ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その十三 詩魂の行方~ヨーゼフ・ヴォルフスタール

 

1827年3月26日、ベートーヴェン逝去。その日は嵐、吹雪の空を雷鳴が切り裂いたというが……ほんとうだろうか。あのあまりにも有名な「運命」のテーマが、ふと耳元で鳴る。ヒュルリマン編『ベートーヴェン訪問』の最終章「フェルディナンド・ヒラー」には、たしかにそのような記述がある。だが、どうもちょっとうますぎる。伝説だとしても、その出来はあまりよろしくないと思えるほどだ。もっとも、どちらにしても同じことかも知れない。そのほんの数日前にベートーヴェンを見舞ったヒラー氏の胸にあったのは、その劇的な終焉を伝記に遺したいという意思の真実であり、もしくは、そんなふうにでも語らねばすまないという情熱の真実である。死に至るまで嚇怒せるベートーヴェン。ウィーンに対して、市民に対して、そして自分の人生に対して。ひょっとしたら、楽聖の境地は、最後の弦楽四重奏曲に聴きとれるような、穏やかな達観でもあったかも知れないのに、私などはやはり、朔風にむかって立つかのごときあの風貌を思い、それにふさわしい物語を探してしまう。

 

そのベートーヴェンに所縁の音楽家といえば、直門カール・チェルニーや、上述ヒラーとともに瀕死の楽聖を訪ねたモーツァルトの直系ヨハン・フンメルといったピアニストがあり、「第九」を復活させ音楽史上に定位したリヒャルト・ワーグナー、そして「第九」に続く交響曲の達成をかけて苦闘したヨハネス・ブラームスといった作曲家がある。しかしながら、「ヴァイオリニストの系譜」の執筆者としては、ここはやはり、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61に、自作のカデンツァを添えて復活させたヨーゼフ・ヨアヒムの名を思い出しておきたい。

パガニーニの記憶がまだ鮮明な頃、民衆が「第二のパガニーニ」を待望しているその最中にヨアヒムは現れた。その時13歳、しかしながら既に、まったく独自の存在であったという。演奏だけでない。ヴァイオリニストとしての志向も当時としては独特だった。パガニーニが遺したプログラムは、専らヴィルトゥオーソを期待する聴衆のためのものであった。そこにバッハ、モーツァルト、あるいはベートーヴェンといったクラシックの曲を並べるのは無粋というべき愚行である。ヨアヒムは、フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でその愚行に挑んだというわけだ。ただし、これは、パガニーニに対する反逆ではない、と私は思う。パガニーニの胸裡に秘められたまま終わった彼の意思の継承ではなかったかとさえ考えてみたい。パガニーニのカプリース集は、正銘の古典派ジョコンダ・デ・ヴィートが言ったように「音楽的に美しい」し、そもそもパガニーニ自身、ベートーヴェンへの敬愛を語っており、少なくとも一度はそのコンチェルトを自分の演奏会のプログラムに入れているのである。しかし彼は何かを断念し、おそらく大衆に迎合した。そして喝采を満身に浴びながら、孤独だったはずだ。なるほどヨアヒムは、ついにやって来たというべき「第二のパガニーニ」だが、それはパガニーニ自身の正確な鏡像だったのである。

いずれにせよ、ヨアヒムの出現が、音楽史における古典復興を支え導いたことは確かだろう。今日のクラシックの聴衆は、ヨアヒムが建てたコンサートホールに座っているのである。

ところで、言うまでもないが、1844年のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に始まる古典再興の劇を、ヨアヒム自身の「音」で知ることはできない。ただ、かつてヨアヒム少年が作曲したその曲のカデンツァが、彼の詩魂を、今日の私どもに伝えてくれているばかりである。そしてその最初の記録は、1925年、驚嘆すべき鮮烈さで、ベルリンの若きコンサートマスター、ヨーゼフ・ヴォルフスタールによって果たされたのであった。

 

ヨーゼフ・ヴォルフスタール。今となっては誰も知らない。名前はご存じでも演奏はとなると、たいていはお聴きではない。もとより仕方のないことで、CDはおろか復刻のLPさえほとんど存在しないのではないかと思う。

いわゆるクラシックファンの人たちと昔のヴァイオリニストの話になって、クライスラーやハイフェッツあたりの名前を挙げているうちは平和だが、うっかりロゼーとかヴォルフスタールとか口に出そうものなら、いかにも困った人たちというふうな目で見られてしまう。こりゃあ物数奇のマニアである、と。まともな音楽の話などできないお方である、と。それはそうかも知れないが、ロゼーにしてもヴォルフスタールにしても、同時代のヨーロッパでは圧倒的な存在だったのだ。時代を超える実力がなかったなどということはあり得ない。ただアメリカに渡らなかったというだけである。商業ベースの話なのだ。そんな彼等のレコードは、ヨーロッパの一流のコレクターたちががっちり抱え込んでいる。思えばストラディヴァリウスにしてもグァルネリウスにしても、それら第一級のヴァイオリンがさして散逸することなく現代に遺された、その最大の功労者のひとりは、ルイジ・タリシオという困ったコレクターなのである。逸早くそれらの価値を見抜き、自分の審美眼だけを頼りに、どこかにほこりをかぶっていたようなのを集めに集めて、当人はそれらに埋もれて朽ち果てるように死んでいった。本望というべきだろう。まことに酔狂な話であるが、どうやらレコードの世界にもそんな気配が漂うのである。自分の耳だけを頼りに、これはと思うものを一枚一枚集めては、夜陰に紛れてひとりひそかに聴いている輩がいる。そのうちの一枚が何かの拍子にふと表に出て、流れ流れてこんな私のところにまでやって来たりするのである。困った人たちのおかげである。

その私が、もはや歴史の闇に紛れつつあるヨーゼフ・ヴォルフスタールに辿り着けたのは、他でもない、ジネット・ヌヴーを聴いていたからであった。ヌヴーの師はカール・フレッシュだが、そのフレッシュ門下の筆頭がヨーゼフ・ヴォルフスタールだったのだ。ウクライナのレンブルクに生まれたのが1899年、間もなくウィーンに移り、10歳のときにベルリンのカール・フレッシュ教授に入門した。公式のデビューは16歳。その後、ブレーメンやストックホルムのオーケストラで弾き、再びベルリンに戻って国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに就任した。また26歳でベルリン音楽大学の教授となって、多くの門弟を育ててもいる。エリートコースである。順風満帆である。フレッシュ門下三傑のうち残りの二名、シモン・ゴールドベルクは彼を驚くべき魅力といい、マックス・ロスタルは傑出した才能と評した。しかし、そのような伝記や挿話は知り得ても、彼のレコードを聴く機会はなかなか来なかった。

やっと手に入れた一枚は、ベートーヴェン1798年作曲のロマンス2番ヘ長調作品50。マイクロフォン以前のいわゆるラッパ吹込みで、ヴォルフスタール25歳頃の録音である。きわめて純度の高い、明晰で、しかも柔らかい音が、遠い過去からやって来るようであった。もう覚えた、と思った。ちょっと格がちがうぞ、とも。ベートーヴェンの後期、たとえばピアノソナタの32番とか弦楽四重奏の14番とか、そういうもののある種の深刻さを楽聖の本領と信じていた私には、白状すれば、この「ロマンス」など、端から侮っていたようなところがあったのだが、まったく不見識であった。薄っぺらなことであった。

ヴォルフスタールのレコードは、実は極端に少ないというのではない。それなりにあるのだが、先に述べたように、明確な価値観と審美眼をもったコレクターは、それを手に入れたが最後、もう手放しはしないのだ。それで市場にも現れず、滅多なことではこっちまで回ってこないというわけだ。ところが日本では、ある限られたレコードではあるが、専門店などでたまに見かけることがある。日本盤があるのである。上述のロマンス、それに協奏曲三曲、すなわち、メンデルスゾーン(ピアノ伴奏版)、モーツァルトの5番、そしてベートーヴェン。ただし、ベートーヴェンの協奏曲は件の1925年のものではない。ベルリン国立歌劇場管弦楽団、指揮マンフレート・グルリット、1929年の録音である。

この5枚組は宝である。1806年、絶望的な難聴が決定的となった頃の、ひょっとしたら、それによってかえって一次元上昇したかも知れないベートーヴェンの詩魂が、まっすぐにこちらにやって来るようだ。ことに、第一楽章を締めくくるヨアヒムのカデンツァから第二楽章への移行、そこにその昇華がみえる、といったら牽強だが、そう言いたくなるような切実な緊張と平穏である。私などには、音楽的素養が不足しているせいか、たいていのカデンツァは、ソリストの自己主張としか聞こえないのだが、彼は違う。1925年の録音にはまだうかがわれるヴォルフスタール的自意識が、四年後のこの録音ではすっかり超克され、作曲者に統合されている……錯覚かも知れないが、そういう感慨をもたらすのである。そして、なぜこんなものが埋もれつつあるのか、それが信じ難いという気持ちにもなって来る。私の耳がそのように聴いているだけで、世間や歴史の評価はまた別にあるのだろうか。しかし考えてみればこの時代、楽聖ベートーヴェンの、しかもヴァイオリン協奏曲という大曲を、ドイツで、しかも二回に亘って録音するなどということが、二流の音楽家に許されるはずがないのである。しかも1925年と1929年である。これは実に、斯界の王者フリッツ・クライスラーの同曲2回の録音年とほぼ重なっている。クライスラー自身、新時代の栄光であったが、さらにその次の時代の輝きを期待されたヴァイオリニストこそ、ヨーゼフ・ヴォルフスタールだった……示唆されているのは、そういう事実だ。

しかし、クライスラーもヴォルフスタールも、まもなくその名前をドイツの音楽名鑑から抹消されることになる。1933年のことだ。すなわち、ナチス政権にとって、ユダヤ人が音楽界の頂点にあるなどということは、絶対に許されざる錯誤なのだ。もっともクライスラーは、ドイツ圏外に拠点をもつことができていた。かくしてその名は今日に至るまで不滅となった。他方ヴォルフスタールにおいてはそれがなされなかった。

 

あの1929年が、すでにヴォルフスタールには晩年なのである。1931年2月、彼は31歳で死んでしまった。ベートーヴェンは彼の白鳥の歌だ。寒い日に、誰かの葬儀に参列して罹ったタチの悪い風邪がもとだそうだ。

思えばあのシューベルトも、ある人の葬儀、それはベートーヴェンだが、そこに出かけた晩、「この次に死ぬ奴に乾杯だ!」などと言って酔っ払って、翌年やはり31歳で、自ら「この次」の奴になってしまったのだった。こんな符合に意味があると言いたいのではない。シューベルトもその最期の年に、交響曲「グレート」すなわち彼自身の「第九」を書いたり、ベートーヴェンの弦楽四重奏14番への衝撃を語りながら弦楽五重奏を作曲したり、どうやらベートーヴェンへの思いの深い「晩年」であったらしいから、つい比べてしまう、というだけのことである。シューベルトは不幸だが、彼の周囲にはその死を悼むボヘミアンを気取ったような友人たちがたくさんいた。その死後にはなってしまったが、音楽史上の重要な地位を与えられてもいる。

ヴォルフスタールはどうか。ちょうどその頃、周囲の人びとをして、実の親子のようだと言わしめた師匠フレッシュとの関係に、何らかの理由で修復不能の決裂が生じていたらしい。そのうえそれに病臥が重なって、ヴォルフスタールの門弟は、すべてマックス・ロスタルの許に移されてしまった。つまりヴァイオリン史上最も優秀な教師の、その後継者の地位を失ったわけである。また、ヴォルフスタールのキャリアを支えてきたのは、クライスラーから貸与されていたグァルネリウス・デル・ジェスだが、重篤の病床にあってクライスラー夫人の厳命を受け、返却の止むなきにいたってもいる。どうも切ない。美的なものは一切ない。身ぐるみはがされて酷すぎて、話にも何もなったものではないのだ。もっともヴォルフスタール自身、スポーツカーでアウトバーンをぶっ飛ばすような、ちょっと破滅的なところがあったとの噂もあり、楽聖への敬虔さの分だけ、現世の人びとに対しては傲岸だったような気配もあり、つまり自業自得みたいなところがあったのかも知れない。それはそうかも知れないが……。

思いがけずシューベルトの名前など出てきたので、ついでに言っておこう。彼の「アヴェ・マリア」の澄明な演奏などは、ベートーヴェンの「ロマンス」とともに、今でも、そのレコードさえ聴ければ、その何か非常に強靭な倫理性と思しきものに触れることができるのである。しかしもはや、それも容易なことではない。そもそもヨーゼフ・ヴォルフスタールその人の、その名を耳にすることさえ稀なのだ。逝いて90年、せめてその冥福を祈りたい。

 

 

ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal 1899-1931。

『ベートーヴェン訪問』……酒田健一訳。1970年白水社刊。

フェルディナンド・ヒラー……Ferdinand Hiller 1811-1885。ドイツの作曲家。フンメルに師事した。

最後の弦楽四重奏曲……弦楽四重奏曲16番ヘ長調作品135。

カール・チェルニー……Carl Czerny 1791-1857。ベートーヴェンの弟子。リスト、レシェティツキの師。

ヨハン・フンメル……Johann Nepomuk Hummel 1778-1837。モーツァルトに師事した。

ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ジョコンダ・デ・ヴィート……Gioconda De Vito 1907-1994。イタリアのヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler 1875-1962。ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父の出自はポーランド、クラカウ。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を、自作のカデンツァを付けて、二回録音している。

ハイフェッツ……Jascha Heifetz 1901-1987。リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ロゼー……Arnold Josef Rose 1863-1946。ルーマニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ルイジ・タリシオ……Luigi Tarisio 1796-1854。イタリアのヴァイオリン・ディーラー、コレクター。先行するコレクターではサラブエのコツィオ侯爵、後継ではジャン・バプティスト・ヴィヨームが知られている。

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1939。フランスのヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

シモン・ゴールドベルク……Szymon Goldberg 1909-1993。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

マックス・ロスタル……Max Rostal 1905-1991。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

(了)