ボードレールと「近代絵画」Ⅳ
―「ボードレールはマネより先輩なのである」

坂口 慶樹

異様な風体 ぎこちない歩調であつた。
雪の中でも泥濘でも あがきながら進んで行つた
その有様は 古靴で死者を踏みにじるかのやうで
無関心といふよりも 世界に敵意を抱いてゐた。

シャルル・ボードレール

「七人の老爺」、『悪の華』より(*1)

 

「サロンを敵とする戦は、マネから始ったが、この戦は、マネを崇拝する新しい画家達によって、執拗に続けられたのである」。これは、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)のルノアール論の中に書かれている小林先生の言葉である。モネ、セザンヌ、ルノアール、ドガ、ゴッホ、ゴーガン、いずれの画家も、戦の先鋒マネを仰いだ。しかし小林先生は、こうも言っている。そのマネよりも、ボードレールの方が先輩なのだ、と。

本稿は、そんな二人の交わりについて、「先輩」という言葉の、字面の意味よりもさらに深くまで掘り、味わってみようという試みである。なお、引用した手紙は、書簡類を丹念に整理されている吉田典子氏の論文「ボードレールとマネ関係資料」(*2)による。

 

 

一八四二年、二十一歳の詩人ボードレールは、亡父の遺産を相続し、継父と母から独立して生活を始めた。当時のフランス文壇は、ラマルチーヌ、ヴィクトル・ユゴー、ヴィニーらによるロマン主義(*3)の全盛期であった。ヴァレリイ(*4)は、当時のボードレールが自らに課した「問題」について次のように言っている。「大詩人たること、しかしラマルチーヌでもなく、ユゴーでもなく、ミュッセでもないこと」という決意が必然的にボードレールの裡にあり、「のみならずそれは本質的にボオドレールでした、それは彼の国是でした。創造の領域はまた矜持の領域でもあり、ここにおいては、他と異なる必要は存在自体と不可分です。ボオドレールは『悪の華』の序文草案に書いています、『高名の詩人たちが久しい以前から詩的領域の百花繚乱たる諸州を分有してしまった、云々。ゆえに私は別なことをしよう……』。要するに彼は、彼の魂と与件との状態によつて、ロマン主義と称される体系、ないしは無体系に対し、益々はっきりと対立するに到らせられ、強いられるのであります」。

ヴァレリイは続ける。「ボオドレールはロマン主義の最大の巨匠たちの作品と人物のうちに間近に観察される、ロマン主義のあらゆる弱点と欠隙けつげきとを、認知し、確認し、過大視することに、最大の関心―死活に関する関心―を持ちます。ロマン主義は全盛期にある、従ってこれは必滅である、と彼は独り言を言い得たでしょう」。

そう独語しながら、ボードレールは一八四〇年代初頭から、のちに『悪の華』に収められる詩を、止まることなく書き溜めていった。それは、「最も純粋な状態に置かれた詩とはどういうものかを、熱烈に追求」(*5)する最初の戦であった。一八四八年には、異常な感激を覚えたというエドガー・ポー(*6)の作品の翻訳を開始、「笑いの本質」やドラクロワ論などの美術批評も次々に発表し、名声は徐々に高まっていく。

そして一八五七年六月、ついに「詩人の心血を注いだ最初にして最後の詩集」(*7)が上梓された。ところが、直後の七月には、「フィガロ」紙上に『悪の華』の非道徳性を非難する論文が掲載され、公共道徳びん乱の容疑で検察庁による捜査も開始された。八月には裁判所での判決が下り、三百フランの罰金刑が課されたのに加え、六詩篇の削除が命ぜられたのである。

この事件は、鈴木信太郎氏が述べている通り、「十数年にわたる歳月を費して一つ一つ創作していった詩篇を、『悪の華』に集大成した時、いかなる秩序を自ら描いて排列したのだろうか。創作年代的順序によったのではないことは明らかであるが、無秩序で構成のないものとは考えられない。……こういう緊密な構成が感じられる連続から、六誌篇が削除を命ぜられた。これは鎖の環が六個所で断ち切られた感をボオドレールに与えたに相違ない」ことであった。(*1)

彼は『赤裸の心』に、こんな短い言葉を刻んでいた。―「『悪の華』の事件。誤解に基く屈辱。あまつさえ訴訟」(*7)

その胸中や、察するに余りある……

 

こんな境遇にあったボードレールのもとに、クーデターを通じ皇帝の位を獲たナポレオン三世と対峙すべく英領ガーンジー島に亡命、独裁者とのペンによる孤高の戦いを続けていたユゴーから、「あなたの『悪の華』は星のようにまばゆく輝いている」という賞賛と激励の手紙が届く。ユゴー以外にも、ヴィニーやサント・ブーヴ(*8)からも同様の手紙が来たが、彼らが「良俗から非難される詩集を敢て公に批評をする勇気も行為も持ち合わせてはいなかった」という鈴木氏の弁は、ボードレールの胸中にこそあったものではなかったか。

 

 

同じ一八五七年頃、二十代半ばの画家エドゥアール・マネは、古典的かつ保守的な指導を旨とするクチュール(*9)のアトリエでの六年間の修行を脱し、フランスはもとよりアムステルダム、ヴェネツィアやフィレンツェの美術館を訪れ、ティツィアーノやルーベンス、ベラスケスという巨匠たちの作品の模写に明け暮れていた。

一八五九年、マネはサロン(官展)に「アブサンを飲む男」という作品で初挑戦したものの、審査員は一人を除く全員が反対票を投じた。その唯一の賛成者こそ、マネが、「クチュールとは別種の人間で、自分の意志を自覚し、それを率直に表明する男」と評したドラクロワ(*10)である。唯一の慰めだった。ちなみに、当時はまだ画家個人が展覧会を開くという習慣はなく、発表の場としては、十七世紀にルイ十四世による王立アカデミーの事業のなかで設立された、官設の「ル・サロン」があるのみであった。

続いてマネは、一八六一年のサロンに、「スペインの歌手(ギタレロ)」と「オーギュスト・マネ夫妻」という作品を送ったところ、なんとか「佳作」としての入選を果たした。彼にとっては初の勝利であり、周囲に若い画家が集まり始める。しかし、その悦びは長くは続かなかった。

一八六三年、サロンに対する若い画家たちの憤懣の声を聞いていたナポレオン三世は、突如、落選作を展示する「落選者展」を開いた。好奇の目とともに殺到した群衆は、嘲笑する暴徒と化した。わけても彼らの目当ては、マネの「草上の昼食」だった。その画の大胆さ、斬新さが群衆をいたく刺激した。「マネ! マネ!」、会場に響き渡る群衆の声は、彼が待ち望んでいた賞賛ではなく、敗者侮辱の怒声だった。

それでもマネは、裸体画をあきらめない。ティツィアーノ(*11)による「ウルビーノのヴィーナス」に着想を得て、「オランピア」を描き上げ、六五年のサロンに出品する。審査委員は、当初「下劣」として拒否したが、お情け半分、見せしめ半分で、展示は許された。しかし、ここでも「群衆は、腐敗した『オランピア』の前で死体公示所にいるように押し合っていた」(*12)。作品が傷つけられんばかりの状況に、当局は最後の部屋の大きな扉の上という高い場所に移動せざるをえなかったが、それでも群衆の激情は収まることがなかった。喫茶店に座れば、若い給仕は頼みもしないのに、彼のことが書き立てられた新聞を目の前に持ってきた。通りを歩けば罵詈雑言の嵐に遭遇するか、好奇の、しかし冷ややかな眼に眺められる日々が続いた……

 

 

そんななか、マネはたまらず、既に家族ぐるみでも懇意となっていたボードレールへ手紙を書いた。当時ボードレールは、生まれ、育ち、愛したパリを離れ、多額の負債から逃れるようにベルギーのブリュッセルに移り住んでいた。全集の版権を売り、講演で資金を稼ごうという目論見もあった。

―親愛なるボードレール、あなたがここにいて下さればと思います。罵詈雑言が雨あられと降りそそぎ、私はかつてこんな素晴らしい目に遭わされたことはありません。……私のタブローについてのあなたのまともなご判断がいただきたかったです。というのも、こうした非難の声のすべてが私を苛立たせるからで、誰かが間違っているのは明らかだからです。……そちらでの滞在が長引いて、きっと疲れていらっしゃるでしょう。早く戻ってきていただきたいです。これはこちらにいるあなたの友人皆の願いです。……フランスの新聞や雑誌がもっとあなたの作品を載せてくれるといいのですが。この一年の間にお書きになったものがあるでしょうから。(*13)

 

ボードレールは、すぐに返事を書く。

―私は、またしてもあなたのことをあなたに語らなければなりません。あなたの価値をあなたに示してみせなければならないのです。あなたが求めているのはまったく馬鹿げたことです。嘲弄の的にされている、からかいの言葉に苛立つ、人びとには正当な評価をする能力がない、等々、等々。あなたは、自分がそういう状況に立たされた最初の人間だとでも言うのですか? あなたは、シャトーブリアンやワーグナーよりも才能があるというのですか? しかし、彼らだってずいぶん嘲弄ちょうろうされたではありませんか? 彼らはそのために死んだりはしませんでした。あなたがあまり慢心しすぎないために私が言いたいのは、この人たちは、各自が自分のジャンルにおいて、しかもきわめて豊かな一世界の中で、それぞれ亀鑑であるのに対し、、ということです。私があなたにこうした無遠慮な言い方をするのを恨まないで下さい。あなたに対する友情はよくご存じの通りです。……私は衰弱して、死んでしまっています。二、三の雑誌に掲載すべき『散文詩』を山とかかえていますが、もうこれ以上先には進めません。子どもの頃、世界の果てで暮らしていた時のように、実体のない病気に苦しんでいるのです。(*14)

 

さらに、この返事を書いた直後、ボードレールは、マネの知人で、彼を擁護しているため人々から侮辱を受けている、という手紙を書いてきたムーリス夫人に宛てて、このように書いていた。

―マネにお会いになったら、次のことを伝えて下さい。小さなもしくは大きな業火、嘲弄、侮辱、不当といったものは、すばらしい事柄で、もし不当さに対して感謝しないなら、恩知らずということになるでしょう。彼が私の理論をなかなか理解できないことはよくわかります。画家たちというのは、いつもすぐに成功が訪れないと気が済まないのです。でも本当に、マネは非常に輝かしい軽やかな才能があるので、気を落としてしまったら可哀想です。……それに彼は、不当さが増せば増すほど、状況が改善されるということに気がついていないようです……(あなたはこうしたことすべてを、快活な調子で、彼を傷つけないようにおっしゃるすべを心得ておられるでしょう)。(*15)

 

このように、マネを力強く励まし、ムーリス夫人にはその声音まで指示するこまやかな心配りを見せていたボードレールだが、自身の健康は肉体的にも精神的にも衰えるばかり、資金獲得も目論見通りには進まず、八方塞がれた境涯にあったことは、彼の文面にある通りであった……

そんな、自らの肉体の衰弱が進むなか、力を振り絞るようにして綴られた彼の言葉を追ってみると、その力の源泉には、マネへの心からの友情に加えて、あの、『悪の華』事件で自らが受けた「誤解に基く屈辱」がまざまざと蘇ってきたこと、さらには、吉田典子氏も言っているように、「芸術の老衰のなかでの第一人者」という言葉が自分ごとでもあるという、強い自負があったに違いない。そこに傍点を付したのはボードレールであった。

いや、そういう紙背にあるボードレールの気持ちは、手紙を受け取ったマネには、痛すぎるほど直知できたに違いない。

 

 

ここに述べた、ボードレールから「マネへの心からの友情」には、単に心友であるということ以上の意味合いがある。小林先生が、「近代絵画」のボードレール論のなかで言っているように、「ボードレールがマネに認めた新しいリアリズムとは、ボードレール自身の詩のリアリズムと同じ性質のものを指す……伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識をもって人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生という『象徴の森』を横切る筈である。……こういう世界は、歴史的な或は社会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現れる。……詩の自律性を回復する為には、詩魂の光が、通念や約束によって形作られている、凡ての対象を破壊して了う事が、先ず必要である、とボードレールは信じたと言える。そうしなければ、言葉の自在を得る事は出来ない、何物にも頼らない詩の世界の魅惑を再建することは出来ない、と信じた。そういう性質の画家の魂を、彼はマネに見たのである。マネの絵に、意識的な色感の組織による徹底した官能性を見た。絵は外にある主題の価値を指さない、額縁の中にある色の魅惑の組織自体を指す」。

 

マネには、中学生の頃から揺るがない信念があった。絵画の授業でかぶとを付けた手本の模写を拒絶し、隣の席の子の顔を描いた。その信念は、「自分は見たままを描く」という、終生変わらない口癖と化した。わけても主題が強要される歴史画は大嫌いであった。

彼が、王立アカデミーにアトリエ教室が設置されたことについて、このように述べているくだりがある。

「そこに特許をもつ眼鏡屋を入れれば、たんに競争心が麻痺するだけではないことが人びとにはわからなかったのだ。問題は、この眼鏡屋がある特定の度数の入った眼鏡を使うことに馴れて、その眼鏡を無闇と学生の鼻の上に掛けてやりたがるようになったことだ。こうして、現に、遠近いずれの眼鏡がよく見えるかの処方に応じて、遠視や近視の世代が誕生してしまった。だが、多くの学生たちの中には、あるとき外に出て、彼ら自身の目でものを見始め、突然、これまで習ったのとはまるっきり別に見えるのにびっくりする者もいる。こういう学生は、彼らが成功しないかぎり追放される。しかし成功すれば、アカデミーはそれを自分たちの成功だと声高に数え上げるだろう」。(*16)

マネには、伝統や約束、通念という、アカデミーやサロンの審査員が強要する「眼鏡」は、はなから不要だったのである。その態度は、一八八三年、壊疽えそした左足を膝下から切断するという緊急手術を経て息を引き取るまで、一貫して変わるところはなかった。

 

 

一八六七年五月二十四日、パリで開かれた第二回万国博覧会の作品展からも締め出されたマネは、自ら多額の費用をかけて個展を開き、その落成式が行われた。しかし、せっかく自力開催できたものの、上述の「眼鏡」を嫌悪する一部の若い画家たちを除いて、大衆からは見向きもされることなく、幕は閉じた……

 

同年八月三十一日、シャルル・ボードレールは母の腕に抱かれて逝った。

その約一ケ月前、母オービック夫人が、マネの友人で、のちにボードレール全集を編集するアスリノーに宛てた手紙が残されている。ちなみに、その頃のボードレールは、脳梗塞に伴う右半身不随に失語症も併発し、明瞭な発声ができない状態にあった。

―シャルルは画家のマネさんに会いたがっています。残念ながら私は住所を知らないので、マネさんに手紙を書いて、友人が大声でお名前を呼んでいることを知らせることができないのです。(*17)

 

そのときマネの耳に、先輩ボードレールが、我が身に鞭打つように絞り出した声が、届いていたのであろうか。

 

 

 

(*1)鈴木信太郎訳「悪の華」岩波文庫

(*2)吉田典子「「ボードレールとマネ関係資料」、『近代』118(神戸大学)

(*3)romantisme(仏)は、一八世紀末から一九世紀にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。合理主義によって失われた人間性と自然を回復するために、理性よりは感情、完成された調和よりは躍動する個性が重視された。ラマルチーヌ(Alphonse de Lamartine 1780-1869年)、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo 1802-1885年)、ヴィニー(Alfred de Vigny 1797-1863年)はフランスの詩人。

(*4)Paul Valéry フランスの詩人、思想家。1871-1945年。引用は「ボードレールの位置」、佐藤正彰訳、(*1)より。

(*5)小林秀雄「現代詩について」、『小林秀雄全作品』第7集所収。

(*6)Edgar Allan Poe アメリカの詩人、小説家。1809-1849年。詩に「大鴉」、詩論に「ユリイカ」など。

(*7)辰野隆「ボオドレエル研究序説」全国書房

(*8)Charles-Augustine Saint-Beuve フランスの批評家。1804-1869年。近代批評の創始者。

(*9)Thomas Couture フランスの歴史画・肖像画家。1815−1879年。

(*10)Eugène Delacroix フランスの画家。1798-1863年。作品に「キオス島の虐殺」、「アルジェの女たち」など。

(*11)Tiziano Vecellio 1488,90頃-1576年。イタリアの画家、ヴェネツィア派の巨匠。

(*12)フランスの批評家ポール・ド:サン=ヴィクトールの評。アンリ・ペリュショ「マネの生涯」河盛好蔵・市川慎一訳、講談社

(*13)1865年5月初め、マネからボードレールへの手紙。(*2)に所収(手紙は以下同様)。

(*14)1865年5月11日、ボードレールからマネへの手紙。シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand 1768-1848年)はフランスの作家、政治家。ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883年)はドイツの作曲家。

(*15)1865年5月24日、ボードレールからポール・ムーリス夫人への手紙。

(*16)アントナン・プルースト「マネの想い出」藤田治彦監修、野村太郎訳、美術公論社。なお、著者は、「失われた時を求めて」の著者マルセル・プルーストとは別人。

(*17)1867年7月20日、ボードレールの母オービック夫人からアスリノーへの手紙。

 

【備考】

坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ―我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅱ―不羈独立の人間劇」、同2021年春号

同「ボードレールと『近代絵画』Ⅲ―『エヂプト』の衝撃」、同2021年夏号

 

(了)