『本居宣長』の<時間論>へ Ⅲ ―生と死の時間

石川 則夫

一 おっかさんという蛍

 

1946(昭21)年の5月が終わる頃、小林秀雄は母を失った。

 

母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかったし、話した事はない。尤も、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」という題を思い附いて、よほど書いてみようと考えた事はある。今は、ただ簡単に事実を記する。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私はもうその考えから逃れる事が出来なかった。

 

このように「妙な経験」の「事実を記」しつつ、「実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである」と書き、その時の状況や心情がこのように順序立てて進行したのではないと言う。

 

その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何もかも当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

 

当時、「扇ヶ谷の奥」の家から横須賀線の踏切まで歩いていた「私」は、蛍を見失ってから、いつもは決して吠えかかることなどしない「S氏の家」の犬に背後からずっと吠えかかられ、くるぶしを舐められながらも振り返らずに歩き続けていたが、背後から「男の子が二人、何やら大声で喚きながら」走って行った。その子供たちは踏切番に向かって「火の玉が飛んで行った」と言っていた。

 

私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事後の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直截な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。と言う事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。

二ヶ月ほどたって、私は、又、忘れ難い経験をした。

 

この経験とは、坂口安吾が「教祖の文学―小林秀雄論―」(昭22・6)で「去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったという話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンといっしょに墜落した由で、この話をきいた時は私の方が心細くなったものだ」と書き出していた。いわば、この事故を戯画化しつつ批評家・小林秀雄批判を展開したことで広く知られる評論であるが、事故は1946(昭21)年の8月の半ばに起きたという。これを「忘れ難い経験」と言い表すのは、次のような意味あいがあったからである。

 

或る夜、おそく、水道橋のプラットフォームで、東京行の電車を待っていた。まだ夜更けに出歩く人もない頃で、プラットフォームには私一人であった。私はかなり酔っていた。酒もまだ貴重な頃で、半分呑み残した一升瓶を抱えて、ぶらぶらしていた。と其処までは覚えているが、後は知らない。爆撃で鉄柵のけし飛んだプラットフォームの上で寝込んでしまったらしい。突然、大きな衝撃を受けて、目が覚めたと思ったら、下の空地に墜落していたのである。外壕の側に、駅の材料置場があって、左手にはコンクリートの塊り、右手には鉄材の堆積、その間の石炭殻と雑草とに覆われた一間ほどの隙間に、狙いでもつけた様に、うまく落ちていた。胸を強打したらしく、非常に苦しかったが、我慢して半身を起し、さし込んだ外灯の光で、身体中をていねいに調べてみたが、かすり傷一つなかった。一升瓶は、墜落中握っていて、コンクリートの塊りに触れたらしく、微塵になって、私はその破片をかぶっていた。私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした。断って置くが、ここでも、ありのままを語ろうとして、妙な言葉の使い方をしているに過ぎない。私は、その時、母親が助けてくれた、と考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである。

 

では、この二つの経験をどう処理すべきなのか。しかし「いろいろ反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった」という無力感に苛まれる自らを表現する他に術がない。この書こうとしても書けない状況について思い悩んだ末、自身がこれまで書き記して来たこと、あるいは、文章を書く行為の意味について言及していく。

 

当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置くことも出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。併し、今も尚、それから逃れているとは思わない。それは、以後、私の書いたもの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、私が露わには扱う力のなかった真のテーマと言ってもよい。

 

さて、前稿(2021年夏号掲載)の末尾に引用した蛍にまつわる経験を綴った文章を読みつつ、私にとって、それと二重写しになって浮かび上がった小林秀雄の文章が上の引用文、一つ目の「或る童話的経験」であった。そしてこれは小林秀雄自身の強い意向によって未刊行に終わった「感想」(ベルグソン論「新潮」昭33・5~38・6)の連載第1回の冒頭に掲げられているエピソードであり、もう一つの「忘れ難い経験」とともに母親の死去に関わる自身の不可思議な経験に捉えられ、どうにも逃れることが出来ないことを再確認したという文章である。そして、この経験を合理的に処理することが不可能だと自覚したところから、「感想」と題されたベルグソン論が書き出されているところに注意したい。 すなわち、この特殊な経験の姿を見いだそうとする懸命な言葉が、「おっかさんという蛍」であり、また「母親が助けてくれた事がはっきりした」という表現とならざるを得なかったこと、さらに「何もかも当り前であった」というまったく疑念を差し挟む余地のない経験そのものを指向するものでもあったことである。では、その私から過ぎ去ろうとしない経験、言い換えれば、日付とともに過去へ追いやられ、安定した記憶の倉庫にしまい込まれる出来事、誰が見ても明らかな事実として、交換可能な記録へと整理されることを拒んで止まない経験の機能に寄り添ってみること、かつ、その動きのままを表現することは出来るのであろうか。しかし、それこそが「私が露わに扱う力のなかった真のテーマ」だと言うのである。もちろん他の誰であっても、これを「露わに扱う」ことは出来ないのではないか。

「感想」第1回はこの二つの個人的な経験の姿を素描した後、この「真のテーマ」を引き摺りながら、「私」が先の事故後の療養で「伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した」ことを記している。

 

その間に、ベルグソンの最後の著作「宗教と道徳との二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た。

 

母親が死に、自分から過ぎ去ってしまった事実に、真っ正面から抗うような二つの経験は、「私」においてはまったく終了していない。そのどうにもならない反響の中で、「宗教と道徳との二源泉」(注・書名は「感想」初出のママ)を読んでいくことが「楽想の様に鳴った」という。これはしかし、この五十日間の読書の時間において、この著作がなんらかの解釈装置を与えてくれたのではない。学生時代からの「愛読」の経験が先の「反響」して止まない私の経験に「楽想」、楽曲の構想を与えてくれたと言うのである。多様な音が鳴り響くばかりの耳に、主題や旋律という音楽的感興が示唆されたということ。したがって、「反響」は徐々に整えられていったのである。こうして、五十六回で中断された「感想」は、繰り返し愛読したベルグソンの著作を次々と論じていく体裁を取っていった。その第二回では早くも主題となる問題提起が端的に示されるが、それは「哲学者は詩人たり得るか」という、不思議な問いであった。

 

体験したもの感得したものは、言葉では言い難いものだ。という事は、事物を正直に経験するとは、通常の言葉が、これに衝突して死ぬという意識を持つ事に他ならず、だからこそ、詩人は、一ったん言葉を、生ま生ましい経験のうちに解消し、其処から新たに言葉を発明することを強いられる。ベルグソンが、自ら問うたところは、こういうやり方は、果たして詩人の特権であるか、それとも、詩人の特権と見られるほど深く世人の眼に覆われてしまった当り前な人生の真相なのであるか、という事であった。 彼は先ず「意識の直接与件論」でこの問題を提出した。誤解を恐れずに言うなら、それは、哲学者は詩人たり得るか、という問題であった。実在は、経験のうちにしか与えられていない。言い代えれば、私達は実在そのものを、直接に切実に経験しているのであって、哲学者の務めも亦、この与えられた唯一の宝を、素直に受容れて、これを手離すまいとするところにある。其処からさまよい出れば、空虚と矛盾とがあるばかりだ。……(略)……彼も亦詩人の様に、先ず充溢する発見があったからこそ、仕事を始める事が出来た。彼にとって考えるとは、既知のものの編成変えでは無論なかったが、目的地に向っての計画的な接近でもなかった。先ず時間というものの正体の発見が、彼を驚かせ、何故こんな発見をする始末になったかを自ら問う事が彼には、一見奇妙に見えて、実は最も正しい考える道と思えたのである。これは根柢に於いて、詩人と共通するやり方である。最初にあったのは感動であって、言葉ではない。ただ、感動は極度に抑制されただけである。

 

母親の死にまつわる二つの抗いがたい経験は、こうした文章の、文体の流れとなって、楽曲の姿を現していくのである。しかし、この「感想」とだけ題されて1958(昭33)年5月から1963(昭38)年6月の5年間にわたって「新潮」誌上に連載された文章は、第五十六回を以て中断し、未完のまま破棄された。その理由については、わずかな発言を踏まえた憶測を出ないし、何故書けなかったのかを追究することにそれほど意味があるとも思えない。それよりも、中断された最後のページ、「新潮」昭和33年5月号第五十六回の219ページを再確認してみよう。

 

存在するもの、生成するものの内的本質が何であるにせよ、私達は、その中にいるのだ。「私達の内部の深みに下りて行って見給え、接触するところが深ければ深いほど、私達を表面へ突返す力も強くなるだろう。哲学的直観とは、この接触であり、哲学とは、この弾み(élan)である」と彼は言う。

これも定義ではない、そのニュアンスを感じなければならない言葉である。哲学的直観とは、或る根源的な観念というような言葉ではなく、意識の直接与件を保持しようとする現実の努力なのだ。意識が、外界に向って身体の動作によって己を現さんとする自然的な傾向に抵抗する努力なのである。実在との接触は認識論の問題ではない。実在の究極的二重性が、内的努力という形で経験されているのだ。誰の経験の中にも在る、この言わば純粋な経験を、通常、言葉によって混濁した経験を診断して救い出すのが大事なのである。

 

そして、次の文章で最終回を終えていた。

 

ベルグソンの仕事は、この経験の一貫性ユニテの直観に基くのであり、彼の世界像の軸はそこにある。「哲学は、ユニテに到着するのではない。ユニテから身を起すのだ」

 

長大な「感想」の記述は文字通り紆余曲折を経てはいるが、最終回となったこのページで、先に見た第一回から説き起こされた主題へ、自らの「妙な」そして「忘れ難い」経験へと戻って行ったのである。すなわち、その切実な経験とは、<母親>が実にかけがえのない実在だったということの確信であり、それとの接触が呼び起こした反動がベルグソンの著作を再読していく過程を通して音楽のように演奏されて来たのであったが、その果てに再びあの経験の「ユニテ」を想い起こすところへ帰らざるを得なかったということになる。

 

二 死を迎え入れる言葉

 

母親の死という絶対的な経験と、そこから、あたかも奔流となって噴き出して来た音響的幻覚を「感想」の文体は迎え入れることが出来たのだろうか。言い換えれば、ベルグソンの著作を再読することは<母親>という実在への言葉、これを象る文章たり得ていたのだろうか。しかし、それを追究することは先述したように、「未完」のままの破棄という筆者自身の覚悟を読み取るに如くはないとして、それよりも、1961(昭35)2月の「文藝春秋」に「言葉」(「本居宣長に、『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』という言葉がある」と始まる)が書かれ、同年7月に刊行された『日本文化研究』8号(新潮社)に「本居宣長―『物のあはれ』の説について―」が発表されており、このことを確認しておいた方がいいだろう(1)。そして、この年は「感想」の第二十~三十回の連載時期に相当しており、ベルグソンを論じる上で最も重要な著作である『物質と記憶』を論じ始めたところとなっている。連載回数に注目すれば、「感想」も全体のちょうど半ばに達する頃であり、この連載も佳境に入って来たところと言ってもいいだろう。しかし、先の2つの論述内容を確かめると、そこには本居宣長に関する豊富な知見が披瀝されており、それをかなりな分量(二つ合わせると原稿用紙換算で90枚弱になろう)で発表していたことになる。さらに、それらは1、2年間で学び得るような知見ではとてもないほどの詳しさ、深さを併せ持つものでもあった。すなわち、「感想」連載の途中、それもおそらく早い時期、もしかしたらその連載の前後あたりに、もう一つの「楽想」、その主題が奏でられ始め、芽を出し、枝葉となって伸びていたこと、それもまた「ユニテ」としての経験のもう一つの弾みであったことを確かめておこう。

端的に言えば、ベルグソンの著作を改めて再読し、その全体像へ向かって書き進めながら、一方では本居宣長の著作を読むこと、書くことは、ほぼ同時期に開始されていたのである。結果として見れば、こちらの枝葉こそが後々に大地へ根を張り、やがて大樹となって行ったのだ。

さて、未完のまま中断し、未刊行とされた「感想」の第1回の終わりには、ベルグソンの遺書を読むくだりがあり、「本居宣長」の連載第1回も遺言書を読み進めていくところから始まっているので、両者の近似を指摘する論者もあるが、しかし、ベルグソンの遺書と本居宣長の遺言状の内容は相当な差異があると言わねばならない。つまり、ベルグソンは刊行した著作以外の遺稿類の閲覧を禁止しただけだったが、本居宣長のそれは、自らの死後の処置、墓の設計図から、葬送の式次第、その後の祭り方などを詳細に記述したものであり、「本居宣長」の記述は、「この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい」と、遺言書の文体に注意を促すものであった。また、これを「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿」とも記していることに焦点があると考える。いわば、本居宣長自身の死を迎え入れる言葉が連なっている文章への注目を指摘しておきたい。

さて、そうしたテーマに関連して想起されるのが、小林秀雄が古稀を迎えた際に書かれた「生と死」という文章である(正確にはその前年である1971(昭46)年11月に行われた講演を翌年「文藝春秋」2月号に発表したもの)。これは「文藝春秋」が刊行50周年を迎えるにあたり、自らの文筆生活の50年間を振り返って「吾が身の変り方」に改めて想いを致すといった内容であるが、家族に「近頃、親父も呆けた」と言われることについて、こう記している。

 

呆けたという特色は、そんなものではない。棺桶に確実に片足をつっ込んだという実感です。人は死ぬものぐらいは、誰も承知している。私も若い頃、生死について考え、いっそ死んで了おうかと思いつめた事があるが、今ではもう死は、そういう風に、問題として現れるのではない。言わば、手応えのある姿をしています。先だっても、片付けものをしていたら、昔、友達と一緒に写した写真が出て来た。六人のうち四人はもういないのだな、と私は独り言を言います。その姿が見えるからです。

 

「その姿が見える」とは、もちろん、写真を手にしてそこに残る亡き友人たちの撮影像に見入っているわけではない。そしてこうしたことが「棺桶に片足を突っ込む」という「経験が生んだ」言葉を味わうことなのだと言う。また、その先の本文には『徒然草』からの引用が見える。

 

人の一生の移り変りでは、移り変るのが我々自身なのであって、我々が、外から、その移り変りの序でを眺めるという性質のものではないのである。この意味合から、兼好は、死期に序でなし、と言うのです。だが、人々は、なかなか、これを納得しない。死から顔をそむけたがるからだ。「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と言う。これもずい分強い言い方である。潮干狩に行った人々は、皆、潮は沖の方から満ちて来ると思って沖の方を見る。「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」―生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである、というのが兼好の考えなのです。

 

さらに、「吾が身の移り変りは、四季の移り変りとは様子の違うところがある。まるで秩序ついでの異なるものだと言ってもいい」と続けて、

 

そのように人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私達には与えられていない。その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。

 

したがって、生きることと死ぬことはまるでコインの裏表のように、実は一体となっていることが示唆されて来る。それでは、生の中に常に兆し続けている死の姿を見つめて、これを迎え入れるとはどういうことなのか。「生と死」はこの後に『論語』の孔子と子路の問答に言い及び、子路について「ソノ死ヲ得ザラン」と言わざるを得なかった孔子の想いに触れつつ、「孔子が死を得ると言うところを、兼好なら、死を迎えるとか、待つとか言うだろう」と論じていく。その次に「先月、志賀直哉さんがお亡くなりになった」と転じ、無宗教で執り行われた葬儀に触れて、しかし、その「宗教的経験の方は、志賀さんの心のうちで、全く個性的な形で現れる事になる。古稀の志賀さんに、こういう文章がある」と、このように引用している。

 

私は少し極端に迷信嫌いなもあって、縁起の悪い事をしたり、云ったりする事が好きだ。益子の浜田庄司君に骨壺を焼いて貰い、今、それを食堂に置き、砂糖壺に使っている。最初は自家の者も余り喜ばなかったが、習慣的に段々何とも思わなくなり、家内も浜田君に同じ物を頼み、既にそれも焼けているそうだ。学校や役所の廊下にある痰壺のような焼場の骨壺が厭やなのと、砂糖壺の必要があって、浜田君に頼んだのである。

 

これは、志賀直哉の「年頭所感」と題する文章で、1952(昭27)年1月3日に発表されたものであるが、これを単なるいたずら好きのエピソードではなく、「個性的な形」として現れざるを得ない「死を得る工夫」なのだとして、さらにそれが「ひそかに練られる所は、この作家の全作品の歴史が創られて来たその内省と同じ場所」であると言う。ややわかりにくい表現かもしれないが、たとえば「城の崎にて」(1917(大6)年)を読み返し、「自分」の周りの生き物たちの必然の死と偶然の死、そして「自分」の偶然の生を見つめ、生と死が渦巻く経験から逃れることができない「自分」は何を感受していたのか。その最終部の感懐を確かめてみると、自らの死生観を一般化しようとする知的な営為に走ることなく、「死を得る工夫」が文章表現上に練られている様相に気づかされるのである。

 

死んだ蜂はどうなったか。其の後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃は其の水ぶくれのした体を塵芥と一緒に海岸へでも打ち上げられている事だろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上がっては来なかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。……

 

三 死を待望する言葉

 

さて、こうした話題を考えていくともう一つ、挙げておきたい作品が思い浮かぶ。1942(昭17)年に発表された「バッハ」である。これは、バッハの夫人であったアンナ・マグダレーナ・バッハの著書『バッハの思い出』を読んだ感動から書き起こされたものだが、ここには先に紹介してきた言葉より、もう1歩を進めた言葉が展開されているのである。バッハ夫人の言葉は次のように引用される。

 

「私が、少し不注意に或いは落着かずピアノを鳴らしたりすると、彼は、手を、私の肩に落しました。そんな事さえ、今でもはっきり思い出せるのですから、この伝記は、在りのままに、正確に書き度いと思っています。それは、半ばやさしい半ば不機嫌な小さな揺ぶり方でした。私が今、わざともう一度不正確の罪を犯しさえすれば、ああ、彼の手を肩の上に感ずる事が出来ようか」。誤解しない様に、この老夫人は、過ぎ去った日を惜んでいるのではない。過去があまり眼の辺りにあるのに驚嘆しているのである。こういう風に始った伝記は、次の様に終る。「伝記を書き終った今となっては、私の存在も終りに達したと思われます。この先き更に生きている理由がありませぬ。私の真の存在はセバスティアンが死んだその日に終りを告げて了ったのですから」。こんな風に書く為には、どれほど完全な充足した生活の思い出が必要であったか、心弱い女性の泣き言と見ず、そういう風に思い廻らす能力を、近代人は、次第に見失って来たのではあるまいか。

 

バッハの音楽の不思議な魅力が、「こんなに鮮やかに言葉に移されるとは殆ど奇蹟だ」とまで賛辞を惜しまない批評となっており、「読後、バッハの音楽を聞きたい心がしきりに動き、久しく放って置いたレコードの埃を払っ」て蓄音機を聞いたと記しているが、しかし、この批評文は具体的なバッハの音楽、『バッハの思い出』中に溢れている楽曲の数々に言及することはなく、バッハ夫人自身の思い出が湧き出す勢いのまま描き出されたような、その筆致に寄り添うように書かれていく。「回想記は、バッハの音楽に近付く唯一の方法を明示している」として、これを「フーガの技法」を繰り返し聞きながら確かめたと言うのである。

そして最後に「長いから引用はしない」と断って、バッハの死後、その思い出とともに生きて来たバッハ夫人に訪れた一つの確信について要約している。

 

これは早くから感じて驚いていた事だが、彼はその事について一言も語らなかったし、私達は幸福で多忙だったし、熟考してみる暇がなかった事なのであるが、それは、バッハは常に死を憧憬し、死こそ全生活の真の完成であると確信していたという事だ、今こそ私はそれをはっきりと信ずる、と。

 

バッハにいよいよ最後の時期が近づいて来た時のことを回想する箇所、『バッハの思い出』の「終焉」の章に、この文章は現れる。今、ダヴィッド社の1967年刊行の訳本(山下肇訳)によって確認してみる。

 

この最後の時期にいたって、ある深いおおらかな明るさが、彼の上にあらわれました。死というものは彼には、少しも恐ろしいものではなく、むしろ生涯にわたってたえずあこがれていた希望でありました。死は常に彼には、あらゆる人生の真の完成であるように思われたのでございます。彼の音楽にも、この魂の情調はよくあらわれていました。死とこの世からの別離という観念が、彼のカンタータに表現されるときほど、彼のメロディーが美しくまた情熱的になったことはありません。

 

確かに、作中にはバッハが抱いていた「死への憧憬」に触れる箇所がいくつか出てくるのだが、「セバスティアンが生きているうちに、彼の憧憬がこれほど強いものだとは感じ」なかったし、「天賦を持たない人間には、このことは理解できない」とも書き添えられており、夫人はこれを説明することの困難さを率直に訴えている。しかし、「彼が世を去って、ありし日の彼の人柄、気質、言葉などを、こうしてよくあれこれと思い見るようになり、いつもすぎ去った時代にばかり自分の心をむきあわせるようになってから」だんだん分かるようになったと言うのである。

すなわち、これは、ただ己の死を待つ、準備するというよりもさらに能動的な、しかし、覚悟というような張りつめた悲壮感が漂っているのでは決してなく、むしろ、やすらかで平穏な生を内側から支えている、そうした確信と言えるものなのかもしれない。

 

四 生死の二分法を超えること

 

小林秀雄『本居宣長』という作品は、死という絶対的な事象を取り扱っている文学だと思っていた。これは単行書が世に出てから4、5年目あたりの私の感想であったと思う。それから40年近くの時間を閲してみると、あの宣長の遺言書を読み解いていく冒頭部と、そして最終章、第五十章の印象がかくも強かったのかと改めて思う。最終章を終えようとする際に、「ここまで読んで貰えた読者」を再び第一章の遺言書へ誘おうとする記述に沿って読み進めれば、『本居宣長』という作品がループ状の読書行為を促していることにも気づくことになる。全編のそこここで呼びかけられる「読者」という言葉に成り代わろうと精読して来た者は、いやでも再び遺言書へ向かわざるを得ない。そして「最後の自問自答」というテーマを課せられる。しかし、そのループ状になる読書行為を何年も、何回も繰り返して現在に至っている私の中では、『本居宣長』を読むことにおいて浮上する死のイメージは絶対的な、強ばったようなものではなくなっている。その感覚を頼りにして、「本居宣長」連載の最終年前後に窺われる柳田国男の著作への言及を掘り起こすことも、これまでの本誌において試みて来た。あの『山宮考』を考えた頃からもうかなりの時間が経ってしまったが、本稿もまた、死という事象の柔らかさについて、小林秀雄のいくつかの文章に読み込めるところを拾い集めてみたという体裁になっている。まずは生と死の時間を哲学的考察のように直接に問題化するよりも、この時間の周辺部を少しずつ拡げていくことが出来ればと考えている。

『本居宣長』のループ軌道の先に見えて来つつあるものは、死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿なのである。そこへ向かってもう少し自分の言葉を探して行きたい。

(つづく)

 

注(1)「小林秀雄『感想』と宣長論の交錯―昭和三十五年の記述を考える―」(「國學院雑誌」第105巻11号 平成16年4月)で、この点を考察したことがある。