『本居宣長』の<時間論>へⅤ―停止と循環をめぐって

石川 則夫

1 物語への想像力

 

生と死が厳とした境界に阻まれてはいるが、ある時を定めての交歓が必ずしも不可能ではなかったということ。これが、例えば柳田国男の文化的想像力の結実であった。すなわち、この二者は元々隣り合わせの世界であり、その間の扉を開けるに相応しい方法が遙かな昔から家々の中で引き継がれて来たということである。これまで本誌に繰り返し記したところをもう一度確認しておくばかりであるが、こうした文化に生きる者の人生観においては、生と死は相互に補完する機能を有するということを了承した場合、この文化を育み、その度ごとに証するものが言葉であり、文章としてあったことは明らかであって、もちろん、事は言葉と文章の有り様によって読み取られ、身体に刻み込まれ、また語られていったという過程を想像しなければならない。したがって、生と死への洞察の次には、言語の機能についての本質的な批判が必要であり、それを俟って初めて学的対象としての言語なる無機的な組織以前に、本来的に先行している物語という行為、言葉を紡ぎ出しつつ対象を象り、整えようとする有機的な動きの方へ注意を向けるべきなのである。

端的に言えば、『本居宣長』中で執拗に言及される「もののあはれ」という心と言葉として整序される以前の、先験的な働きは、あらゆる認識の起源を問題化することによって、「歌のこと」と「道のこと」という二つの方向性を一つとして起動するものであることを表現していたのである。したがって、天与の経験を言葉に整えるとは、言語論的には文章を作成することだが、同時に、実はなんらかの物語を発動させることに他ならないはずなのである。

具体的に考えてみよう。『本居宣長』の終わり近くには、神名、神の御名の吟味についての記述が現れる。そして、「天照大御神」という「御号みな」が文章として成り立っているということを明らかにしている。

 

天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己れの具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。

(四十一)

 

さらに、『本居宣長』中では露わなかたちでは扱われなかった<時間>については、『本居宣長補記Ⅰ』に宣長の「真暦考」を取り上げて、暦法以前の時の認識を考察することを通して、「もののあはれ」という働きそのものを原初の経験として踏まえる物語行為を経て、過去を現在に見出していったという見通しを表現しているのである。

遙かな昔、未だ暦を持たないまま長い時代を生きていた人々の時間感覚を、「来経数けよみ」という「わざ」として、次のように記すところが注意される。

 

親の忌日が、暦に書かれているわけもないのだから、秋が訪れるごとに、其人ソノヒトのうせにしは、此樹の黄葉のちりそめし日ぞかし」と、年毎に、自分でその日を定めねばならない。創り出さねばならないと言ってもいいだろう。暦を繰ってすませている人々が、思ってもみない事だが、各人が自分に身近かな、ほんのささやかな対象だけを迎えて、その中に、われを忘れ、全精神を傾け、「その日」を求めた。他の世界は消えた。そのような勝手な為体ていたらくで、何一つ違わず、うまく行っていた。何故かと問われれば、「真暦」が行われていたからだ、と答えるより答えようが宣長にはなかった。

(「補記Ⅰ」三)

 

遥かな時間を遡って、祖先たちが語ることを得た神の「御号」も、暦のない時代の「来経数」も、言語行為の原初的機能である物語行為の遂行によって初めてそれと認められるということならば、その物語行為の文体はどのような特質を帯びていなければならないか。しかし、現代に生きる我々が親しんでいる物語とは、暦法に習熟し、生活の基盤として疑いようのない時間という制度に、ほとんど洗脳されてしまった後の作成物であり、これを我々は毛ほども疑うことがないということに、改めて驚いてみることが必須なのだ。昔話、伝説、説話として、いつのまにか我々の生活を導いてきたはずの物語も、出来事に日付が入るのが当たり前になり、過去から未来へのベクトルを本質として、単一方向の一次元連続体として流れ始めて既に久しいのである。

本稿では、物語がそうなる以前の姿に想いを致してみたい。

 

2 「芸術新潮」の創刊

 

1950(昭25)年1月に「芸術新潮」が創刊された。創刊の経緯について等の説明は創刊号には見あたらないが、この雑誌の構成から見た編集方針は、終戦直後から小林秀雄が創刊準備に奔走し、1946(昭21)12月に刊行が実現した「創元」に基づいているのではないかと、池田雅延氏から教示を得たことがある。当時にあっては他に類を見ない芸術文化の総合雑誌であり、豊富な写真やカラー図版などを駆使しつつ、評論や随筆、小説作品も掲載されるものであった。その後、この雑誌は「新潮」とともに小林秀雄の作品が次々に発表される場として展開していくことになる。1月創刊号には「秋」、2月号は「蘇我馬子の墓」、3月号に「雪舟」、そして4月号では青山二郎との対談「『形』を見る眼」と矢継ぎ早に発表している。また周知のように翌年から「ゴッホの手紙」の連載開始や、1956(昭31)年からは「近代絵画」の連載を「新潮」から引き継ぐなど、重要な作品発表が続いていくことになる。

さて、そこで肝心なのは、この年に書かれた作品の内容である。もちろん、詩や音楽といった西欧文化に関する文章も少なくないが、1年間を通して見ると、日本古典、古代文化に関する批評文が圧倒的に増加し、おそらくこの年に、古典や伝統といった言葉の意味合いを自らにおいて確立したのではないかと思われるくらいの充実した内容を持っている。それほど、古典への思考の密度が高められた表現が横溢しているのである。「芸術新潮」創刊号に掲載された「秋」は20年ぶりに訪れた奈良、二月堂の風景から書き起こされ、奔流のように湧き上がる「時間」と「歴史」の想念に自問自答を反復する思考を描き出し、2月号の「蘇我馬子の墓」では飛鳥の「石舞台」古墳に触発された思いを「日本書紀」の記述を丹念に追跡することで、武内宿禰、蘇我馬子、そして聖徳太子の人としての形を浮き彫りにすると同時に、古典や伝統について独自の思考を紡ぎ出していく。

 

 

伝統という言葉は、習慣という言葉よりも、遥かに古典という言葉に近いと私は考えたい。そして古典とは、この言葉の歴史からみても、反歴史的概念である。

 

といった激しい言葉が現れる。つまり、古典と過去、或いは古典と昔という隣り合う概念は親和性を有してはいないと言うのだ。しかし、それはどういうことなのか。古典とは「反歴史的概念」なのだというこの思考には容易ならぬものがあり、ここから多くの問いを経た後の遥か彼方、最終到達点として、『本居宣長』という作品が私に突きつける<時間論>が現れて来るように思うのである。

さて、やや飛躍し過ぎた話を元に戻せば、要は1950年の年頭から継続された古典領域への記述において、幾つかの山、思考の頂点が窺われるということ。そして、その中でもこの年の終わり近くに書かれた「偶像崇拝」(「新潮」11月)に注目したいのである。そこに古典と伝統という概念の直かな手触りを感じさせるような言葉が、折口信夫の著作をめぐって発せられているからである。また、その背景として、小林秀雄は折口信夫との交流を、この年の2月「古典をめぐりて」(「本流」第1号・国学院大学刊)と11月「燈下清談」(「図書新聞」)と2回の対談において行っていることも特筆に値しよう。

 

3 古物語ふるものがたりの覚醒

 

折口信夫の『死者の書』は1939(昭14)年1月から3月、「日本評論」に連載された小説である。単行書となって出版されたのは4年後の1943(昭18年)であったが、おそらく小林秀雄は初出稿を読んでいたと思われる(注1)。しかし、批評文としての明確な言及は、1950(昭25)年 11月の「新潮」誌上に発表された「偶像崇拝」の文中に現れる。

それは、この年の夏、高野山で開催された「夏期大学の用事で出向いた」際の経験で、同年9月の「高野山にて」(「夕刊新大阪」)にも簡潔に触れているところである。そこでの用事の合間には、霊宝館に掲げられていた「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を「毎日飽かずながめた」とあり、この「来迎図」の成立に関わる考察を、折口信夫の著作を通して描き出しているところが「偶像崇拝」の文中に現れる。仏教美術が、仏教のドグマを表現することと、芸術表現の自律性を志向することとのせめぎ合いの中で、その芸術としての自由を行使している有り様について記し、「「来迎図」の画因は、「観無量寿経」のドグマを超えている、このことを明言した最初の人は折口信夫氏である」として、所謂「山越し弥陀」形式の「来迎図」の「画因」を解く折口の表現の特殊性を次のように記している。

 

折口氏の様な仕事は、先ず絵に関する深い審美的経験による直覚があり、それに豊かな歴史的教養が絡んで、これを塩梅するという風な姿をとる。つまり、詩人によって見抜かれたものは、当然詩人の表現を必要とするという事になる。従って、折口氏の「来迎図」の画因という微妙な観念を掴むのには、氏の中将姫を題材とした「死者の書」という物語、或はその解説の為に書かれた小論、解説と言っても、詩人の表現に満ちているのだが、「山越し阿弥陀像の画因」(「八雲」第三しゅう)を読むより他にないのであるが……

 

高野山に赴いて久しぶりに見た「阿弥陀二十五菩薩来迎図」について、「高野山にて」の小文では折口作品に触れてはいないが、「偶像崇拝」では眼前の「来迎図」を巡る想念の中で、「死者の書」と「山越し阿弥陀像の画因」が重なり合い、彼岸の中日、まさに没しようとする夕日を背景にして、二上山の山頂から鞍部の谷筋に沿って静々と降りてくる阿弥陀仏の幻像が彷彿として来たのかもしれない。「偶像崇拝」の文章は、折口の論じた「日祀り」や「山ごもり」、「野遊び」の民俗を紹介しつつ、「死者の書」の核心部を描いていく。

 

藤原南家のいらつが、彼岸中日の夕、二上山の日没に、仏の幻を見たのは、渡来した新知識に酔ったその精神なのだが、さまよい出たのは、昔乍らの日まつ祀りの女の身体であった。女心の裡に男心の伝説が生きていないわけがない。「当麻たぎま」の化尼けにめいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる。招いているのは二上山にいる大津皇子の霊である。或は、天若日子あめわかひこの霊かも知れぬ。恵心僧都は、当麻の地はずれで生まれ、学成って、比叡横川よかわの大智識となった。「往生要集」の名は唐まで聞えた。彼が新知識の山頂で、阿弥陀の来迎を感得した時、それは、彼の幼い日に毎日眺めた二上山の落日に溶け込んだのである。折口氏は、そういう素直な感動をそのまま動機として取上げ、大胆に「山越し阿弥陀」を描いた処に、彼の巨大性があったとする。自ら釈迢空しやくちようくうと名告るこの優れた詩人は言う、「今日も尚、高田の町から西に向って、当麻たいまの村へ行くとすれば、日没の頃を選ぶがよい。日は両峰の間ににわかに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るであろう」。

 

これは簡潔にして要を得た絶妙な批評であり、難解で知られる小説作品の主題を浮き彫りにしたに留まらず、その表現の奥に蠢く折口信夫の古代への想像力の鮮烈なイメージを素描した文章とも言えよう。もちろん折口の作品、論考を徹底的に読み込まなければ書き込めないものであるが、そのあたりの状況は、先に記した2回の対談を通して想像することは容易である。

「死者の書」は恵美押勝の権勢が漸く著しくなる世にあって、大伴の氏上として生きる家持の複雑な心理が事細かく描かれている。やがて来る藤原氏中心の律令国家の新制度に抗して、「大伴氏のふるい習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外にない」という覚悟を秘めつつ、眼前のそこここに現れた新時代の新制度や生活様式に疑念を禁じ得ないという家持の視点を横に配置して、「中将姫」伝説、藤原南家の郎女の失踪事件を物語るという構成である。

 

の人の眠りは、しずかに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した、した、した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。

 

という冒頭部で、作中の滋賀津彦(大津皇子)が、刑死後に葬られた二上山の頂の塚の中で覚醒していく様子と、徐々に古い記憶が蘇り、愛した女性、耳面刀自みみものとじ(不比等の娘)への恋情が執心となって顕れて来る様子、そして、藤原南家の郎女が邸から失踪し、二上山の麓の万法蔵院(当麻寺)へ潜んでいる姿、「南家の郎女の神隠し」が物語られていく。そして女人結界の禁を犯して侵入した郎女が幽閉された部屋に、ひっそりと佇んでいたのが「当麻たぎまの語部のうば」であった。

 

郎女さま

緘黙しじまを破って、却てもの寂しい、乾声からごえが響いた。

郎女は御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生まれなさらぬ前 の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。

一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気がしたわけ訣を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじようなおむな媼が、出入りして居た。郎女たちの居の女部屋にも、何時もずかずか這入って来て、憚りなく古物語りを語った。あの中臣の志斐媼しいのおむな―。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤もであった。志斐老女が、藤氏の語部の一人であるように、此も亦、この当麻の村の旧族、当麻たぎまの真人まひとの「氏の語部」、亡び残りの一人であったのである。

 

「偶像崇拝」において小林秀雄が次のように要約していたのは、この姥の語りのことである。

 

当麻たぎまの」の化尼けにめいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる。招いているのは二上山にいる大津皇子の霊である。或は、天若日子あめわかひこの霊かも知れぬ。

 

藤原の家のかつてのあり方、中臣と二つに分かれた所以、そして「代々の日の御子さま」に仕えてきた「中臣の家の神業」について、「遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ」と「当麻真人の、氏の物語り」を語り続けていく当麻の語部の姥の表情は次第に、藤原南家の志斐の姥が「本式に物語りをする時の表情」に近づいていく。それを郎女が見ていると「今、当麻の語部の姥は、かみがかりに入るらしく、わなわな震いはじめて居るのである」という特殊な心身の状態、一人の語部の人格が綻び、語りの言葉そのものが自らを紡ぎ出していく境位へ入っていく姿が描かれる。すなわち、自らの意思を喪失した語部の口から出て来る言葉はリズムを帯びた歌謡となって表現されていくが、その表現主体はもはや姥という存在ではなく、代々受けついできた神業としての語りという行為そのものであり、二上山の塚に眠る滋賀津彦の霊が耳面刀自としての「藤原処女」を求めているその声となって顕れるのである。歌い終えてぐったりした姥は、さらに滋賀津彦の霊が目覚め、藤原の血筋の郎女をこの二上山の麓へ招き寄せたと物語っていくのである。

語部の語る古物語を疑うことなど教えられずに育てられた郎女は、「詞の端々までも、真実を感じて聴いて居る」が、世はもはや氏の語部の神の業など顧みない時代になっていた。

 

4 古物語の終焉

 

折口信夫が「死者の書」において描いたものは、古代における<近代>の始まりであって、漢才からざえと言われた学識の源であり、次々に渡来して新奇を競う中国由来の文物が知識人の学問を席巻した時代である。

大伴家持は自らの古い家筋の伝えをまだまだ守っていこうとする人物だが、やはり漢土もろこしの才に抗えない魅力を感じることを恵美押勝へ素直に告げる。愛読した宋玉そうぎよく王褒おうほうの詩を離れて「近頃は、方を換えて、張文成を拾い読みすることにしました」と言うと、押勝も肯いつつ、こう答える印象的な場面がある。

 

(押勝)おれなどは、張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気の尽きてしもうた心持ちがする。―じゃが全く、文成はええのう。あの仁に会うて来た者の話では、猪肥いのこごえのした、唯の漢土もろこしびとじゃったげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思うが、お身なら、諾うてくれるだろうの。

(家持)文成に限ることではおざらぬが、あちらの物は、読んで居て、知らぬ事ばかり教えられるようで、時々ふっと思い返すと、こんな思わざった考えを、いつの間にか、持っている―そんな空恐ろしい気さえすることが、ありますて。お身さまにも、そんな経験おぼえは、おありでがな。

(押勝)大ありおおあり。毎日毎日、其よ。しまいに、どうなるのじゃ。こんなに智慧づいては、と思われてならぬことが―。

 

張文成とは万葉歌人たちに愛読された『遊仙窟ゆうせんくつ』の作者であり、中国の恋愛伝奇小説として文字通り一世を風靡した物語であった。男性主人公が仙界へ闖入し、そこで出会った二人の仙女に歓待されて恋愛三昧に耽っていくという世界は、押勝、家持等の理想世界でもあったというわけである。しかし、それよりも、中国渡来の文物に憧れ、これにすっかり馴染んできた者が、ふと気づく我が身の変貌に、古来の大伴氏、その氏上家の矜恃を胸底に潜めていた家持の、進取と保守に切り裂かれた精神が垣間見られることが重要である。これを宣長風に言うなら、自然と、知らず知らずのうちに身についてしまったからごころの強さに気づき愕然とする、というところであろうか。その後、二人の会話は藤原南家の郎女が失踪した事件に触れていくが、郎女の早熟さ、漢才の博識を指摘しつつも、藤原の氏姫、いつきひめとしての神の業に就く資質が、生まれついてからあったことを押勝はそれとなくほのめかす。郎女の今後を案じる家持に対して「気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は―もう、人間の手へは戻らぬかも知れんぞ」と独り言を続けるのみになる。しかし、その頃、当麻寺に籠もっている郎女の寝所には、夜な夜な密かに近付いてくる足音が聞こえるようになっている。そして、夢とうつつの境に浮かんで見えたのは「黄金の髪」の中から「匂い出た荘厳な顔」、「閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る」。これが、郎女の幻像として顕れた阿弥陀来迎の図柄となるが、その裏側には、二上山の塚の玄室で覚醒した滋賀津彦の霊が耳面刀自を求めて彷徨い出てきたという、昔ながらの光景が広がっている。ここでも、斎姫の資質を有する郎女の感応力が鋭敏に応じたという古代さながらの生き方と、それへ上書きされていった漢才、つまり<近代>の二重写しが描写されていくのである。

失踪した郎女が当麻寺に止め置かれていることを知った藤原南家は、姫の奪還と守護のために寺内で近侍することになるが、既に新制度下に暮らし始めた仕え人たちにあっては「郎女の魂があくがれ出」てしまったとしか思いつかない。それでもさすがに事の異常さを感じて、「魂ごいの為に、山尋ねの呪術をしてみたらどうだろう」と昔ながらの対処法を唱える者も出て来るが、即座に否定される。

 

乳母は一口に言い消した。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂った蠱物まじもの使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事を惹き起こしたのだ。……あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もう、軽はずみな呪術は思いとまるとしよう。

 

もはや新社会に拡がった<近代>の思考にあっては、氏の家の昔語り、神代からの言い伝えを、氏上の祭の際に物語って聴かせるという特権的な地位を与えられ、祖先の栄光を再現前させるような力を持った語部の働きは、「蠱物使い」、「蠱物姥の古語り」などと蔑まれ、かつての権威は地に落ちているのであった。

「死者の書」の最後は、うち捨てられた古代そのものが、国の中心から、そして氏の上の家からも追いやられてしまう有様、当麻語部の姥の流浪を予見させるように終わっていく。

 

もう、世の人の心は賢しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑い咄のように言われるような世の中になって居た。当麻語部の媼なども、都の上﨟じようろうの、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、たちまち違った氏の語部なるが故に、追い退けられたのであった。

そう言う聴きてを見あてた刹那に、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又廬堂に近い木立の陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向かってする、ひとり語りは続けられていた。……秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥は、知る限りの物語りを、喋りつづけて死のう、と言う腹を決めた。そうして、郎女の耳に近い処をともとめて、さまよい歩くようになった。

 

当麻語部の姥のように、氏族の伝統と誇りを堅持してきた語部たちが、うち捨てられ、それぞれが語っていた神代からの物語に誰も耳を傾けなくなった時代を「死者の書」は悲哀をこめて描いていた。そして物語が神から離れてしまった時に、古物語は終焉を迎えたのである。

 

5 古物語の残照

 

折口信夫はここで日本文学史における芸能及び芸能民の成立過程を論じていることになるのだが、その歴史的展開については、本稿とは別の話になる。それよりも先述した小林秀雄が把握した古物語の機能について、もう一度振り返ってみよう。

 

当麻たぎま」の化尼けにめいた語部の姥の話は、生れぬ先きから知っていた事の様に思われる

 

郎女が当麻の語部の姥から聴かされる「天若日子」の物語は、聴き入っている郎女にとって、「生まれぬ先から知っていた事」としてその心身を領していくのであって、いわば氏族の淵源を語る神話の内部にもう一度生きること、先祖とともに生きることを強要されていくことなのだ。しかし、その前提として、「もの疑いせぬ清い心」、「詞の端々までも、真実を感じて聴いて居る」という聴き手としての資質が重要なことになる。

こうした昔物語の聴き手の有りかたは、もちろん、書かれた物語の読み手となっても同様に引き継がれていったはずで、それは『本居宣長』の第十三回を想い起こせば足りることである。『源氏物語』の「蛍」の巻の物語論について書かれたところを再読しよう。長雨の徒然に絵物語に読み耽る玉鬘の君と、物語論にかこつけて彼女を口説き落とそうと迫る光源氏との間に交わされる会話である。そこで、源氏は「空言」ばかりの物語に女は「あざむかれ」ているばかりだとからかうが、物語に夢中になっている玉鬘は「たゞ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」と反論する。

 

玉鬘の源氏に対する抗議だが、当然、玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈である。認めなければ、物語への入口が無くなるだろう。「まこと」か「そらごと」かと問う分別から物語に近附く道はあるまい。先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である。

 

すなわち、物語が開く道へ自ら歩んでいこうとする者は、耳に入ってくる語りに一心に聴い入るか、眼前の文章の流れに身を寄せて読み耽るかの差異はあっても、いつの世にも存在しているということであり、さらに言えば、人間の心身の生きている仕組みそのものと、一見したところ幾つもの対象としてあるような物語という言葉の総体が、実は二つのものではないということを暗示してはいないか。つまり、語り、聴き、書き、読むという基本的な言語行為は、いくつかの単語を言語記号としてやりとりしているのではなく、単語一つの発声と聴取の過程においても、言外の物語行為というフレームが起動し、コミュニケーションの全体を覆っているのであって、発話を理解するとは、この物語システムの中にいるからこそなのではなかろうか。

さて、話を戻して、「死者の書」における物語論の可能性を抽出してみよう。古物語の語り手の「神懸かり」にまで至る極度の集中力と、その聴き手の「魂があくがれ出」るまでの感応力、その相互作用の力が臨界に到達するとき、「生まれぬ先き」の時空において、神話の姿が幻像となって顕現する。そうしたことが郎女の精神構造を組み直し、二上山から降りて来る不可思議な力を素直に迎え入れた時、しかし、それまで育まれた「漢才」の言葉によってその力は、「なも阿弥陀ほとけ。あなとうと、阿弥陀ほとけ」(「死者の書」十七回)と自然に象られて現れたのである。昔物語の語りによって昔の人々の心理や行為の時空へと我が身は誘われていくが、そこで把握された「生まれぬ先」の経験は、今の、<近代>の言葉によって認識される他にない。したがって、「死者の書」、死んだ者たちの書物とは、先祖たちの古物語という口承文化に上書きされた<近代の小説>なのである。

しかし、次々に生み出される新しい物語たちも、それを構成する言葉は大きく変化していったとしても、連綿と続く日本語という言語構造に他ならないなら、その表現の深層に潜む言霊の方は生き続けているはずである。遙か昔に終焉を迎えた古物語の語り、神懸かった語部の身体を仲介者とすることによってのみ発動された物語の神の力は、物語に入り込もうとする集中力、物語が本来持っている読む者への誘惑を、遮り、妨げることさえしなければ、いつでも復活、覚醒する可能性を秘めているのではあるまいか。

当麻の語部の姥の昔語り、昔物語が郎女の未生以前の宿命を語ることによって、神々の時間と空間の拡がりの遙か彼方へと、聴く者の想像力を飛翔させるが、その時空とは物語行為のただ中にあって初めて顕現するのであって、その時と場所とはいつでも同じ一つの成り立ちにおいて留まっているのである。したがって、昔物語を語る行為はいつでも同じ言葉を反復しているのがその本来的なあり方であり、その意味では、物語行為の緩慢な動きそのものには直線的なベクトル、我々が通念として抱いている時系列上に出来事が並びつつ、始まりから終わりまでを区切るような直線上のある線分を表現したのもではなかったのだ。

もはや誰も聴く耳を持たなくなったその時代、「聞く人のない森の中」で「つぶつぶと物言う」語部の生き残りと同じように、当麻氏の語部の最後の生き残りの姥が我が身に伝承されてきた古物語のすべてを郎女の耳へ聴かせようと「ひとり語り」を続けていたという。その「つぶつぶ」と果てしなく続けられる語りの詞章は、同じ時、同じ場所を示しつつ、くるり、くるりと旋回しているはずなのである。

(つづく)

 

注(1)本誌2017年12月号の拙稿「小林秀雄 その古典との出会い」において、1939(昭14)年春から堀辰雄が鎌倉小町へ転居した際、堀から折口信夫の業績について話を聞いていたことを記したので、参照されたい。

 

なお、本稿で引用、言及した折口信夫「死者の書」は、角川ソフィア文庫版を使用している。これは注記も豊富で多様な折口の用語についても適切な解説が盛り込まれており、現在もっとも読みやすい版である。ただし、この文庫版の以前には、中公文庫の中に「死者の書」は収められていたが、これには「山越しの阿弥陀像の画因」も収録されているので合わせて読みたいところである。