先の見えないコロナ禍が続き、旅というものに出られなくなって久しい。いきおい、過去の旅を思い出すことが増えた。
私にとって印象深い旅の一つが、二〇一七年(平成29年)十月に池田雅延塾頭と塾生で訪れた三重県のことである。人生で初めて三重を訪れたその週末の二日間はあいにくの雨模様であった。旅の初日には池田塾頭も登壇された「宣長サミット」を傍聴し、県立美術館の「本居宣長展」を観覧した。その夜の当時の本居宣長記念館の吉田悦之館長を交えた宴も大変楽しいものであった。そして、二日目はかねて訪問してみたいと熱望していた松阪の鈴屋遺蹟、妙楽寺の裏山の墓所、本居宣長記念館を訪れることができた。特に、雨に煙る墓所は、「ああ、ここが『本居宣長』の冒頭、絵付きで紹介されているお墓か」と深い感動を覚えたことをはっきりと覚えている。
その松阪で、生涯にわたる出会いをしたのが、本居宣長と賀茂真淵である。「松坂の一夜」として有名なこの出会いを経て、宣長は真淵への入門が認められ、宣長が求めていた「古事記」の研究に向け、「万葉集」を通した古語についての質疑を真淵が受諾した。宣長は憧れの師に入門を果たし、真淵は最大の弟子を得たのだ。しかし、この二人の歩む道はその後大きく分かれていく。最大の分かれ道は「古事記」の読みであった。
小林秀雄先生は、「本居宣長」の第一章に記しているとおり、この本を思想劇として書かれた。私にしてみれば、一種のミステリー小説を読むような、どきどきした気持ちにさせられる。魅力的な数多くの謎がちりばめられており、読者はその謎に引き込まれ、ああではないか、こうではないかと自問自答に導かれるのだ。あの松阪への旅を思い出しながら、山の上の塾への入塾以来、何度手にしたか分からない煤けた付箋だらけの「本居宣長」をまた手にした時、真淵と宣長という、二人の師弟の分かれ道という大きな謎が私を誘っているように感じられた。
真淵は一七六九年(明和6年)、「松坂の一夜」から六年後に没した。小林先生は、その真淵の晩年を「万葉集」との戦いに明け暮れたと記す。
「万葉の歌はおよそますらをの手ぶり也」(「にひまなび」)として、「『高きところを得る』という彼の予感は、『万葉』の訓詁という『低きところ』に、それも、冠辞だけを取り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集227ページ)
一方、宣長は「定家卿云、」という契沖の残した言葉をそのとおり実践し、「源氏物語」の美しい言葉が伝えるままを素直に受け取って、自ら味わい尽くすということから決して外れることがなかった。こうして、その一途な「源氏物語」の愛読からは、「物のあはれを知る」ということについての開眼が得られた。
この真淵と宣長について、小林先生はこう記す。
「二人は、『源氏』『万葉』の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。『万葉』経験と『源氏』経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった」(同第27集230ページ)
二人のそれぞれひたすらな熟読の態度は、一見すると同じようなところに至ったのではないかというようにも思える。しかし、実際はそうではなかった。「古事記」の読みに至り、それは明らかになった。つまり、冒頭にも記したとおり、真淵には読めず、宣長には読めた。この差はどこから来たのだろうか。
差の予兆は、真淵の「源氏物語」に対する態度から見えていた。真淵は「源氏」を物語であって和歌ではないと捉え、「只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」(同第27集187ページ)という態度を離れようとはしなかったのである(*)。しかし、そう言いながらも、真淵ははっきりと「源氏」を軽んじた。「伊勢物語」「大和物語」の下位に立つ、「下れる果」とした。さらに、
「『万葉』の『ますらをの手ぶり』を深く信じた真淵には、『源氏』の如き『手弱女のすがた』をした男性の品定めは、もとより話にならない」(同第27集187ページ)
ここから窺えるのは、真淵の観念であり、決めつけである。作品には序列をつけ、自分が「万葉集」の語釈から発見、獲得したと信じた古代の言葉の読み方のモノサシにこだわる態度である。
では、宣長はといえば、「可翫詞花言葉」という態度を貫いた。「源氏物語」「万葉集」そして「古事記」でも徹底してこれを実践したのである。態度はモノサシではない。だから、時と場合や文脈により変化する言葉の変幻自在さにも柔軟に対応することができた。
「古事記」の読みについて、小林先生は二人の差を明快に記す。
「見たところ同じような解を比べて、二人の仕事から、その内容を推してみると、言語に対する両人の態度の相違が浮かび上って来る。或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方が、真淵には見られないのである。真淵には、神の古義はかくかくのものと、分析的に規定してみせるところで、足を止め、言葉の内部に這入り込もうとしないところがある。言ってみれば、『万葉』の鑑賞や批評で、充分に練磨された筈の、その素早い語感が、此処では、ためらっている。では、何が、彼の鋭敏な語感の自由な動きを阻んでいるか、という事になれば、古道の上で、己れの理想を貫こうとする、彼の意志が考えたくなるだろう。神という古言の、古人の生活に即した使い方の裡に入り込み、その覚束ない信仰を、そのまま受入れて、これにかかずらうというような事は、古道について目覚めた、彼の哲学的意識の許すところではなかった、とも言えようか」(同第28集141ページ)
調べてみると、賀茂神社の末社の神職を代々務めた岡部家の生まれだそうである。真淵は神道の立場から古道を極めようとした。そうした観念的立場が根底にあったことが、「ますらをの手ぶり」に拘泥させてしまったのではなかったのか。そういう思惑や欲が目を曇らせたのではないか。かたや宣長は「可翫詞花言葉」で徹底していた。美しい言葉を味わい尽くそうと必死だった。
「『古事記』という『古事のふみ』に記されている『古事』とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人の意の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は『ふり』と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その『ふり』である」(同第27集349ページ)
宣長は、先ほど引用した「或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方」からぶれることがなかった。だから、「古事記」の言葉から、上古の人々の様々な「ふり」が感得できたのだ。それは、対象を知ろうとする懸命な無私が可能にしたものだ。この無私とは、単に自分を捨てるということではない。真淵の眼を曇らせた手持ちの尺度や観念という自分は捨てても、ひたすらに相手を知りたい、その出会いに心揺さぶられる自分を発見することまでを宣長は忘れはしなかった。これこそが「可翫詞花言葉」を実践する上での大事な急所ではなかっただろうか。
宣長は、師と仰いだ真淵の訃報に接し、日記にただ一言、「不堪哀惜」と記した。真淵の、自己の観念に囚われた学問の態度のままでは「古事記」は到底読めなかっただろう。ただ、そういうことを自分に教えてくれたという意味でもやはり師であったという、嘆きや同情や感謝といったものが複雑に詰まった一言であるように私には思える。
(*)真淵の「源氏物語」に対する態度については、宣長のそれとの比較も含め、池田塾頭が、「小林秀雄『本居宣長』全景」第三十回(「好・信・楽」2021年秋号)において詳しく論じられているのを参照されたい。
(了)