に送り出した人のそれではあるが、同時にまた、その魂は不思議な静けさを湛えていて、それは闘いを目前にひかえた者に瞬時到来する静けさであるか、あるいはついに闘い終えた者だけが獲得する静けさであるのか、判然としません。おそらくは、そのどちらでもあるのだろう。そして思うに、この静けさのうちにこそ、この芸術家のほんとうの「詩人としてのイデー」があるのです。
「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるこの有名な、ある種の遺書は、ベートーヴェンの死後、残された書類の中から偶然発見されました。書かれたのはこの作曲家の死の二十五年前、三十一歳のときでありました。
おお、お前たち、――私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうにいいふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方は何と不正当なことか! お前たちにそんな思い違いをさせることの隠れたほんとうの原因をお前たちは悟らないのだ。幼い頃からこの方、私の心情も精神も、善行を好む優しい感情に傾いていた。偉大な善行を成就しようとすることをさえ、私は常に自分の義務だと考えて来た。しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを! 無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては恢復するであろうとの希望に歳から歳へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなった――たとえその恢復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活潑な性質をもって生まれた私は、早くも人々から孤り遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。折りに触れてこれらすべての障害を突破して振舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、何と苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なるものでなければならない、一つの感覚、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝け出しに行くことがどうして私にできようか! ――何としてもそれはできない! ――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで逐放されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。――この半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。できるだけ聴覚を静養せよと賢明な医者が勧告してくれたが、この医者の意見は現在の私の自発的な意向と一致したのだ。とはいえ、ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た! ――忍従! ――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。――二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間になることは容易ではない。これは芸術家にとっては他の人々にとってよりいっそうつらいことだ。
神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。この心の中には人々への愛と善行への好みとが在ることをおんみこそ識っていられる。おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行いが不正当であったかを。そして不幸な人間は、自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽したことを知って、そこに慰めを見いだすがよい!
お前たち、弟カルルと(ヨーハン)よ、私が死んだとき、シュミット教授がなお存命ならば、ただちに、私の病状の記録作成を私の名において教授に依頼せよ、そしてその病状記録にこの手紙を添加せよ、そうすれば、私の歿後、世の人々と私とのあいだに少なくともできるかぎりの和解が生まれることであろう。――今また私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。二人で誠実にそれを分けよ。仲よくして互いに助け合え。お前たちが私に逆らってした行ないは、もうずっと以前から私は赦している。弟カルルよ、近頃お前が私に示してくれた好意に対しては特に礼をいう。お前たちがこの先私よりは幸福な、心痛の無い生活をすることは私の願いだ。お前たちの子らに徳性を薦めよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。――さようなら、互いに愛し合え! ――すべての友人、特にリヒノフスキー公爵とシュミット教授に感謝する。――リヒノフスキーから私へ贈られた楽器は、お前たちの誰か一人が保存していてくれればうれしい。しかしそのため二人の間にいさかいを起こしてくれるな。金に代えた方が好都合ならば売るがよかろう。墓の中に自分がいてもお前たちに役立つことができたら私はどんなにか幸福だろう!
そうなるはずならば、――悦んで私は死に向かって行こう。――芸術の天才を十分展開するだけの機会をまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにせよ、死は速く来過ぎるといわねばならない。今少しおそく来ることを私は望むだろう。――しかしそれでも私は満足する。死は私を果てしの無い苦悩の状態から解放してくれるではないか? ――来たいときに何時でも来るがいい。私は敢然と汝を迎えよう。――ではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えて来たのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ。
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日
(ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」より/片山敏彦訳)
(つづく)
※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。