いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する四人の男女。今日は、第二十四章と第三十五章が話題のようだ。
元気のいい娘(以下「娘」) 寄席、行ってきたんだけどさ。
生意気な青年(以下「青年」) うん。
娘 噺のなかで、長屋の連中が、寄り合って「馬鹿っぱなしでもしようじゃないか」って件が出てきてさ。
凡庸な男(以下「男」) よくあるよね。それが、どうかしたの?
娘 どんな「馬鹿っぱなし」するのかな。
男 そりゃ、大屋の悪口とか、誰かの失敗談とか、他愛のない話でしょう。
娘 なんか、楽しそうだなって。
男 まあ、話の中身というより、みんなでわいわいやるのがいいんじゃないの。
娘 わいわいやる?
江戸紫の似合う女(以下「女」) そうね、言葉のやりとりはあるわけだけど、描写でも、説得でも、論難でもないのね。話題も次々移り変わるし、最初は何の話だったか誰も覚えていないかもしれない。でも、なにか、ぺちゃくちゃ、おしゃべりしたなっていう満足感は残る。そういうことかしら。
娘 わいわいとか、ぺちゃくちゃとか、擬態語でいうけど、どういうことかな。
青年 そうなんだ。一語一語の意味を、詩人みたいに吟味しているわけじゃない。でも、おしゃべりとしては成立してるのかな。
娘 カワイイと、ヤバイと、キモいと、ダイジョーブだけで成り立ってる会話でも、話し手の、そのとき、その人なりの気持ちがこもってるよね。
青年 一応ね。その瞬間の思いつきに過ぎないとも思えるけど。
男 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び、ってわけか。
娘 ゲッ、そういう知ったかぶりって、キモくない?
男 だって、すぐに消えちゃうんだろ?
女 そこは少し違うかもしれないわ。誰かが何かを見聞きする。心の中に何かもやもやしたものが生まれる。でもそこでとまるんじゃなくて、それを言葉にするの。そしてその言葉が、語られ、聞かれる。そうすることで、心の中のもやもやしたものが、はっきりとした「気持ち」って呼べるようなものに変化するのじゃなくて。
青年 「これヤバくね」「うん、ヤバイヤバイ」みたいな会話でもそうなの?
女 そう思うわ。
青年 でも、一方の「ヤバイ」と他方の「ヤバイ」が同じ意味とは限らないよ。
女 もちろん、どんな会話でも、すれ違いとか、ずれとかはあるわ。そうじゃない方が珍しいのかもしれない。同じ人でも、一つの言葉を、その都度、微妙に色合いを変えて使うわ。言葉の意味を特定するとか、その意味が正確に伝達されたか検証するとか、そういう問題じゃないの。
男 小林秀雄先生は、「生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集276頁。以下引用は同作品集から)と書かれているね。
女 おしゃべりとして成り立ったということが大事なんだと思うわ。
青年 そんな御大層なことなの? 第一、「意味を帯びた言葉」って、なんだろう。「ヤバくね」なんて言葉に、なんか意味があるの? ああ、ヤバイも形容詞か、ヤバかろう、ヤバかった・ヤバくない、ヤバイ、ヤバいとき、ヤバければ、って活用もするわけだ。
娘 こいつの頭ん中、キモすぎ。
女 意味っていうか、何か感じているのよね。あっ、これ、なんか変わってる、ちょっとびっくり、この気持ちお友達と共有したい、みたいにね。そしてそれを、伝えようとするのでしょう。
青年 それって、言葉なのかなあ。そういう漠然とした感じだけでは、自分を取り巻く世界を認識したことにはならないんじゃないかな。曖昧模糊とした感覚の世界に、分節化っていうのかな、折り目を入れて秩序を与え、きちんと認識できるようにするのが、言葉の働きなんじゃないの。
女 人間の言語活動を、そういうふうにとらえて議論することは出来るわね。それはそれで、どうぞご自由に。でも、わたしたちが生まれ育ってきた過程で身に着けた言葉って、少し違うのじゃないかしら。きちんと分る、という以前に、何かを感じているような。
男 そういえば、小林先生が、宣長さんの「物のあはれ」をめぐる説明に関し、次のように書かれているね。「明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識を説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」(第27集151頁)。
青年 そういわれてもなあ。別に、「発達した認識」なるものを自慢するつもりはないけど、個人の感覚や感情を離れて、世界を正確に知ろうとすることは、大切なことでしょう。僕たちの文明生活の基礎だよ。
女 もちろんそういう世界があることは否定しないの。でも、言葉と私達の関係って、ちょっと不思議なところがあるでしょう。わたしたちみんな、いつの間にか国語としての日本語を話せるようになっているけど、その過程というのは、外国語を人工的に習うのとはずいぶん違うでしょう。
娘 人工的? ああ、落語や漫才の小咄に時々出てくるやつね。学校英語をネタに、「鉛筆を片手に『イズ・ディス・ア・ペンシル?』って、そんなの見ればわかるだろ」とか、「男子生徒が『アム・アイ・ア・ボーイ?』って、それは自分で考えろ」とか突っ込んで笑わせる。日本語はそんなふうには習わないよね。
男 小林先生は、先ほどの続きで、こうも書かれている。「よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている」(第27集152頁)
女 そうですわ。こういう、おのずからなる心の感きが、自分の身体の外にほとばしり出る、それが言葉ではないかしら。ふつうの言葉でなくても、身振りでも、手振りでも同じだと思うけれど、身体の外側に出て、誰かほかの人に向かっている。何かを伝えようとしている。それが相手に届けば御の字だけれど、たとえ届かなかったとしても、伝えようとしたそのことで、自分の気持ちに形ができる、自分でもそれを味わえるようになる。そういうことですわ。
娘 思っているだけでは、だめなの?
女 だめというわけではないわ。遠くの恋人を思い浮かべ心の中で愛を告げるようなことも、同じだと思うの。とにかく、誰かに何かを伝えようとすることで、「意味を帯びた言葉」が生まれるのだと思うわ。
男 普段僕たち、そんな難しいこと考えてないよ。
女 そうじゃないの。まだ片言の幼な子が、犬を見て喜んで「ワンワン」っていう。まわりに優しい大人がいれば「そうだね、ワンワン、かわいいね」って答えてくれるかもしれない、でも、そうならなくても、その子は、もう、私たちと同じ言葉を話す仲間じゃないかしら。
男 なるほどね。もったいつけて言えば、幼な子が、犬を見て喜びや驚きといった感情をいだくことと、目の前の動くモノをニャンニャンでなくワンワンとして、つまり犬を犬として認知することが、「ワンワン」という一言で同時に実現している、ということかな。
娘 幼な子の頭の中にあるのが、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」ということかなあ。
女 そうね。でも、子供段階の、発達の途上に限られるというわけではないと思うわ。「よろずの事にふれて、おのずから心が感く」というのは、大人も含めた、すべての人の言語活動の基になるものだと思うわ。
娘 ああそうか。だから、秀麗な「新古今集」の調べでも、「これヤバくね」「うん、ヤバイヤバイ」みたいな会話でも、根っこには、「おのずから心が感く」ということがあるんだね。
青年 学術論文を読んだり書いたりするのであれば、あらかじめ用語の定義や論述のスタイルが決まっている。だからそれを学ぶことから始めるわけだけど。
女 普通の言葉はそうじゃないのね。
娘 どういうこと?
女 小林先生が「『お早う』とか『今日は』という言葉を、先ずその意味を知ってから、使うようになったなどという日本人は、一人もいないだろう」(第28集48頁)と仰っているように、ことばは、まずは使ってみるという面がありますわ。
青年 でもそれは、子供が、挨拶のような定型を身に付けるときの話でしょう。
女 そうでもなくてよ。大人でも、或るとき或る場面の状況や気持ちにぴたりと合う言葉なんて簡単に見つかりそうにないけど、でも、何か言ってみるでしょう。
男 「これ、ヤバくね」とかでもいいのかね?
女 ええ、まずは言葉という形にする。そういう発話の積み重ねが、その人の言葉の世界を豊かなものにしていくのではないかしら。
青年 「うん、ヤバイヤバイ」でもそうだっていうの?
女 豊かにする、なんて言い方が気取りすぎかもしれないわね。でも、友達同士、何か通じ合うものがあれば、それは一歩前進でしょう。そのためには、言葉という形が必要なのよ。
娘 「初めに文があったのであり、初めに意味があったのではない」(第28集48頁)ということかな。
女 そうね。そうだとすると、小林先生の「大人になったからと言って、日に新たな、生きた言語の活動のうちに身を置いている以上、この、言語を学ぶ基本的態度を変更するわけにはいかない」(第28集48頁)というお話も、すこし分るような気がしますわね。
娘 何気ない、ぺちゃくちゃおしゃべりすることも、人間にとって大切なんだね。
男 我々四人のおしゃべりも、意味があるのかな。
娘 どうかな。約二名のキモイのは要らないかも。
女 あら、いいじゃない。小林先生も仰っているわ。「私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである」(第27集276頁)
四人のむだ話は、いつにもまして、延々と続いていく。
(了)