風雅に従ふ

橋岡 千代

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第二章に入ると、「彼の思想の一貫性」「彼の生きた個性の持続性」という言葉を繰り返し書かれている。「宣長の学問」というより先に、「宣長という人間」に驚かれている先生の言葉が出てくる、そのたびごとに、読む者は何かしら深遠なものに出会う予感を覚え、そのとっかかりとも結びとも言えそうな宣長の晩年のうたに、第三章で出会わされてはたと立ち止まる。

家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共

宣長が門人のために「先ず生計が立たねば、何事も始まらぬ」と詠み与えたこの歌は、単に学者としての生き方をさとしているだけとは思えない。ここにもまた、宣長の思想の一貫性、生きた個性の持続性が感じられるのである。

 

宣長の京都遊学時代は彼の人生の萌芽期であった。「学問に対する、宣長の基本的態度は、早い頃から動かなかった」として小林先生は、宣長が友人たちに宛てた書簡によってその態度を示している。(第五章)

―「不佞フネイノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、コレヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タゞニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モマタ、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百ぼんぴゃく雑技ざつぎ」から「山川さんせん草木そうもく」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である。……

すべてこの世で出会う天地万象を我が物として受け入れ、それを好み、その事象を率直に信じ、楽しむ、この「好信楽」という基本的な態度、すなわち「風雅に従ふ」ということを宣長は忘れなかった。

彼は、別の友人に宛てた書簡で、この「風雅」について「論語」の「浴沂詠帰」の話を引く。

―晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳そうせきだけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこうこたえた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞あまごいの祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「ゼントシテ、嘆ジテハク、吾ハ点(曾晳)ニクミセン」……

理想とする先王の行ったまつりごとの道を再現しようとして失敗した孔子は、弟子たちと各地を放浪しながら問答し、先王の教えを六経に書き残した。その孔子の教えに従う弟子たちは、思い思いに国の政に対して勢い込んで持論を披瀝した。しかし、曾晳そうせきという弟子だけは大変違った意見を述べた。「私は、晩春のころ、合い物の薄手の服をきて、元服をおえた青年たちと、まだ元服前の少年たち数人を引き連れて、南方のという川に行きたいのです。皆で川に入り、水浴をした後は、あの雨乞の祭の舞をまう土壇の上で風にあたって涼み、歌をうたいながら帰ってくる、それがしたいのです」……孔子は、この曾晳の意見に、深くため息をついて、「……私も曾晳に同感だ」そう応えたという。

ここで押さえておくべきは、曾晳の士民すなわち一般生活人としての志であり、それを引いている宣長の儒学観である。宣長が生きた時代は、学問と言えば朱子学であり、その厚みは人々の日常の隅々まで覆っていた。しかし小林先生は宣長の儒学観をこう書かれている。

―儒学の本来の性格は、朱子学が説くが如き「天理人欲」に関する思弁の精にはなく、生活に即した実践的なものと解すべきものだが、それも、品性の陶冶とうやとか徳行の吟味とかいう、曖昧で、自己欺瞞ぎまんや空言に流れやすいものにはなく、国を治め、民を安んずるという、はっきりした実際の政治を目指すところに、その主眼がある。……

ここで言われている「天理人欲」とは、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第27集の脚注によれば「天然自然の道理と、人間の欲望」であり、「思弁の精」とは「抽象的理論の精密さ」である。

そして宣長は、友人に言っている、「儒と呼ばれる聖人の道は、『天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道』であって、『ヒソカニ自ラ楽シム有ル』所以ゆえんのものではない」と。治めるべき天下も、安んずる民も持たない身分の我々が、曖昧な空理空論をもてあそんだり、実生活から逸脱して、聖人の道が何の役に立つのか……。

これを承けて、小林先生は言う。

―宣長が求めたものは、如何いかに生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家こうずかの風流の意味合は全くなかった……。

ここに書かれている宣長の「聖学」とは、無論「己を知る道」という学問であるが、私は今回の山の上の家の塾での自問自答で、あまりにも宣長の残した「聖学」にばかり眼が行き、彼の「俗」を素通りしていたことに気づかされた。宣長が言っている「小人の立てる志」という「俗」を知らなければ、宣長の「道」は理解できないであろう。

冒頭に取り上げた「家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」という歌も、この「俗」を基本とする宣長の「学問」に向かう姿勢であった。小林先生は言われている、「俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う『好信楽』とか『風雅』とかいう言葉は、その生きたあじわいを失うであろう」と。

宣長は、先王の道を背負い込んだ孔子という人の心に会いに行き、儒学の大道を見つめる、「万葉集」に「俗中の真」を究めた契沖の跡を追って古人と古伝説に会いに行く、「源氏物語」の味読を通して「物のあわれを知る」紫式部に会いに行く……こうして「人生いかに生きるべきか」を考えるという高いところをめざした彼の「聖学」は、また彼の「俗」に還って学問の手仕事につくのである。それは日常生活の場である住居の一階と、宣長自ら鈴屋すずのやと名付けた二階の書斎を行き来する生活そのものであった。ということは、宣長は「俗中」にあって「道」の学問の花を咲かせたのである。 

 

ここでこういうことを言うと唐突に聞こえるかもしれないが、私は宣長の「俗」を読む一方で、小林先生の「歴史の魂」(「小林秀雄全作品」第14集所収)の次のくだりが気になっていた。

―芭蕉は自分の態度を風雅と名づけました。彼に言わすと風雅というものは、造化ぞうかに従い四時しいじを友とすというのでしょう。風雅ということが今日非常に誤解されているけれども、それは、消極的な態度でも洒落しやれた態度でもない。少くとも日本人が抱いて、大地に根差した強い思想です。己れを空しくして、いろいろな思想だとか、意見だとか、批判などにわずらわされないで自然の姿が友となって現れて来る、自然と直接につき合うことが出来る。そういう境地は易しくはないのです。そうなると見るもの花にあらずという事なし、という事になる。……

これはまた、宣長の「風雅」であり「好信楽」ではないだろうか……。すると偶然にも、この「自問自答」を書いていたある日、「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」というサテライト塾で、最後に広島塾の方が「小林先生の言われている芭蕉の風雅」について質問された。

池田雅延塾頭は、即座に「高く心を悟りて俗に帰るべし、です」と言われた。そして、「この言葉は、新潮社に入って五年目、二十七歳の春、麻生磯次先生の本『芭蕉物語』をつくらせてもらってその文中で出会い、そうか、なるほど、と心に強く残った言葉です……」と続けられた。その瞬間、私の中で宣長と芭蕉の「風雅」が重なり、さっそく『芭蕉物語』を求めて開いてみた。すると、芭蕉は杉風さんぷうという弟子にこう説いている。

―高くを悟る、のというのは風雅の誠をいい、風雅の誠を責め求めて、それを自分のものとして体得することをいう。そのためにはすぐれた和漢の古典に接して、その高い詩精神を味得しなければならない。そして風雅の誠を十分に悟り、その上で俗に帰る。俗に帰るというのは、漢詩、和歌、連歌などの雅なるものから通俗卑近な世界に帰り、卑俗の中から詩美を発見することである。……(麻生磯次著『芭蕉物語』下、新潮社刊)

小林先生が、批評家として最後に「本居宣長」という大作を残された、その大きな仕事の根幹には、宣長のことを書きながら宣長だけでなく、「消極的な態度でも洒落れた態度でもない。少くとも日本人が抱いて、大地に根差した強い思想」が書きたかったのではないだろうか。「風雅」を極めるという宣長の学問の志は、すなわち日本の優れた文学者や芸術家たちに貫道している伝統でもある、私には小林先生がそう言われているように聞こえる。

野ざらしの旅寝をする中で、己れを空しくし、自然を友とした芭蕉の境地とはどういうものだったのか……僭越ながら、ここに私の思い浮かぶ句を一つ挙げる。

ほろほろと 山吹散るか 滝の音

吉野川の、初夏の瀑声に消え入りそうに舞い散る山吹の色が、句の中では消えるどころか、滝の音を消して、ゆっくり落ち続けるのである。

これこそは、芭蕉の「俗」であり「風雅」である。それは宣長の「俗」であり「風雅」に通じる、私にはそう思える。

ちなみに、池田塾頭は、「芭蕉物語」の本の帯にこう書かれている。

―人間の道と風雅の道とに隔たりがあってはならない。正しい俳諧は人の道を正しく踏むところに生まれると芭蕉は考えていた。淋しい境涯に徹して自分の心を見つめてみたい、旅の誘惑に身を任せたいと思った。……

 

(了)