盛夏のなかでの刊行を迎えた今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から開幕する。いつもの四人は、いつもの「本居宣長」に加えて、法隆寺の宮大工棟梁であった西岡常一さんらのお話が聞き書きされた「木のいのち木のこころ<天・地・人>」という本の話題で盛り上がっている。件の「元気のいい娘」によれば、読後感がそっくりなのだという…… なぜそうなるのか? 四人の対話も、旋回しながら、さらなる深みへと進んでいくようだ……
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「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さん、北村豊さん、松広一良さんが寄稿された。
小島さんは、小林秀雄先生が「本居宣長」の中で「人間にとって言葉とは何か?」という問いについて思索を深めていることに接して、幼い頃、看護師であったお母様と、ある患者さんのお宅を訪問した時のことを鮮明に思い出した。その記憶を抱きつつ、荻生徂徠や宣長の言語観を汲みつくす先生の思索に時間をかけて向き合ってきた。小島さんは、宣長が言っている「物」の感知という経験の深意を、「徴」としての言葉の本質を、いよいよ直知されたように思う。
北村さんの自問は、宣長が古学の上で扱った上古の人々の「宗教的経験」の具体的な内容についてである。北村さんは、国学者である宣長の旧邸に仏壇があったことに関する、大正天皇皇后の率直な疑問に対して、「熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思って……」と案内者が応答したエピソードを紹介している。人間は「知恵より経験の方が先」だという小林先生の言葉も踏まえて、その案内者の言葉を、よくよく噛み締めたい。
松広さんが注目したのは、宣長が長い遺言書に書いた「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」という小林先生の言葉である。その「思想」とは何か? なぜ「そうなるより他なりようがなかった」のか? 松広さんは、二つの着眼点からその深層を追究していく。その謎解きの行方やいかに……
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村上哲さんによれば、「本居宣長」を何度も読み返すなかで「存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉」がある。それは、「死」という言葉である。村上さんは、「『死』のあとに残されたものと如何に向き合うかということ」が、「本居宣長」で提示されている問いの一つだと言う。それでは、「あとに残されたもの」とは一体何なのか? 読者のお一人おひとりが、自らの実体験を思い出しながら、村上さんの話に耳を傾けてみていただければと思う。
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石川則夫さんに特別寄稿いただいている「『本居宣長』の<時間論>」も連載五回目を迎える。前回までは、柳田国男が示す歴史観に関し、「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することについて論じてこられた。今回からは、そのことが「『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか」について、いよいよ本編開始となる。文中で紹介されている小林先生の著作はもちろん、折口信夫氏の「死者の書」も座右に置いて、じっくりと向き合いたい。
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今号は、ご覧の通り「『本居宣長』自問自答」を中心に、全体として生と死にまつわる論考が多く、期せずして特集号となった観がある。小林先生にも、それこそ「生と死」という題名の論考があり、「死は前よりしも来らず。かねて後に迫れり。……沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」(生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである)という兼好法師の考えを紹介している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)。
生と死については、それ以外にも、「還暦」という論考の中で、こう述べている。
「私達の未来を目指して行動している尋常な生活には、進んで死の意味を問うというような事は先ず起らないのが普通だが、言わば、死の方から不思議な問いを掛けられているという、一種名付け難い内的経験は、誰も持っている事を、常識は否定しまい。この経験内容の具体性とは、この世に生きるのも暫くの間だ。或は暫くの間だが確実に生きている、という想いのニュアンスそのものに他なるまいが、これは死の恐怖が有る無いというような簡明な言い方をはみ出すものだろうし、どんな心理学的規定も超えるものだろう。日常生活の基本的な意識経験が、既に哲学的意味に溢れているわけで、言わば哲学的経験とは、私達にとって全く尋常なものだ、という事になる。ただ、このような考え方が、偏に実証を重んずる今日の知的雰囲気の中では、取り上げにくいというに過ぎない。人の一生というような含蓄ある言葉は古ぼけて了ったのである」。
私事ではあるが、大正の時代から一世紀を越えて生きた祖母が初春に亡くなり、先だって郷里で初盆供養を行ってきた。改めて祖母との思い出を、その一生を振り返り、本堂での読経を終えて外に出ると、クマゼミの蝉時雨に包まれた。その刹那、はっとした。音も時間も止まった。眼に飛び込んできたのは、抜け殻につかまって羽化せんとしている真白の若蝉だった。
(了)