「本居宣長」が刊行されたとき、次のようなメッセージが帯に書かれていた。
「読者へ、小林秀雄」
「或る時、宣長といふ独自な生れつきが、自分はかう思ふ、と先づ発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想劇の幕が開いたのである。この名優によつて演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であつた。宣長の述作から、私は、宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考えるといふ、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添つて書かうと思ふ」。
私は、第二章でこの文章を読んだが、小林氏の意図がわからず、読み飛ばしていた。重要な断り書きだと思い知ったのは、ずっと後だった。私は、本居宣長にとって重要な気づきである、契沖の「大明眼」とは何かを探して、第六章・第七章の辺りを何度も繰り返し読んでいた。しかし、「大明眼」が何であるかは、一切、書かれていなかった。書かれていたのは、契沖の人生と宣長の感動だった。小林氏は、契沖の「大明眼」を指して教えるのでなく、読者の私にも大明眼を開かせようとしていたのである。それが氏の流儀だと、ある時、気がついた。私は、書かれてもいない思想構造を何年も探しあぐねていたのだ。
思想構造、理屈による説明を探し回るのは、空しい努力だった。それを知り、本居宣長がどのように「古事記」をむかえたのか、今度は、彼の「肉声」を「聞いて」みようと思った。「『古事記伝』の言い方で言えば、『尋常の理』に精しくなれば、『其ノ外に測リがたき妙理のあることを知る』ようになる」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.38)で言われている「理」とは、いわゆる理屈のことなのか、どういう理なのか、確認しておきたかった。それは、荒唐無稽にも見える「古事記」神代の巻について、「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」(同p.90)という宣長の考えを、何とか腹に落とし、我が身に得たいがために、必要だった。
「本居宣長」第三十二章から、荻生徂徠が登場する。なぜ徂徠がいるのかということからして、最初はわからなかった。ただ、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」(「弁名」下)という彼の言葉は、印象に残っていた。この「思想劇」にも、かじりついていればいつかは通じるだろう、という期待を持たせてくれた。「理」に目をつけて読もうとするのにも、少し遡って、「道」という形のない物を求めるのに、理を嫌い、鬼神を頼んだ徂徠の声から「聞いて」みるのがよさそうに思われた。徂徠は、理によって「道」を推そうとし、そこで滞る宋儒を批判する。小林氏は、彼の次の文を引用している。
「然レドモ、吾レモ亦学者ノ吾ガ言ニヨリテ、以テ宋儒及ビ諸家ノ説ヲ廃スルコトヲ欲セザルナリ。古今邈カナリ。六経残欠ス。要ハ理ヲ以テ之ヲ推サザルヲ得ズ。理ヲ以テ之ヲ推ス者ハ、宋儒之ガ嚆矢為リ。祇ソノ理未ダ精シカラザルヤ、是ヲ以テ理ニ滞ル。之ヲ精シクシ又コレヲ精シクセバ、豈宋儒及ビ諸家ノ過チ有ランヤ。且ツ学問ノ道ハ、思フコトヲ貴ブ。思フ時ニ方リテハ、老仏ノ言ト雖モ、皆吾ガ助ケト為スニ足ル。何ゾ況ンヤ宋儒及ビ諸家ノ説ヲヤ」。(同p.17)
理という言葉を苦し気に使う徂徠の心中は想像する他ないが、こんな読み筋はどうだろうか。――道を言わん事を求めて「徒名ニシテ物ナク、空言ニシテ之ヲ状ル」宋儒は、「其ノ華ヲ翫ビテ其ノ実ヲ食ハズ」、対応する物がない空言の翫びを目的にしてしまい、滞った。「理ヲ以テ推ス」宋儒自身は、客観的でいるつもりかもしれない。しかし、「其ノ華ヲ翫」ぶ、膨れ上がった己が、彼らの中に居座って、自己満足しているだけだと、批判したまではよかった。しかし、徂徠も自分の中の己にぶつかってしまった。そういう想像である。
ただ、「然レドモ、吾レモ亦学者ノ吾ガ言ニヨリテ」と断わる徂徠は、自分の己を自覚している。そこで小林氏は、「歴史に対しては、自分を歴史のうちに投げ入れる、全く違った態度を取らねばならない。その態度の、簡勁で、充分な表現を、徂徠は、『信ジテ古ヲ好ム』という言葉に見た」(同p.27)と言う。裏返せば、これが己を始末して無私を得るための、おそらく唯一の方法ではないだろうか。小林氏は、徂徠の「学問の方」について、次のように書いている。
「『詩書礼楽』を学ぶ者は、そういう古人の行為の迹を、古人の身になって、みずから辿ってみる他ないだろう。『詩書礼楽』という、古人の遺した『物』の歴史的個性を会得するには、作った人の制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる他に、道はあるまい。そういう、『信ジテ好ム』道を行く者の裡にある、おのずからな知慧の働きを、孔子は『黙シテ之ヲ識ル』と言ったとするのが、徂徠の解である。従って、『黙シテ之ヲ識レバ則チ好ム、好メバ則チ学ビテ厭ハズ、厭ハザレバ則チ楽シム、楽シメバ即チ人ニ誨ヘテ倦マズ』という風に、孔子の言葉を受取ってよい。そして、そういういう『学問之方』を、孔子は、当然、――『何ンゾ我ニ有ランヤ』、――自分の力で、どうこうしようとするのではないのだと言う。誰でも久しく習ううちに、自然と喩るところがあるもので、そういう、学ぶ者の自得に俟つ自分としては、教育法につき、兎や角言いたくない。『四時行ハレ、百物生ズ。学之道ハ斯クノゴトキカ』とするのが、徂徠の註である」。(同p.30)
ここに現れる「好」「信」「楽」もだが、「四時行ハレ、百物生ズ。学之道ハ斯クノゴトキカ」に、「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」(同p.269)という宣長を、氏は見ていただろうか。だとすれば、宣長もまた、言語の説明による事物の理解よりも、「思ひて識る」、学ぶ者の自得を俟つ人だったろうか。私もまた、徂徠のいる理由を自得した気がした。
古人の遺した『物』の歴史的個性を会得する自得とは、自然と喩ることで、自分でどうこうするものではない。ただ、作った人の経験を、自分の中に迎え入れるしかない。そこに、「徒名ニシテ物ナク、空言ニシテ之ヲ状ル」己が居座っていては邪魔であろう。物語の力に身を任せ、物としっかり結びつく実名だけを掴み実理として推していけば、いつしか無私を得て「鬼神将ニ之ヲ通ゼント」古人を迎え入れることができる。それが、「『尋常の理』に精しくなれば、『其ノ外に測リがたき妙理のあることを知る』ようになる」ことではないだろうか。
小学一年の時、自然観察のため学年全員で近くの神社に出かけたことがあった。そこは、小さな祠だけがある、遊び場にうってつけの森だった。「木の枝の一本一本、葉っぱ一枚一枚に、神さんがいますから、何にも折ったり取ったりしたらいけませんよ」と、先生にきつく言われて縮み上がり、神さんはどこに居るのか、木の枝や葉をまじまじと観察したのを思い出した。
神さんは見つけられなかったが、古人もまた、同じ木や枝や葉を、山や川を、さらには、太陽や月を、見ていたに相違ない。人の力や理解を超える、自然の力や不思議は「妙理」と言う外はない。「妙理」として古人が直に触れた物の経験を、つまり、「見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい」。神とは、古人が直に触れた物の経験に相かなう徴なのだと、小林氏は言うのだろうか。
そのようなわけで、なかなか飲み込めない、宣長の考えを何とかわが物にしようと、七転八倒しているところである。もうこの上は、私も、自分を歴史のうちに投げ入れて、素直な態度に立ち返ろう。例えば、「太陽」や「月」のように、宇宙を自分の中に再現するような科学的な言い方よりも、「お日さん」「お月さん」といった、見えたがままの、言い方から始めてみよう。
(了)