盛夏のなか刊行を迎えた本誌2021年夏号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組の対話は、小林秀雄先生の文壇登場作「様々なる意匠」、そして同作と一流雑誌『改造』の懸賞評論第一位を競った宮本顕治氏の「『敗北』の文学」を読んだ男女の話から始まる。対話のキーワードは、「思想」という言葉だ。はたして若き小林先生の論文は、二位でよかったのか、それともいけなかったのか……
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「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さんが寄稿された。溝口さんは入塾以来、宣長さんが描いた「遺言書」と向き合い続けている。その中で熟視を重ねてきたのが、小林先生が使う「精神」という言葉であり、本誌2020年秋号では、緻密な用例分析も行っている(「『本居宣長』における『精神』について』)。そこで今回は、「遺言書」全文に接してみた。宣長さんの肉声が聞こえてきた。「そこにはこれまで見えていなかった『何か』があった」。
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村上哲さんは、「本居宣長」を読み続けてきたなかで、自らの眼に強く残る宣長の姿があると言う。それは、宣長が「学問の上で、人をたずね続け」る姿である。彼は、「源氏」や「古事記」の愛読者として、その「語り部」の言葉に真剣に耳を傾けた。「生活感情に根を下ろし、生き生きと動く言葉」をもって、語り合いを続けた。しかしそれは、言うほど容易いことではない。そこにある困難をこそ知るべきだと、村上さんは注意を促している。
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作曲家である桑原ゆうさんは、楽譜にも、「譜づら」という言葉があると言う。わけても興味深いのは、コンピューター上の浄書ソフトを使うだけでは、けっして善い「譜づら」にならず、骨の折れる手作業というものが、どうしても必要になるということである。そこに、宣長さんの歌論と、それを評する小林先生の言葉が重なり合う。作曲家の目指す、善い「譜づら」に向けて続く「闘い」の、リアルな現場を体感しよう。
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石川則夫さんの「特別寄稿」は、前稿「『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ」の続編である。石川さんは、とある新聞の投書欄の文章を見て、これぞ柳田国男が「先祖の話」において摑もうとしている<歴史>という言葉の姿か、と思い至る。それは、「人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在」だと言う。「本居宣長」の<時間論>が、いよいよ近づいてきた。
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石川さんは、その今号掲載稿の終盤で、「小林秀雄が書いて来た文章を、全集を通して思い浮かべてみると、その折々に特権的な言葉、つまり様々な作品、文章を通してあちらこちらに思い当たる用語がある。それぞれ異なる対象について言葉を連ねつつ、何回も反復して現れ、そのたび毎に特徴的な強いイメージを喚起する文体を形成している、そういう言葉である」と書いている。例えば、本稿の主題である「時間」はもちろん、「歴史」や「言葉」、「姿」、「形」などが思い浮かぶ、と言うのである。
今号においても、荻野さんは「思想」、溝口さんは「精神」、村上さんは「言葉」、そして桑原さんは、「姿と意」という言葉について、追究している。「小林秀雄の辞書」にある、これらの言葉も、寄稿者諸氏の眼光紙背に徹する、たゆまぬ熟読によって、本誌が刊行を重ねるたびに、その輪郭と全貌が、よりはっきりと、さらなる拡がりを持って体感できるようになってきていることが、改めて感得できた。
「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物に関する言葉です」とは、小林先生の言葉である(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)。続けて先生はこう言っている。
「作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事ができませぬ」。
「小林秀雄の辞書」にある「愛読者」という言葉もまた、小林先生ならではの深みと拡がりを持っているようだ。
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三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんに都合があり、残念ながら休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、次号からまた倍旧のご愛読をお願いします。
(了)