コロナ禍下で読むカミュの「ペスト」
―「小林秀雄『ペスト』Ⅰ・Ⅱ」とともに

安達 直樹

「階段口のまんなかで、一匹の死んだ鼠につまずいた」

カミュの「ペスト」では、その冒頭、日常生活を送る人々に、突然訪れる苦難と別離という不条理を、「一匹の死んだ鼠」によって、読者に予感させる。

そこで描かれているほどではないが、現在の私たちも、日常生活が一変するということを、今度のコロナ禍で体験している。

そのコロナ禍で「ペスト」を読んだ。

 

この作品では、突然ペストに見舞われ、外部と隔離されることになった一市街で起こる出来事と、その中で、それぞれの思想を持って生きる人々の言動が、医師リウーの記録として記述される。脅威が、未だ他人事に感じられているうちは悲観論者になるのにも拘わらず、その身に迫る危機には簡単に目を閉じてしまう普通の人々や、論理的な思考で困難に対処しようとする専門家。混乱に乗じて金儲けを目論む人々と、不幸な自分と同じように人々が不幸になることを願う人。そして、人々を惑わす統計という概念。このような、現代のコロナ禍の予知とも取れる一面を持つ「ペスト」であるが、さらに小林秀雄先生の「ペスト」I・II を合わせ読むことで、大切なことは、そこに歴史の反復を見つけることではなく、変わらない人の心を想うことなのだと、再認識することができた。

「愛や悪や人道や宗教に関するどんな思想も自足したものとしては現れていない。しかし傍観的な懐疑主義は、この作者にはもう何んの興味もなく、いろいろな思想の限界を人間の生きる苦しみのなかに徹底的に究明しようとする」(「ペスト」I )

ペスト菌の感染によって発症するペストは、黒死病とも呼ばれ、新型コロナウイルス感染症とは比較にならない高い致死率と劇的な症状によって、人間は、各々が平和な暮らしの中で培ってきた観念的な思想では決して浮かび上がることが許されないままに、恐怖の底から足を離すことなく生きることを強いられるのである。

この小林先生の「ペスト」の要約に、付け足す言葉は見つからない。

 

「ペスト」という作品は、不安と恐怖が入り交じった閉塞感という重苦しいを、読む者の胸に押しつけ続ける。人生の不条理と、その中に生きる「最小限度の衣装をつけた人間」から目を逸らさないことを自身に課しているようにみえるリウーには、たとえペストが去ろうとも、もう、幸福も不幸も、人並みには味わうことが叶わないと予感され、その閉塞感をより強固なものにする。一度でも不条理を経験した人間は、次にまた不条理が力を振るうときには、しっかりと目撃して、できるだけ記憶しておくことこそが大切なのだ、そして、人間には目撃することしかできないのだ、ということを、いわば本能的に感得する。だからカミュは、この物語を、リウーの記録として記述する形にした。

ペストがひどくなって、市内で墓地として利用できる土地を使い尽くすと、街の外にある、古い火葬場を再利用することになった。火葬場まで続く、すでに廃線となっていた海沿いの線路を、できるだけ多くの死体を運ぶために座席が取り外された遊覧車が、夏の真夜中に、人目を避けて進んでいく。それでも、禁じられた区画に侵入した人々が、遊覧車に向かって花を投げ込む。自分たちも、いつ遊覧車に載せられることになるかもしれないにもかかわらず……

小林先生も引用しているこの場面は、全体に帳が下ろされたような、この作品の中にあって、美しい光景が、はっきりと自分が目撃したかのように印象に残る。生きている人の思想は、どれほどまともであっても、また、どれほど過激であっても、このような「最小限度の衣装をつけた人間」が行う行為以上には、人の心を動かさない。不条理な人生のなかで、自分達が人間であることを証明するために、どうしても必要な最小限の行為。「ペスト」は不条理を描いた作品だとされるが、幸福を求める人間を描いたともいえるように思えた。人生に備え付けられた不条理と、人間が幸福を求める心とは裏と表である。人生が常に不条理に見張られているのなら、そこから逃げだそうとする人間のはかない営みこそ、幸福を求めるということなのかもしれない。

 

そんな「不条理」とともに、カミュは、「抽象」という問題も提起しているように思える。

新聞記者として来訪していたこの街で、偶然に隔離されることになったベルナールと、必死に目の前のペストと向き合い続けている医師リウーとのやりとりを通して、「抽象」ということが扱われる。ベルナールはこの街の隔離のせいで、離れた場所にいる愛する人と会うことができずに焦っている。彼は、どうにかこの街から逃れたくて、リウーに、自分が感染者でないことの証明書を書いてもらい、それを県庁に持っていくことで解放されるという、強くもはかない希望をもっていた。そんなベルナールに対して、リウーは、相手の気持ちへの共感と、その希望が叶うことを心から願っていることを表明しながらも、ベルナールが感染していないかどうかを知ることができないし、この診察室を出た瞬間から県庁に入る瞬間までの間に感染することがないとは保証できない、この街には、ベルナールのようなケースが何千人といて、その人たちを逃してやることはできない、布告と法律というものがあって、自分の役目は、なすべきことをするだけだ、と告げる。

これに対して、ベルナールがリウーに、

「あなたは抽象の世界にいるんです」と言い放つ。

さらに懇願するように理解を求める医師に、ベルナールは、歩み寄る意思を示しつつも、

「しかし、僕はあなたが正しいとは思えません」と言って立ち去る。

 

ここで私は、小林先生の「信ずることと知ること」の中で語られる、ある会議に出席した際の、ベルグソンの話を思い出した。

夫を戦争で亡くした婦人が、夫が死ぬ場面を、遠く離れたパリにいて夢に見た。後で調べると、婦人が見た通りの場所と様子で、見た通りの顔の同僚の兵士たちに囲まれながら、夢を見た時刻に夫が死んだことが判ったという話を、婦人が名高い医者に話す。その医者は、婦人の話をと断りながらも、そのような死の知らせを経験した人は多いが、その知らせが間違っていたという人もまた多い、どうして偶然に当たった幻だけを取り上げるのか、という趣旨の話をする。その会話を聞いていたもう一人の若い女性が、ベルグソンに次のように話す。

「あの先生のおっしゃったことは、私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは論理的には非常に正しいけれど、何か間違っていると思います」

 

具体的な経験を抽象的に扱うことに慣れてしまった私たちにとっては、とても耳の痛い話である。高度な思考を成り立たせ、人間社会の運営にも欠かすことのできない、抽象化という過程は、一方で、大切な人を集団の中の一人と扱い、かけがえのない個人の経験を、ある確率の中の一回の試行へと貶めるよう、私たちを誘惑し続ける。

ベルナールに責められたリウーも、「ペストが猛威を倍加して週平均患者数五百に達している病院で過ごされる日々が、果たして抽象であったろうか。なるほど、不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかって来たら、抽象だって相手にしなければならぬのだ。そしてリウーは、そのほうが容易なわけではないことを知っているだけだ」と自問自答する。

「ペスト」Ⅱの中で、小林先生は、トルストイを引き合いに出して、この「」ということの例を紹介している。

「彼は、命令機構によって整然と組織された軍隊を、円錐形にたとえる。戦争が始っても、歴史家は、普段戦争の真似をしている軍隊しか見ない。円錐形の尖端から発せられる命令が、円錐形の底部を動かすと思っている。事実は、無数の命令が発せられ、底部の動きに適応した命令だけが守られるに過ぎない。守られなかった命令は、文献には残らない。誤魔化されるのは歴史家だけに限らぬ。命令者当人も命令した通りになったと錯覚するのだ。(中略)円錐体の底部にある人々は、すべて事件を直接に体験するが、尖端に近附くに従い、事件との関係は抽象的になって行き、最後の一人は全能力を命令にしか使わない。権力と呼ばれる観念は、こうして形成される。(中略)戦争も、自由の為とか、祖国の為とか言われるのである。この正当化の観念は、命令者という抽象的人間によく似合うが、直接事件に衝突している具体的人間には、全く不向きである。日々の行動に当てはまるところがない。トルストイの見たのは、そういう歴史の原動力となる人々であった」

「歴史の原動力となる」本当の当事者というのは、その渦中では、証言する余裕などないのが常である。現存するというのは、主に円錐体の上部にいた人たちが出した命令を、後のが尤もらしい因果関係で結びつけたもので、小林先生の心を動かすのは、いつも、ではなく「歴史の原動力となる人々」であった。

 

ようやく毒性の低いコロナウイルス株が主流となって、日常が戻ってくる予感に人々の表情も緩んできたタイミングで、今度は、この抽象の円錐の頂点に君臨する男の命令によって始められたかに見える戦争が起きている。何に突き動かされたか、男は、すべての人々の予想を裏切ることにおいてのみ勝利を収めたのだが、それによって、連日、多くの人が不安と恐怖の中で死んでいる……

相変わらず猛威を振るう不条理。壁は、いつも不意に立ち上がる。

侵攻、爆撃、陥落、そして第三次世界大戦という使い慣れない言葉を、ある種の高揚感で下駄を履かせて、ようやく発声する戦後育ちの私たちは、弱々しいアクリル製の板で区切られた、私たちがコロナ禍と呼んでいる生活が、いくらばかりかの不便を纏っただけの、平和な日々であったことを思い知らされる。

砲弾が、どうして自分の家に飛来して家族を殺したのか、また、どうして自分と等しく幸福を願っていた隣人を直撃したのか。それを、連射される鉄と火薬の塊やAIを搭載したドローンには問うことはできない。そこには、小林先生が「空想か忘却によってしか出口のない現実の人間の状態」(「ペスト」II )と呼んだ、受難を免れた人々によって、勝つことも負けることもなく忘れられるはずの不条理という言葉も、生死無常という言葉も全く受け付けない、温度をもたない空洞があるだけのようにも感じられる。

 

「トルストイは、恐らく、こんな風に言いたいのだ、人生は無限に近附いて眺めるべきだ、歴史の摂理は、無限に遠ざけて考えるべきだ、そうすれば、人生は、夢の様に、不条理な不安定なものになるだろう、どうしてこれが、何か格別な異常な状態だろうか、と」(「ペスト」II )

円錐形の話の直後に述べられるこの言葉は、現代を生きる私たちに残された警句のようにも感じられる。コロナウイルス感染症のパンデミックによって、次には自分が壁に囲まれる存在になるかもしれないという実感や、コロナウイルスの感染者や重症者、また死亡者として、数値や棒グラフの一部となるという、抽象的に扱われることへの抵抗感を通して、私たちは、不条理の中に生きていることと、抽象化の弊害に陥らずにいることの大切さとを、一度は記憶したようにみえる。しかし、抽象的人間とならず、不条理な人生の具体性から目を逸らさずにいるためには、やはり、ある種の愛情と集中力が必要だ。カミュが自身を重ねたリウーは、具体的な現実と抽象との間を行き来しながら、「個人々々の気質や肉体の機構に密接に結びついた微妙なもの」を抱えて不条理の中で苦しむ人たちを愛した。そのような愛は、決して情熱的なものではなく、却ってそのために抽象化を免れて、ペスト禍が過ぎ去るまで、静かに持続された。

 

ここまで書いてきて、小林先生こそ、過去に生きた人の人生を静かに愛し、無限に近づいて眺め続けた人だったことを思い出す。ランボオ、ドストエフスキー、モーツァルト、ゴッホ、本居宣長…… 並々ならぬ愛情と集中力をもって、一人ひとりの人生から目を逸らさないことに徹した「小林秀雄」。その人生もまた、想わずにはいられなくなる。

 

 

【参考文献】

アルベール=カミュ「ペスト」 訳 宮崎嶺雄(新潮社)

「ペスト」I 、「ペスト」II 小林秀雄全作品 第18集(新潮社)

「信ずることと知ること」小林秀雄全作品 第26集(新潮社)

 

(了)