冷たい雨

飯塚 陽子

雨の音が聞こえた。遠くから近づいてくるようだ。私の体は風船のように膨らんで張りつめ、雨の音と一つになる。柔らかい猫の手が、それを破裂させた。

私は夢の中で何かを探していた途中だったらしい。眠りに沈んだ人間を引き上げようとベッドの上を歩きまわっている猫に向かって、思わず「なにを探しているの?」と訊いてしまった。返答はなく、雨音だけが静寂の中に続く。自分の夢うつつに気が付いた。体の疲労感からして、今日もまた早朝に違いない、と思った。

五日ほど前から、コルシカ島へ旅立った友人夫婦の猫を預かっていた。その猫が、毎日早朝に私を起こすのである。メインクーンという種類だけあって、とても体が大きい。寂しがり屋で、私が部屋を移動すればついてくる。席を立てば、すかさずその席をとる。夜はベッドで一緒に寝る。そして朝、まだ太陽が昇らないような頃、その重い体で私を起こす。

ベッドを広々占領して寝そべる猫のぬくもりを手に感じながら、私はふと、夏からバルコニーで育てている苺のことを考えた。きっとこの雨を喜んでいるだろう。熟す前に摘まれた、市場に並ぶための苺と違って、バルコニーの赤い果実、いや「偽果」は、小粒ながら味が濃い。夢の中で探していたのは、苺にやる水であったような気がしないでもない。

 

「はじめに<眠り>があるだろう」――ヴァレリーの未完の詩集『アルファベット』はこんな言葉から始まる。かの「はじめに言葉ありき」は過去形だが、詩人はここで敢えて未来形を使い、読者を困惑させる。しかも、その「はじめ」において主体は分裂しているのである。「沈黙、私の沈黙よ! 不在、私の不在よ、おお私の閉ざされた形よ、私はあらゆる思考を放棄し、全霊を傾けておまえを見つめる。」

『アルファベット』は、フランス語ではほとんど使われないKとWを除く、24個のアルファベットを彫刻したイニシャル飾り文字に合わせて、それぞれの冒頭の語がA、B、C……から始まる24個の散文詩を作り、詩集にまとめてはどうかという、ある書店主からの注文に基づいた計画だった。ヴァレリーは、24の詩篇を一日の24時間に対応させようと考え、「それぞれの時刻に、さまざまに異なった魂の状態、活動、あるいは傾向を対応させるということは、かなり容易である」と書き記したが、この詩集は未完のまま終わっている。

 

あなたは昼間に眠ってばかりで、こんな時間に人を起こす、猫の詩はどうやって始まるの? ……猫はつまらなさそうな顔をする。私は彼女の望むままにベッドを出て、日が昇るまで、ブラインドのない窓の傍に置いたソファで毛布にくるまることにした。

夜が明けはじめると、部屋は少し白くなった。雨の線が見えるようになり、苺の色が分かるようになった。バルコニーの苺は、吹き付ける雨のシャワーを浴びて、緑の葉を痙攣させている。そして小さな球体を二つ、三つ、ぶら下げている。今にも事切れるという線香花火のように見えた。

熟した苺は、人の血で咲いた花、という詩句を私に思い出させた。フランス語で花というと、詩のことでもある。「詩集 recueil」の語源には、「摘む recueillir」という動詞がある。そうならば、詩というのは時に、人の血で咲いた花そのものとなるのかもしれない。

猫が、まるで鳩のような声を出して、苺に見入る私を呼んだ。みゃあ、と鳴くのは何かを要求するときで、鳩みたいな声を出すときは、ちょっとしたコミュニケーションであるらしいと、なんとなく理解していた。

大きなメインクーンは、ふわりと椅子にとび乗って、私が前夜机に置いておいた本のにおいを嗅いだ。小林秀雄の『作家論』。民友社から、昭和二十一年に初版が発行されている。猫は頭を古本に撫でつけ始めた。やめる気配もなく続くその動作に、どういう意味があるのか、犬しか飼ったことのない自分には分からない。

私は猫が頭を撫でつけるように、あるいは人が眠って目覚めるように、いつもこの本に戻ってくる。何年前のことだろう、モンマルトル墓地でスタンダールの墓参りをしたとき、「書いた、愛した、生きた」という有名な墓碑をこの目で確認して、随分ロマン主義的だと思ったものだが、小林秀雄の『作家論』を読むうちに自分は、その三つがもはや独立では成立し得ないような地平に、想定していたような意味を一切もたないまま、辿り着いていた。そこには暁の微光があった。

 

ヴァレリーは、『アルファベット』のために夜明けの詩「C」を書いた。

「なんと時は穏やかで、夜の若々しい終わりは微妙に彩られていることだろう! 泳ぐ人の活発な動作によって、鎧戸が右と左に押し開かれ、私は空間の恍惚のなかに侵入する。大気は澄みきり、汚れてはおらず、穏やかで、神々しい。私はおまえたちに敬意を表する、眼差しのあらゆる行為に差しだされた広大さ、完璧な透明さの始まりよ。」

詩人とは泳ぐ人であるらしい。夜明けとともにポエジーの世界へ泳ぎだす。その海には、氷のかけらが残っている。

「月は溶けゆく氷のかけらである。私は(突如として)あまりにはっきりと理解する、一人の灰色の髪の毛をした少年が、なかば死んだような、なかば神格化されたかつての悲しみを、このほとんど感じられぬほどに溶けてゆく、柔らかくて冷たい、きらめいて、消えかかった物質でできている天体のうちに見つめているのを。私は少年を見つめる、まるで自分の心の中に私が少しもいなかったかのように。かつての私の青春は、同じ時刻の頃、消えゆく月の同じ魅惑のもとで、思い悩み、涙が溢れてくるのを感じたのだった。私の青春は、この同じ朝を見たのだ、そして私はいま自分が私の青春のかたわらにいるのを見る……。」

この季節の雨は長くは続かない。雨上がりのバルコニーに出ると、空には薄っすらと白い月が浮かんでいた。なんだか月を見るのがつらくなって、バルコニーの下を見やると、今度はめまいがした。フランス式の三階、日本でいう四階だが、薄暗いと随分高く感じる。落ちたら死ぬのだろうか、などと考える。そうなると、ムッシュー・クレバスのことを思い出さずにはいられなかった。彼はこの倍くらいの高さから落ちたのだ……。

 

夏が去ったばかりの頃、ある日の夕刻に、カフェでランデヴがあった。が、相手が大幅に遅刻するのは待ち合わせ場所に着いた時点で分かっていた。いつもはカフェクレームを頼むけれども、紅茶の方が時間に耐えられる気がして、その日は紅茶を選んだ。

テラス席と店内席の間、屋根までガラス張りになっている空間を気に入り、その中途半端な場所に腰かけた。ガラスの壁は赤い枠で縁取られており、屋根にたまった落ち葉は透けて見えた。テラス席の方が見えるように座ると、後ろからは、食器が軽くぶつかり合う音が心地よく聞こえた。ちら、ちら、と黄色い木の葉が散るのが、たまに視界の端に入る。出されたお湯をカップに注ぐと、紅茶はガラスの壁から差し込む光を受けて、薄氷を張った冬の朝の湖のように危うい輝きを放った。

すぐに本を開いたが、隣の男性二人の会話が気になってしまって、集中できなかった。二人とも五十代だろうか。テラス側に座っている人が「僕は三十年前に死んでいたかもしれないからね、命がありがたいんだよ」と随分明るい声で言うので、何の話だろうと思った。

「南アルプスで、クレバスに落ちたんだ」

店内側に座っている人が「本当ですか!」と反応するのと同時に、私も思わず本から顔を上げた。

「父親と一緒に、下山している時にね……その日は気温が少し高かったのに、登山を決行してしまったんだ」

「クレバスって、どのくらい深かったんですか」

「25メートル。でも幅が1メートルしかなかったから、真下にそのまま落下したのではなくて、クレバスの側面にぶつかりながら落ちた。二人とも。で、僕は頭を打って意識を失った」

「意識は戻ったんですか」

「うん。でもクレバスの底は暗闇だった。前方に、微かな光が見えたから、そこから脱出できるかもしれないと思って、懐中電灯を片手に前進したんだけど、途中でさらに深い穴があることに気付いた。ここに落ちたら命はないと思った」

「でしょうね……」

「だから、光の届く場所には行けなかった。で、眠ったら凍死するでしょう? 眠ってしまわないように、父と励まし合ってとにかく耐えた。22時間耐えた」

「22時間も……。そのあと、救助が来たということですか」

「奇跡的にね。翌朝、額に雫が落ちたのを感じたんだ。上に登山者がいるのだと分かった。すぐに二人で助けを求めて叫んだけれど、声は届かなかった。その時は絶望したね」

「へえ……」

「でも、幸いピッケルを一本、クレバスの横に落としていたので、上にいる人がそれを見て、クレバスに飲まれた人間がいると気付いてくれたみたいでね。救助を呼んでくれた」

「よかったですねえ……」

話に集中していないことを装うために、私は本のページをめくったり、屋根の落ち葉を数えたりした。

「待って、最後に面白い話がある」

「なんですか」

「落下した時に、父親の足が顔に当たって、瞼を切っていたみたいでね。その時流れた血が、クレバスの底で凍ってしまった。凝固したんじゃなくて、鮮血のまま氷結した」

「はあ」

「それが、救助されてクレバスの外に出たときに、溶けたんだよ。顔が一面、血だらけになった」

「あはは! 銀世界に鮮血頭、なんて光景だ」

「みんな慌てていたから、僕は、大丈夫ですよ、昨日の血ですから! って言ったのさ。あ、瞼を21針縫ったんだけどね、そのあと……」

本当の話なのだろうが、だからこそあまりにも本当らしい語り方なので、かえって非常によく出来た演劇の中にいるような気がしてくる。

                                                              

ムッシュー・クレバスは会計を済ませ、「話、聴いてた?」とでも言いたげな表情で私に一瞥をくれ、いなくなった。ほとんど入れ違いに、待ち合わせの相手が入ってきたのが見えた。

光の届かないクレバスの底で、人は何を思うのだろう。思い描こうとしたが、私の想像は青いまま摘まれてしまった果実のように、熟しきれなかった。そんな劇的なことを経験したことがないから、分からないのであった。

しかし、自分は少なくとも一つのこと知っている、と思った。クレバスのような深淵は、本当はいつもすぐ傍にある。暖かくなり始めた時、雪の輝き始めた時が危ないのだと知りながら、広がる銀世界を前に、私は高揚せずにはいられない。そういう自分を、私は知っている。

 

パリのカフェは、私をまたしても通りすがる人にさせる。知らない人の人生。いつだって、ガラスの屋根に黄色い落ち葉がほんの数枚積もるまでの間、居合わせるだけである。

ある日の夕刻耳にした見知らぬ男性の物語は、喜劇の印象を私に残したけれども、早朝のバルコニーにおいては深淵の恐怖でしかなかった。風が頬を切るように冷たく通り過ぎる。しかし……。

詩人が空を泳ぐ人、今まさに泳ぎ出そうとするである人ならば、人の血で咲く花は、天に向かって伸びつつある花でもあるだろう。人の命が燃やす花弁の環は、真ん中に虚無を保ったまま、いつしか空に輪舞を描き、星とともにきらめく。大地に寝そべる人間は無秩序な輝きをつなぎ、ある物語を見出す。そこにポエジーがあることに気付く。

 

輪舞(Ronde)と韻を踏むのは、世界(Monde)である。その世界は、巡り、巡らせながら、同時に波(Onde)を打っている。ヴァレリーは、「G」で波打つ海を陶酔の炎に変える。

「はるかな海は、のすぐそばに置かれた、火に満たされた杯となる。あの葉叢の上に身を横たえてきらめいている地平線を、私は飲み味わう。私の視線は、このいっぱいに光り輝くものからもはや離れられなくなった唇だ。彼方では、大空がを波また波にそそぐ。天と海との間に宙吊りにされた熱気と光輝があまりになので、善と悪、生きる恐怖と存在の喜悦は、輝き、死に、輝き、死に、静寂と永遠とを形づくる。」

ヴァレリーには「匂い立つ樹」であるとさえ思われた、大気を通して体に入る「飲み物」、垂直に伸びてゆく生命の海は、円熟期の詩人が愛を歌う、昼間の連なりに差しかかると、目を唇に変え、水を炎に変え、彼を陶酔に誘う。海が匂い立って昇るのではなく、天が炎を海に注ぐ。見る(Voir)ことは飲む(Boire)ことになる。

雨上がりの湿った空気をバルコニーから吸い込んだ私は、潮気が感じらないのを残念に思った。向こうに見えるあの白樺の樹々は、頼りないけれども「匂い立つ樹」でありえるだろうか、輝きを炎に変えて注いでくれるだろうか、などと考え、猫の待つ部屋に戻った。

 

今度は猫の方が、ガラス越しに苺を眺めている。苺の粒は自分の重みに耐えられないかのように、その身をプランターの外、それもバルコニーの箱ではなく部屋に近い方に投げ出し、うなだれている。まるで向日葵とは正反対の、陰気な花のようだ。

向かいのあの白樺もうなだれている、と思った。毎年春が来ると、揺れ撓りきらめく白樺の姿を見て、この世界に光があり、風があることを思い出すのだが、夏も終わるとそれは、うなだれている、としか言いようのない恰好になる。寒々しい緑のカーテンそのものだった。

みゃあ、と餌を要求する声が聞こえた。こうやって猫の毛が舞って床に落ちるまでの間にも、白い月は溶けてゆく。何もかもが、あっという間に形を失う。

 

ヴァレリーは、詩とは「自らの灰から再び生まれる」ものであるとした。私はその意味を知りたかった。知りたくて、自分のマッチ箱を空にするまで火を灯し続けた。踏みしだいた灰からは何も生まれなかった。

シモーヌ・ヴェイユはこんなことを言っている。

「きらめく星と花ざかりの果樹。どこまでも永久に続いてかわらぬものとこの上なく脆くはかないものとは、ともに永遠の印象をもたらす。」

花のはかなさを知らない人間に、この一瞬を、この一行を永遠にすることなど、できるはずもないのであった。

 

気付けば月はすっかり溶けていて、部屋は均一な空気に満たされている。

フォンダンショコラやバニラアイスのようなものは、ほんの僅かな時間しか隣り合わせていることができない。ただ夢うつつの幸福だけが、寄せては返す波の中で、その恍惚を延長する。白くて甘い天体は、覚醒した体の温かい血潮に薄っすらした後悔を残して、消えてしまった。

 

午後から再び雨が降り、雷雨になるとのことだった。天気の悪い土曜日、猫は一日中人間の傍にいられるので嬉しいようだ。ごめんね、と言って、雨が本格的に降る前にパンだけは買いに行くことにした。外に出ると、なんともいえない空気が体を包む。これからひどい雨が来るのが分かる。

人の心にも雷雨はある。しかしその轟音は誰にも聞こえない。轟音にかき消される叫び声もまた、誰にも聞こえない。隣の人の雨雲を、自分の頭上に迎え入れることができたらいいのにと思う。最初から同じ空の下になんていないのだ。雪山の亀裂のような、恐ろしいへだたりを受け入れる努力がなければ、同じ雨に打たれることもできない。

 

パン屋の前で、うなだれたままじっと動かない白樺の樹々を見た。『アルファベット』の「М」が聞こえてきそうである。

「マダム、わが友よ、あなたは私に訴える、花が綺麗だから、その匂いをかぎに来て頂戴、たくさんの薔薇が私にそそぎかける快楽、驕慢、陶酔を、一人では受けとめきれません、と。」

「こうまで繊細で、こうまで敏感で、こうまで脆い驚異の花々を、私はいつくしむ術を知りません……。友よ、あなたは花を愛しておいでだけれど、私が愛しているのは樹なのです。花は物ですが、樹は存在です。私は部分よりも全体を好みます。」

「樹は生長しない限りは存続せず、その数多くの葉は、海の上で起こることどもを、声をひそめて歌うのです。」

「樹よ、私の樹よ、もし私が名づける権限をもっているなら、<>がおまえの名となるだろう。」

なんだか、分かりやすいだけに釈然としない詩である。

駐車場脇の花壇を見る。丸くて赤い、陰気な花は見当たらない。白樺越しに見える三階のバルコニーを思った。目には見えない赤い「偽果」が、私の心の外壁を削り、発火する、この「自己を構築しつづける」「樹」を燃やす、そんな気がした。

「N」は「М」に応答する。

「いいえ、あなたには何もおわかりにならないでしょう、と彼女は私に言った。

なぜって、あなたは、名づけてはならないものを、名づけてしまったのですから。私は名前をもたないもの、自分のなかにしかないものを何にもまさって尊重するのです。」

「ほんのわずかしかたない私の薔薇で、私には十分です。」

身体と精神の目覚めを歌い、あるいは補完関係の強烈なポエジーに形を与えた詩群に比べ、これらはあまりに素朴であるという気がする。

「O」では、並んで歩くこの二人に翳りが差す。

「さて、その庭の中には、しばしの間、苦痛の生の果てしれぬ持続の間、この庭の整然としてかぐわしい形姿の上を、動き、生き、彷徨い、停まる、ひとつの深淵のようなものがあった。」

「ほとんど同じ二つの思念の間に、ひとつの深淵のようなものがあって、その深淵の両側には、同じひとつの苦痛、ほとんど同じ苦痛があった。」

「Q」には、夕刻の光と色彩がある。

「なんという優しい光が、和解した魂のみつめるものをひたすことか。どんな微細な色合いの差も感じられる。苦痛の甘い終結が、私たちの中にいる奇妙な子供に生命を返してくれるとき、色彩はいま創りだされたばかりのようだ。」

私は当初、これを感性の見出す慰めと読んだが、間違っているような気がする。

 

癒しの光を求めて文学に向かうのは、昨日の血を溶かすには十分で、今日の血を温めるには不十分な、人肌には冷たすぎる海を泳ぐことに似ている。その海には恍惚も陶酔もない。救済の文学を生きるというのは、それとは違う。昨日の血で花を咲かせ、今日の血で花を染めることだ。そして、その花が死に、再び生まれるのをこの目で見ることだ。

 

今夜も月は凍てつくのだろうか。氷の溶けきった空を仰ぐと、顔に水滴が当たるのを感じた。ぽた、ぽた、と、雨粒が額やこめかみに落ちた。それは流れる涙のように耳を濡らした。ひょっとすると私は、既にクレバスの底にいるのかもしれない。温かいひよこ豆のパンを抱えるようにして、アパルトマンへ急ぐ。

苦しいことの粒、楽しいことの粒。一つ一つお箸で取り除いてゆけば、命の底には、芯のある粒にはなりえない悲しみと優しさだけが残り、漂う。私の命は、ぽた、ぽた、という、音にならない音、それ以上にはならずに堪える何か、つまり、静かで強い悲しみと優しさを、そっと抱いている。それを愛することは、粒を舐め、粒を噛んで生きるだけの毎日を、虚無から救う。

湿気で膨張した玄関のドアを強引に開けると、猫は私の脚に体を摺り寄せてきた。今日は一緒に本を読もうか、とほとんど無意識につぶやく。それには鳩の鳴き声で返答があった。キッチンで猫が餌を咀嚼している間、私は摘みたての真っ赤な苺を口に放り入れ、目をつむる。カリ、カリ、という音が遠くから聞こえた。

 

遅い昼食を済ませると、雨音が強くなってきた。猫を隣の椅子に座らせ、背筋を伸ばして『作家論』に向かう。古本のにおいがつんと鼻をつく。最後の章「ヴァレリイ」はこう終わる。

「僕は繰り返す。何處にも不思議なものはない。誰も自分のテスト氏を持つてゐるのだ。だが、疑う力が、唯一の疑へないものといふ處まで、精神の力を行使する人が稀なだけだ。又、そこに、自由を見、信念を摑むといふ處まで、自分の裡に深く降りてみる人が稀なだけである。缺いてゐるものは、いつも意志だ。」

雷に打たれたという感じがした。精神が浅い方の底にとどまることほど愚かなことはない。己の深淵にまなざしを向けることのない者に、ヴァレリーの何を語れるというのか。「ヴァレリイは、人間を抽象してCogitoといふ認識の一般形式を得たのではない、自分の純化に身を削つたところに、テスト氏といふ極めて純粹なもう一人の人間を見付けたのである。」そこまで精神力を徹底させた詩人を相手にするような時、格闘なきポエジーの発見があるとは思えない。

 

冷めたお茶のように透き通る猫の目は、私に問いかけていた。お前は樹と花のどちらを愛する人間なのか。存在と物。生い茂るものと枯れるもの。名前を与えられたものと、与えられなかったもの。匂い立つ海の樹と、人の血で咲いた花。……

激しい雨音が、広がる沈黙に輪郭を与えたように思われた。

私は多分、脆い花の上に落ちる樹の影を愛している。それは、自分が奈落の底と信じた場所よりもさらに深くにある、本物の底の色をしている。炎の歌がその影を天に打ち上げ、揺らめきの中で永遠にする時を、私は待ちのぞんでいる。書くことは愛することであり、生きることであり、一瞬を永遠にすることであるはずだ。

しかし、この雨音がもっと激しく響くあの奥底にしか、私の探す炎はない。地上に届く声を一度失わなければ、何を燃やすこともできないのだ。そう思い知ればこそ、雨はなお冷たい。

(了)

ヴァレリー『アルファベット』の翻訳は

『ヴァレリー集成Ⅱ <夢>の幾何学』塚本昌則・編訳、筑摩書房

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の翻訳は

『重力と恩寵』田辺保訳、筑摩書房

から拝借しました。

筆者

 

編集部註

ここに掲載した飯塚陽子氏「冷たい雨」中の小林秀雄「ヴァレリイ」は、現在は「『テスト氏』の方法」と改題され、『小林秀雄全作品』(新潮社刊)の第12集に収録されています。

またその「ヴァレリイ」の末尾「缺いてゐるものは、いつも意志だ。」は、第3次『小林秀雄全集』(新潮社版、昭和43年2月刊)以降、「缺けてゐるものは、いつも意志だ。」と改められています。