先日、小林秀雄の最後の書籍担当編集者であり本誌前編集長でもある池田雅延さんからお電話があり、このような質問を受けました――西洋音楽史の絶頂は、どのあたりにあるのでしょうか? 池田さんは、現在塾頭を務めておられる「小林秀雄に学ぶ塾」の場で、塾生の一人である斎藤清孝さんから次のように問いかけられたといいます、「日本の和歌史は『新古今集』で絶頂に達したと本居宣長は言っている、と小林先生は書かれていますね、そういう意味合で言うと、西洋音楽史の絶頂はどのあたりになるのでしょうね」。池田さん自身、斎藤さんに問われるまではそのことを思い描いてみたことすらなかったが、問われてみればなるほどと思い、私に質問してみようと思い立ったのだそうです。
小林秀雄の「本居宣長」第二十一章には、宣長の「あしわけ小船」から引用しながら次のように記されています。
宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。
斎藤さんと池田さんは、宣長が「至極セル処」と言ったところを「絶頂」という言葉に換えて私に問われたのですが、お二人が問われたその「西洋音楽史の絶頂」はしかし、単にヨーロッパの音楽の歴史の中でどの時代の音楽がもっとも優れたものかという意味合での「絶頂」ではなかっただろうと思います。というのは、宣長が言った「至極セル処」とは、そのような意味合での「絶頂」では必ずしもなかったからです。少なくとも小林秀雄は「本居宣長」の中で、この宣長の断定をそのようには受け取りませんでした。
彼に言わせれば、宣長の「新古今」尊重とは、たとえば賀茂真淵がこの歌集を「手弱女のすがた」と軽蔑しつつ「万葉集」を「ますらをの手ぶり」と褒め称えたような意味での、歌の巧拙やその表現性に関する善悪の主張ではなかった。それは、歌とは「人情風俗ニツレテ、変易スル」という、和歌に対する宣長の「歴史感覚」の上に立つものであった。「此道ノ至極セル処」とは、情と詞とが求めずして均衡を得ていた幸運な「万葉」の時代から、情詞ともに意識的に求めねばならぬ「新古今」の頂に登り詰めた事を言うのであり、登り詰めたなら下る他はない、そういうたった一度限り和歌史に現れた「姿」を言う。宣長は、この姿は超え難いと言ったので、完全だと言ったのではない。「歌ノ変易」だけが「歌ノ本然」であるとした宣長に、「歌の完成完結」というような考えの入り込む余地はなかった――と、「本居宣長」第二十一章には大要そう述べられています。
しかし私は、宣長がそもそもどういう意味合でこのような断定を下したのか、またそれを小林秀雄はどう受けとめたのかという問題とは別に、斎藤さんと池田さんが口にされた「西洋音楽史の絶頂」という言葉にひどく心の沸き立つものを覚えました。そこで、私は私の思惑をもって、お二人のこの問いにお答えすることにしたのです。
まず、この「西洋音楽史の絶頂」を、たとえば「現在コンサートやレコーディングのレパートリーとしてもっとも人気があり、盛んに演奏されている時代の音楽」という至極平俗な意味に解するとすれば、それは十九世紀を中心に生み出された、広い意味でのロマン主義の音楽ということになるだろうと思います。作曲家で言えば、ベートーヴェンから始まって、シューベルト、シューマン、ショパン、ワーグナーを経て、ブラームスやマーラーあたりに至るまでの音楽です。すでにお話ししたように、ゲーテはこの芸術運動の未来を非常に憂いたわけですが、結果として、この時代に隆盛を極めたゲーテ言うところの「主観的」な音楽が、未だに多くの人々の心を掴み続けていることは事実です。
あるいはその「絶頂」をもう少し広く捉えるならば、バッハとヘンデル、後にハイドンとモーツァルトが活躍した十八世紀から、二十世紀に入ってシェーンベルクが十二音技法を発明し、それまでの調性音楽を完全に崩壊させながら、一方リヒャルト・シュトラウスが調性の名残を惜しむかのような音楽を書き続けた同世紀半ばくらいまでの、およそ二百五十年の間に生み出された音楽ということになるでしょう。太古の昔から、人類は音楽というものを生み出し続けてきた生き物ですが、ヨーロッパの長い音楽の歴史において、この二百五十年は、まさに「絶頂」と呼んで差し支えのない黄金時代であったと言えます。そしてまた、この「絶頂」たる事実は、今後も人間の聴覚機能が突然変異を起こしでもしない限り、永久不変のものであるようにさえ思われます。現代の作曲家や、音楽に対して進歩的な考えをお持ちの方は、無論反論なさるだろうが、多くのクラシック音楽ファンの、まずはこれが一般的な認識だろうと思います。というよりも、ヨーロッパにおけるこの二百五十年の黄金時代の音楽を、我々は「クラシック音楽」と呼んで楽しんでいる、というべきかもしれません。
ところで次に、この「西洋音楽史の絶頂」を、「西洋音楽史上もっとも優れた、もっとも偉大な作曲家」と捉えてみればどうだろう。これは、おそらくクラシック音楽がお好きな方なら誰でも一度は自分に問うてみたことがあるはずの問いです。そしてその問いに対しては、それぞれ何らかの回答をお持ちでしょう。たとえば、それはベートーヴェンだと答える人は世界中にかなりの数おられるはずです。あるいは、ベートーヴェンは確かに優れた曲、偉大な曲も多いが、つまらない曲も案外たくさん書いている、優れたというならモーツァルトの方がより完璧だ、と反論する人もあるかもしれない。あるいはまた、偉大というなら音楽の父ヨハン・セバスティアン・バッハである、ベートーヴェンも言ったように、バッハは小川(BACH)ではなく海(MER)なのだから、と答える人も多いことでしょう。それともあなたは、「そもそもその問いは無意味である。音楽史上に優れた、偉大な作曲家は数多く存在し、その優劣を決めることなどできないからだ」とお答えになるでしょうか。もしかしたら、この最後の良識ある答えをお持ちの方が一番多いかもしれません。
私は池田さんに、「西洋音楽史の絶頂はどこにあるのか」と最初に問われた時、良識ある音楽ファンなら愚問と受け取りかねない問いとして、すなわち「西洋音楽史上もっとも優れた、もっとも偉大な作曲家は誰か」という問いとして受けとめました。なぜなら、私にとってその問いは決して愚問ではないばかりか極めて深刻な問いであり、かつその答えは、自分の中にもうずいぶん以前から不動のものとして居座り続けているからです。私は池田さんに、これはあくまで私一個の考えですがとお断りした上で、「それはバッハと、モーツァルトと、ベートーヴェンの三人です」とお答えしました。無論私にも多少の良識は備わっているから、作曲家の優劣を決めることなどできないし無意味であるという考えは了解できる。実際、この三人の中で誰が一番かという話になれば、それは絶対に答えられぬと断言するでしょう。またたとえば、ヘンデルはバッハよりも、ハイドンはモーツァルトよりも、シューベルトはベートーヴェンよりも劣っている、などということが言いたいわけではない。ただ、気がつけばすでに半世紀に及ぼうとしている自分の音楽経験の偽りない実感に即していえば、この三人の音楽は、これをきくたびに、ヨーロッパが生み出したすべての音楽の「至極セル処ニテ、此上ナシ」と言えるものである、それはまさに「西洋音楽史の絶頂」であると、躊躇なく言えるものが確かにあるのです。
さらに言えば、私は池田さんには「これはあくまで私一個の考えですが」とお断りしたが、実のところ決して自分一個の独断ではないとも思っている。事実、クラシック音楽は何と言ってもこの三人に尽きると考える人は私だけではないでしょう。やれそれはベートーヴェンだ、いやモーツァルトだと言いはじめると途端に意見は分かれるのだが、この三人を並べれば、まず大抵の人は納得するのではないか。あえてそうは断言しない良識ある人の多くも、まあ君がそう言いたくなる気持ちはわかるよ、くらいには許容してくれるだろうと思います。ですから、「西洋音楽史の絶頂」が本当にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であるか否かの議論は今日はしないことにして、いま考えたいのは、なぜ、その「絶頂」がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人にあると言えるのか、ということです。あるいはなぜ、多くの人はこの三人の音楽に「絶頂」をききとるのか。
おそらく、この問いに十全に答えられる人は今までもいなかったし、これから先も現れないに違いない。少なくとも西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると確信していない人に対して、そのことをいくら説いてみても納得させることはできないでしょう。理由は簡単で、音楽の偉大さは理解するものではなく、感じることしかできないものだからです。私もそのことを、実感としてそう感じない人に説いて説得しようなどと思ったことは一度もない。それこそ無意味です。しかしながら、西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると躊躇なく言ってしまう自分自身に対しては、なぜ自分がそう思うのかを自分に納得させたいとは長い間思ってきました。そして若い頃には、そこに様々な理屈をつけようとしたものだが、齢五十も過ぎたこの頃では、この難解な問いに対して、自分でもあっけないと思うくらいの素朴な解決をつけるようになった。それは、そもそも音楽とは何かという問いをごく素朴に考えるようになったということでもあるのですが、音楽とは、私は結局人間の感情を伝えるものであると思う。そして、様々ある人間感情のうち、もっとも尊い感情を伝えてくれる音楽が、この三人の音楽である、と、今はそう簡単に考えるようになりました。とはいえ、これでは素朴にも程があると言われるかもしれない。もう少しこのことを考えてみることにしましょう。
音楽とは人間の感情を伝えるものである、と君はいうが、自分は人間の感情を伝えるために作曲しているわけではない、と反論する作曲家はもちろんいるでしょう。実際、バッハやモーツァルトをはじめとするロマン主義以前の作曲家の多くは、必ずしも人間の感情を伝えるために音楽を書いたわけではありませんでした。少なくとも自分の感情を伝えるために書いたわけではなかったことは確かでしょう。しかし私が言いたいのは、どのような意図をもって作曲したにせよ、いったんそれが音楽として鳴らされた瞬間に、音楽というものは何らかの人間感情を伝えてしまうものであるということ、あるいは音楽をきく人間は、望むと望まざるとにかかわらずその音楽に何らかの人間感情をききとってしまうものである、ということです。いやいや、そういう耳こそ、まさにロマン主義音楽が発明したものであり、君はその呪縛から未だ逃れることができないでいるだけなのだ、という人もあるかもしれない。あるいはそうかもしれません。そしてロマン主義音楽が未だにこれだけの人気を博し、きかれ続けているというのも、音楽によって人間の感情を表現するというその発明の魅力と呪縛力のいかに絶大なものであったのかの証左かもしれません。
しかしまた、私は次のようにも考えます。音楽は、ロマン主義音楽が現れる遥か以前から、何かしらの人間感情を伝えるものであった。あるいは音楽に耳を澄ます人に対して、何かしらの人間感情を喚起するものであった。それがロマン主義に至って、作曲家たちは、その音楽の本質的な力に対して極めて自覚的になり、意識的にその力を高め、これを極限まで拡大しようとした。そしてその実験に見事成功した。その結果、音楽をきく我々も、人間感情を伝達するという音楽の本質的な力に目覚めることとなり、その虜となり、感情伝達の刺激を以前にも増して強く欲するようになった。そして必ずしも感情伝達を目的として作られたわけではなかったロマン主義以前の音楽からも、これを貪るようになったのだと。そういう意味では、我々は確かに未だロマン主義音楽の呪縛から抜けていないとも言えるが、しかしこの呪縛は、もともと音楽に本質的に備わった力である以上、呪縛が解けるということはもはやないようにも思われるのです。
そこで、音楽とは人間の感情を伝えるものだという素朴な考えはいったん受け入れていただくとして、様々ある人間感情のうちもっとも尊い感情を伝えてくれる音楽がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であるという、そのもっとも尊い感情について考えてみたい。というのも、そのもっとも尊い感情とは一体何かを問う以前に、そのように断定する人、つまり私は、人間の感情というものに対して、もっとも尊いとか、もっとも偉大なというように、一種の価値の序列を想定していることになるからです。もし私が良識ある音楽ファンだったとしたら、まずはそのことを私に問い詰めてみたいと思うことでしょう。人間の感情には、そもそもそのような価値の序列が存在し得るのかと。これは、もはや音楽の話題というより、哲学や、心理学や、あるいは道徳や宗教のテーマです。それを論証する力は私にはありません。ただ、あくまでも自分の生活感情に即して言えば、日々自分の中に生じる様々な感情、あるいは他人から受け取る様々な感情に対して、私は確かにある種の価値判断を下しながら暮らしている、ということははっきり言えるように思うのです。その感情の価値の序列は、一番、二番、三番と数えられるような単純なものでは無論ないが、そもそも人間の感情には尊い感情もあり、醜い感情もあると感じながら暮らしている時点で、すでに何らかの価値判断を下していることになりますし、同じく尊いと感じる感情の中にも、自分にはとても抱き得ないと思われるほどの至高の感情から、自分のようなつまらない人間にもごく自然に芽生え、湧き出てくる感情もある。一方、醜い人間感情のうちにも、これは確かに醜悪だが人間である以上捨て切れないと思われるものもあり、自分に対しても他人に対しても到底許容できないと思われる感情もあります。皆さんも、それは同じなのではないか。また、それは誰しも同じであると信じられなければ、私たちは一日たりともこの社会で生きて行くことはできないのではないか。そしてもしそうだとすれば、私をはじめ多くのクラシック音楽好きが、西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると断言するとき、この三人が伝えるもっとも尊い感情とは、自分にとって尊いのみならず万人にとってもっとも尊い感情であると固く信じているということになります。むしろそのことへの信条が、この三人を西洋音楽史の絶頂と呼ばしめる最大の根拠だといってもいいでしょう。
ではその、もっとも尊い感情とは一体何か。バッハとモーツァルトとベートーヴェンの音楽からそれぞれ伝わってくる感情は、無論同じではありません。また同じバッハの音楽でも、曲によって伝わってくる感情はそれぞれ異なるでしょう。しかし、曲によって伝わる感情の違いというものは、あくまでも表面に現れる現象の違いにすぎないのであって、バッハのあらゆる音楽を長い年月をかけてきいてきた結果として、バッハの音楽が伝える感情とは畢竟これだと直覚するということは確かにあります。あるいはバッハの音楽が伝える様々な感情の中で、もっとも尊い感情はこれだと確信するということはあります。その直覚し、確信した感情を、この三人の音楽のそれぞれについて言い当てるのは至難の技だが、またそれができれば一流の批評家といえますが、バッハについていえば、たとえば最近こんな事がありました。
今年に入ってから、私が大変お世話になり、また頼りにしていた方がお二人、矢継ぎ早に亡くなられました。お二人との関係はそれぞれ異なりますが、いずれも突然の訃報であり、悲しみと喪失感の深さに変わりはありませんでした。人が集うことを規制する法令措置が敷かれる中で、葬儀に参列することも叶わず、せめてそのかわりにと思って、お二人の死を悼むための音楽会を執り行いました。音楽会とはいっても、お二人の思い出につながるレコードを、お二人とのゆかりの場所で、生前お二人と親交のあった方々と一緒にきこうという音楽会です。そのとき、私の信頼する友人が、バッハの「シャコンヌ」をかけた。ジョコンダ・デ・ヴィートのレコードでした。音楽も、演奏も、すでにこれまで何度も繰り返しきいてきたものですが、それは非常に私の心にこたえました。こたえたが、また救われたようにも感じました。そのときに、バッハの音楽とは結局すべて受難曲なのだという考えが浮かび、その「受難」という言葉が、自分が今までバッハの音楽から伝えられてきたもっとも尊い感情に結びつくものだということにはっきり気づいたのです。
受難曲というのは、新約聖書の四つの福音書に基づきながら、キリストの受難の物語を扱った宗教音楽のことです。バッハには「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」という二つの大曲があり、とりわけ「マタイ受難曲」は、この一曲をもって、それこそ西洋音楽史の絶頂と呼んでいい音楽です。しかしいわゆる受難曲やミサ曲などの宗教音楽の形式をとったものでなくても、この「シャコンヌ」のような、もともとは舞曲の一形式から生まれた音楽や、たとえば平均律クラヴィーア曲集のプレリュードやフーガのような純粋な器楽曲、あるいは「G線上のアリア」のようなほとんど通俗名曲と化した世俗音楽でさえ、それらが伝える感情の本質は「受難」というものなのではないかと思ったのです。受難の感情とは言っても、ただ苦しみの感情の訴えということではありません。それはむしろ、自分以外の人間の苦しみに寄り添い、これを全面的に引き受け、包摂しようとする感情です。つまり十字架の上のキリストというあの形象そのものだが、しかし私はクリスチャンではありませんから、あの姿を宗教のシンボルとしてではなく、一つの絶対的に尊い人間感情のシンボルとして見ます。そしてあの十字架の上のキリストという人間感情を音楽によってもっとも真正に伝えてくれるのが、バッハの音楽だと思ったのです。
では次に、モーツァルトの音楽が我々に伝えてくれる感情とは何でありましょうか。これも、私はまだうまい言葉を所有しませんし、今後も所有できる見込みは極めて薄いが、しかしその音楽から伝わってくる感情そのものは疑いようのないもので、それは人間の愛情というものだと思います。愛情と言っても色々あるといわれるなら、無条件のいつくしみの情といってもいい。その感情に一番近いのは、おそらく母親が我が子に注ぐ愛情でありましょう。そしてこの感情もまた、自分自身に向けられたものではなく、自分以外の人間に向けられた尊い感情であるという点で、バッハの音楽が伝える感情に通じるものだと思うのです。
一方、小林秀雄はモーツァルトの音楽が伝える感情を、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と表現しました。これは素晴らしい批評の言葉です。しかしこの「かなし」も、その根源に遡れば結局は同じ感情に帰するのではないか。もともと「かなし」は、「愛し」とも書くように、同じ感情の泉から生まれて来た言葉だったに違いありません。もっとも愛しい者を失った時に、人間のかなしさはもっとも極まるからです。もともと愛情のないところに、人のかなしみも、人生の無常迅速への嘆きもないのです。おそらくはそれが、「『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい」と小林秀雄が付け加えた所以ではなかったでしょうか。事実、「モオツァルト」に書かれたその「かなし」は、モーツァルトが母アンナ・マリアを失った時のエピソードから書き出されたものでした。そして小林秀雄自身、この作品を脱稿する直前に自分の母親を失うのです。
さてそこでベートーヴェンです。私のこの講話のそもそもの眼目は、ベートーヴェンの音楽が伝えるもっとも尊い感情についてお話しすることであり、その感情を、おそらく小林秀雄は「早来迎」という言葉で言い当てたのだということを皆さんに示したいがために始めたものでした。小林秀雄が坂本忠雄さんに、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と伝えたとき、「早来迎」というその言葉に託した意味については、何も語らなかったといいます。しかしその言葉におそらくは通じると思われる言葉が、実は「モオツァルト」第一章の中に書き込まれているのです。その言葉に到達するために、これまでこの一章に描かれた二つの「デーモン」をめぐってお話ししてきたのでした。
その二つの「デーモン」が交錯する様を、すなわち「モオツァルト」の第三段落以降において、モーツァルトという「悪魔の罠」がベートーヴェンという「悪魔の罠」に突如すり替わるかのような文章の展開を、先ほど私は、実に巧妙だ、それこそ「悪魔の罠」と呼びたいほどだ、と言いました。しかしこれは、もしかしたら誤解を招く表現だったかもしれません。というのは、小林秀雄は読者を陥らせようと意図してその「罠」を仕掛けたわけではなかっただろうと思うからです。むしろ彼は、自らすすんでその「罠」に陥りたかった、その必要から、ベートーヴェンに震駭するゲーテという「底の知れない穴」をあえて掘ったとも言えるのです。
「モオツァルト」第一章に挿入されたベートーヴェンの第五シンフォニーをめぐるゲーテのエピソードは、モーツァルト論としてのこの批評作品の文脈からすれば、本来、ゲーテという狂言回しを介してモーツァルトを本舞台に上げるための呼び水であり、前口上に留まるべきものです。ここに登場するベートーヴェンという脇役は、名脇役には違いないが、あくまでもモーツァルトという主役を引き立てるために登場しなければならない、言わば当て馬のような存在です。たとえばこの当て馬ベートーヴェンを、「ベートーヴェンという典型的な近代の芸術家に対する、近代の超克としてのモーツァルト」という図式の中で登場させることもできたでしょう。いや、「モオツァルト」第一章は、ほとんどその図式を象っているかのように見えながら、小林秀雄の筆が描き出すベートーヴェンは、決してその図式の枠に収ろうとはしない、当て馬であることを自ら拒否しているのです。
そもそも「モオツァルト」の第二段落で、小林秀雄は「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」と書いていましたが、ゲーテが「心乱れた」のは、ベートーヴェンの第五シンフォニーに対してであって、「ゲーテとの対話」を読む限り、ゲーテはモーツァルトの音楽そのものには決して心乱れてはいないのです。ゲーテが心乱れたとすれば、それはラファエロやシェークスピアやモーツァルトやナポレオンといった不世出の天才たちを発明した「デーモン」に対してであり、その意味においては、「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」という小林秀雄の想像は、故なき想像ではないのですが、一方、そう書いた段落の直後にベートーヴェンを、しかも同じ「悪魔」の名のもとに登場させることによって、この「悪魔」が俄然別の意味を帯びることになるのです。そしてこれは、多かれ少なかれ小林秀雄が企図した文章の仕掛けの一つだったと思います。言わばこの「悪魔」は、モーツァルトとベートーヴェンとの間を往還しながら、「八十歳の大自意識家」の苛立ちの中で乱反射するのです。その仕掛けの見事さを「巧妙」であり「悪魔の罠」だと言ったのですが、しかし繰り返します、それは読者を陥らせるための仕掛けではなかった、自らが陥るための「罠」であった。
ではなぜ、そのような「罠」に自ら陥ってみせる必要が彼にはあったのか。それは、「モオツァルト」を書き出しながら、同時に彼の頭の中では、その対旋律として「ベエトオヴェン」が鳴っていたからだと私は思います。しかもその対旋律は、主旋律を引き立たせるためのオブリガート(助奏)ではなかった、「モオツァルト」という主旋律からは独立した、もう一つの、しかしついに歌われることのなかった主旋律であった。これは坂本忠雄さんが別の方から伝え聞いた話だそうですが、小林秀雄は「モオツァルト」を書いていた当時、ベートーヴェンをよくきいていたといいます。それを私の想像のアリバイに見立てるつもりはありませんが、「モオツァルト」の冒頭章を熟読する限り、この作品を書き出した当初、小林秀雄の中では、「モオツァルト」と「ベエトオヴェン」とが時に交差し、時に錯綜し、時に渾然一体となった瞬間があったことは間違いないように思われるのです。
すでにお話ししたように、ゲーテの「デーモン」とは、晩年のゲーテの宿命観、運命観の化身のような存在であった。そのゲーテの運命観が、「モーツァルトの音楽とは人間どもをからかうために悪魔が発明した」という「一風変った考え方」を生み出しました。一方、ベートーヴェンの第五シンフォニーもまた、この芸術家の宿命観、運命観がそのまま結晶したような音楽であった。しかもこの音楽がわれわれに伝える運命観は、「ベートーヴェンの音楽とは人間どもをからかうために悪魔が発明した」というような考えを断固拒否するものであった。人間どもをからかう悪魔としての運命は、ベートーヴェンにとっては、その「喉首を締め上げてみせる」べきものであったからです。ならば、第五シンフォニーに対するゲーテのあの苛立ちとは、この音楽が孕むロマン主義的なものへの拒絶であっただけでなく、自らの宿命観、運命観が、ベートーヴェンのそれと正面から衝突し、拮抗したところに生じたものだったとも言えるのではないか。そしてもし、これが「モオツァルト」ではなく「ベエトオヴェン」第一章として書かれたエピソードであったなら、小林秀雄はそのことを主題として書いたのではあるまいか。無論、これはそれこそ私の想像です。ただ、ついに書かれることのなかったそのもう一つの主旋律の断片が、「モオツァルト」第一章の行間に見つかるのです。それは、「ゲエテは、壮年期のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか」と書かれた、そのすぐ後に書き添えられた次の一節です。
ベエトオヴェンは、たしかに自分の撒いた種は刈りとったのだが、彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて、恐らくゲエテは全く無関心であった。
ゲーテが苛立ったのは、「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」というベートーヴェンが撒いた「種」に対してであった。しかし小林秀雄にとっては、ベートーヴェンという芸術家は、ゲーテが嫌悪したロマン主義の「種」を撒いただけの人ではなかった。この病的な「種」から、誰も及ばないような強靭で豊穣な大樹を生み、その果実の毒に自らあたりながら、最終的にはこれを自身の手で「刈りとった」人であった。そのベートーヴェンが晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したか。確かにゲーテは、全く無関心だったでありましょう。そしてこの事実は、「モオツァルト」第一章の主題とは直接には関係のないものなのです。しかし小林秀雄は、この一行を書き加えずにはいられなかった。彼の「ベエトオヴェン」においては、この作曲家がついに「己れを救助した」というその事実にこそ、最大の関心があったはずだからです。そしてまた、ベートーヴェンは「己れを救助した」というその故にこそ、小林秀雄の「ベエトオヴェン」は書かれなかったのだと私は思うのです。
(つづく)
本年一月二十九日、坂本忠雄氏が逝去されました。享年八十六。本連載は、生前小林秀雄が坂本忠雄さんに伝えたベートーヴェンの音楽についての言葉への、私なりの応答を示すことを目的として書き出したものでした。ここに謹んで哀悼の意を表します。