小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

三十四 大和心という言葉

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「大和魂という言葉」と題して、「大和心」にも一口とばくちまでは言い及んだ前回、私は最後を次のように結んだ、

―今回は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、だが今回、これだけは言っておかなければならない。『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の一語意として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。……

これを承けて、今回、ただちに「大和心」の観照に入りたいのだが、その観照を順当に運ぶためにも、前回言った「『大和魂』を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって……」以下を、次のように補正してから始めたい。

―「大和魂」を「朝日ににおう山桜花」に譬えたのは、元はと言えば江戸から明治になってにわかに欧米列強と対抗させられた大日本帝国の国粋主義、軍国主義の国策であり、その譬えの基となったのは本居宣長の歌、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」であるが、この宣長の歌は幕末以後の「大和魂」とも国粋主義思想ともいっさい関わりはない、宣長が六十一歳の還暦にあたって描いた自画像に、「筆のついでに」と前置きし、賛として書かれていただけである。……

さて、そこで、だが、宣長六十一歳の年と言えば寛政二年(一七九〇)である。慶長八年(一六〇三)に幕を開けた江戸時代が初期から中期へと移る頃であり、太平の元禄は九〇年ちかく前に過ぎ去っていたが、ペリーの黒船が浦和に現れ、動乱の幕末と呼ばれるようになる嘉永六年(一八五三)はまだ六〇年以上先という頃である。

ここから推しても宣長の念頭に勇武の気概などは毫もなかったと知られるのだが、こういう宣長の歌心を知ってか知らでか、明治になって国号を大日本帝国とした日本国の国粋主義思想、軍国主義思想が、幕末以来、勇武の標語ともなっていた「大和魂」を「朝日ににほふ山桜花」に譬えたのである。譬えただけではない、日本男児の散華さんげ、すなわち戦場での死の称誉を謀って故意に取合せたとさえ言えるのである。『日本国語大辞典』に、「大和魂」は「日本民族固有の気概あるいは精神」を言い、「朝日ににおう山桜」のように「清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」とあるのは、大日本帝国が宣長の歌に無法にも盛り込んで引き出したイデオロギーである、俗にパッと咲いてパッと散る、桜はそこが美しいと言われるいさぎよさの通念に「大国学者」宣長の歌を着せ、あたかも宣長が身命を惜しむなと説いているかのように欺いて国民を使嗾しそうしたのである。

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では、宣長の本意は、どうであったか、歌意をひととおり摘めば次のようになる。「敷島の」は「やまと」にかかる枕詞で、大和心って、どんな心ですか、と人に訊かれたら私はこう答える、大和心、それは、朝日ににおう山桜花のような心です、と……。

しかし、これでは要領を得まい、大和心の何たるかは知られまい。小林氏も易しい歌ではないと言っている。

氏は昭和三六年から五三年までの十八年間に計五回、真夏の九州各地で毎年催されていた「全国学生青年合宿教室」に講師として招かれ、日本全国から馳せ参じていた三、四百名の若者たちに諄々と語りかけたが、その「学生青年合宿教室」が昭和四五年八月、長崎県の雲仙で催されたときは「僕はこの頃ずっと本居宣長のことを書いていますので、それに関する感想をお話しします」と話し始め、続いてこう言った。以下、引用は新潮文庫『学生との対話』による。

―諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむずかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。……

―まず第一、山桜を諸君、ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。……

―山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。……

―「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕 たび行く人も 行き触れば 匂ひぬべくも 咲ける萩かも」という歌が「万葉集」にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。……

―それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。……

―だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。……

そういう「朝日ににほふ山桜花」の様を、宣長自身はこう書いている、

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……(『玉勝間』巻六)

恐らく、宣長の時代の人たちは、山桜という桜がどんな花であるかをよく知っていた。「におう」という言葉の意味合も、というより気配や趣きも、宣長が『玉勝間』に書いているような気配や趣きであることをよく知っていた。だから宣長も、「大和心」を人に問われれば「朝日ににおう山桜のような心です」と答えると詠んでいるのだが、小林氏は、「大和心」についてはこう言っている。

―「大和心を人問はば」という「大和心」もむずかしい言葉です。あの頃は誰も使っていない大変新しい言葉だったのです。江戸の日常語ではなかったのです。なぜならば、「大和心」という言葉は平安期の言葉なのです。平安朝の文学を知らない人には、「大和心」などという言葉は分らない。「大和魂」という言葉もやはりそうで、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉なのです。なぜか誰も使わなくなってしまったのです。江戸までずっとあの言葉はありません。……

となるといま一度、「大和心」という言葉が初めて使われている平安朝の文学、赤染衛門の歌を見ておこう、「本居宣長」の第二十五章に、次のように言われていた。

―赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家ごうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

つまり、「大和心」とは、外から学んで得た技芸、智識に対して、それらの技芸、智識を十全に働かす心ばえとか人柄とかに重点が置かれていた言葉らしいのである。だが宣長はそうとは言わず、ただ「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」とだけ歌った。なぜか。宣長にしても小林氏のように、「大和心」とは技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか人柄とかに重点を置いた言葉だと、言おうと思えば言えただろう。だが宣長はそうはせず、「大和心を人問はば」と問題を提起し、「朝日ににほふ山桜花」と受けて事足れりとした。事足れりとしたというより、そうとでも言うほかなかったか、あるいはそう受けるのが、ということは、「大和心」は「山桜」で受けるのが最もふさわしいと思い決めたか、恐らく後者であろう。「大和心」もまた時と所に応じて「にほふ」ものだ、宣長は赤染衛門の歌と逸話からそう感じとり、その「にほひ」は「大和心」も「山桜」も他の言葉に換えては言い表せない、山桜の美しさは、「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……」(『玉勝間』巻六)と描きとるしかなかった、それと同断である。

大和心と山桜の歌を、そういうふうに読み取ってみると、「大和心を人問はば」は実体のない修辞句、あるいは強意句と思えてくる。「人に問われたら」を宣長は現実問題として言っているのではない、自問自答の問いとして言っている。「大和心」の何たるかは曰く言い難い、しかしこの言葉を赤染衛門の歌によって知り、その場で感じ入った宣長は、ただちに「朝日ににほふ山桜花」を思ったのではないだろうか。そしてそのうちますます「大和心」の微妙な働きに思いが及び、この心はとても一言では言えないとこの心に思いを馳せるたび自分がこの世でいちばん好きな「山桜の花」が脳裡に浮かぶ、そういう歌なのではないだろうか。だからこそ還暦を祝う自画像の賛としたのではないだろうか。

そこを小林氏は、「『匂う』はもともと『色が染まる』ということです。それから『照り輝く』という意味にもなるし、無論『香に匂う』という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも『匂う』と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも『匂う』という感じになるのです」と言い、これによって「大和心」という心は、照り輝く心であり、香りの高い心であり、艶々とした心であり、元気いっぱいの心である、これに接した人は必ずと言っていいほどこの心に染まる、感化を受ける、そういう心だと暗に言おうとしたのではないだろうか。

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こうして大和魂と大和心についても精しく説いた小林氏の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十一日に新潮社から出た。私はその本づくりを担当させてもらったのだが、普通の本なら9ポイント活字で組むところをそれより大きい10ポイント活字で組んだ。「本居宣長」は小林氏六十三歳の春から七十四歳の秋まで月刊雑誌『新潮』に連載されたが、十一年半に及んだ原稿の総量は四〇〇字詰め原稿用紙にして一五〇〇枚分はあり、これを9ポイント活字で組むと七五〇頁にはなる。これでは途轍もなく高い本になって売れ行きが心配になるから8ポイント活字で組んで総ページ数を少なくし、定価を押さえて少しでも読者が買いやすい本にしようとするのだが、小林氏の文章は緊密緻密で多くの読者は息が続かず、その結果、「難解」というレッテルを貼って遠ざけられるという憾みをかこちがちだった。そこを私は逆手にとったのだ、10ポイントの本は明らかに9ポイントの本より視野が明るい、書店で手にとった読者に「これなら読めそうだ」とまず思ってもらおうという戦法に出たのである。本づくりの経験はまだ七年という駆け出しではあったが、周囲を見回して私には勝算があった。

昭和四十年代の半ばから五十年代にかかろうとする頃、日本の出版界は年々右肩上がりの好況が続いてどんな本もよく売れたが、出版各社はこの人こそと大事にしている著者のこれぞと言える本を刊行すると、時をおかずにその本の特装本を造って少部数の限定版として出し、それらの特装本もよく売れていた。逆から言えば、一冊の本の特装版が出るということは、版元の出版社がその本の中身を高く評価し、自信と誇りをもって出版しているということのメッセージでもあった。私は、「本居宣長」は、普通の本より特装本を先に出すことで中身の価値と魅力を訴えようと思ったのだ。

そしてそこには、もうひとつの思惑があった。「本居宣長」は、近代日本の知の領域で小林氏が初めて到達した最高峰と言ってよかったが、同時にそれは、永年にわたって文章の職人として腕を磨き続けてきた小林氏の文章術の至芸であり極致だった。そうであるなら、その知、その術を盛る本は、近代日本の出版界において最古参の一角を占め、本を造る技術についてありとあらゆる工夫を重ねてきた新潮社のすべてを結集した本こそがふさわしい、そういう思いがあった。

たしかに、これではいっそう高い本になる。だが、一年後には、第三次「小林秀雄全集」の新装普及版を出すことが決っていて、そこには、「本居宣長」も入れることになっていた。読者に買ってもらいやすい本は、こうして一年後に第四次「小林秀雄全集」の一巻として出せる、そうであるなら「本居宣長」は初版をむしろ値段の高い特装版で出し、小林秀雄のコアの読者にまずしっかり買ってもらう、そういう方針でいきたい……、編集会議の席で私はそう言った。異論が出ないではなかったが、私の構想は認められた。製作担当のA先輩は、その端正な刷り上がりで高く評価されていた精興社を本文の印刷所と決め、本文用紙を漉く、表紙の布を織る、染める、外函を組み立てる、そういう手業てわざの名人たちを連携各社に頼んで確保し、見返し、扉、口絵と、本の隅々に至るまで彼らの足並みを綿密に調整してくれた。装幀担当のS女史は、書名の字体、表紙の布、見返しの絵と、宣長にふさわしい景色を次々提案してくれて、見返しの絵には日本画の奥村土牛氏に山桜を描いてもらえることになった。校閲担当のN先輩は、『本居宣長全集』と首っ引きで小林氏の本文を読み、氏に確認したり進言したりする必要があると思われるくだりを何ヵ所も指摘してくれた。

こうして単行本『本居宣長』は世に出た。当初、四〇〇字詰原稿用紙にして一五〇〇枚分ほどあった『新潮』の掲載稿は、小林氏の手で約五〇〇枚分が削られ、最終的には10ポイント活字一段組、菊判六〇九ページで函入り、定価四〇〇〇円の本になった。今なら一〇〇〇〇円にもそれ以上にも相当する定価の本だったが、発売と同時に増刷が相次ぎ、発売半年で五〇〇〇〇部、十か月足らずで一〇〇〇〇〇部という売れ行きとなった。新聞、雑誌に相次いで書評が出たが、編集部に寄せられる投書も夥しい数になっていた十一月の末、筆跡から推して年輩と思われる読者から封書が届き、そこには大要、こう書かれていた。

―私は、本居宣長が多くの若者を死なせたと、第二次世界大戦の終戦直後から宣長を憎みぬいていました。そこへ、永年愛読し、尊敬してきた小林秀雄先生が、『新潮』に「本居宣長」を連載され始めました。先生に裏切られた気がして、以後先生の本は手に取ることさえしなくなりました。「本居宣長」が本になったことは知っていましたが、買おうという気はまるでありませんでした。ところが先日、近くの本屋で『本居宣長』を見かけ、思わず識らず買っていました。そして、気がついたら最後まで読んでいました。大きな誤解でした、悪いのは宣長ではなく、宣長を戦争に利用した軍人たちでした。無知で頑迷だった私にこの本を読ませて下さり、目を覚まさせて下さったのは、この本を造られた人たちです。私が本屋でこの本を買ったのは、本の姿に魅せられたとしか言いようがありません、最後まで読み通したのは、活字の表情に引き込まれたとしか言いようがありません。編集部をはじめ印刷所、製本所ほか、この本を造って下さった皆さんに、どうかよろしくお伝え下さい……。そう書かれていた。

封書を送ってきた読者は、戦地へ行って辛くも還ってきた人なのであろう。小林氏が「本居宣長」を書き始めてからの十二年半、氏に対して固く閉ざしていた心を氏の「本居宣長」によってひらかれ、真の宣長と初めて出会うことができたのである。

本居宣長が、多くの若者を死なせたとは、こういうことだ。

先ほども記したように、宣長の歌、「敷島の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」は、還暦の年、宣長が自画像を描いてそこに添えたもので、「大和心」とは、日本人が日本人らしく日々を生きるについての知恵や気配りを言った平安時代の言葉であった。

ところが、第二次世界大戦中、この歌は「愛国百人一首」に採られたばかりか、日本の軍部は戦意高揚のために悪用した。「大和魂」と「大和心」を「勇猛にして潔い日本民族固有の精神」と説明し、その潔さはぱっと咲いてぱっと散る山桜にも譬えられると本居宣長先生は言っている、われら日本男児は御国のために、天皇陛下のために潔く散るのだと若い兵士に吹き込んだ。そしてあの「神風特攻隊」の部隊名も、「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名づけ、宣長は散華を、戦死を称揚する思想家とされた。

4

『本居宣長』を世に送って一か月が過ぎた十二月、私は小林氏の応接間で『本居宣長』の売行き状況を報告するとともに、宣長を誤解させられていた読者のことを伝えた。氏は、「そうか……」と、短く言われただけで黙された。

小林氏は、宣長が蒙った誤解と憎悪、糾弾という人的災禍については、「本居宣長」のなかでも周辺の著作でも言及していない。思うにこれは、氏の深慮遠謀であっただろう。戦後二十年、三十年が経っていたとはいえ、小林氏が宣長弁護に出れば、まず間違いなく宣長糾弾勢力が観念的反旗を翻してくる。これによって宣長が着せられた濡れ衣はいっそう重くなるばかりか、またしても宣長の学問が誤解される、それなら宣長弁護はおくびにも見せず、黙って宣長の学問を見てもらう、読んでもらう、これに如くはない、小林氏はそう思案して「本居宣長」に臨んだのではなかっただろうか。この小林氏の深慮遠謀こそは氏の「大和心」のなさしめたところであっただろう。『本居宣長』にこめられた小林氏の「大和心」は、朝日ににおう山桜のように読者の眼間まなかいでにおっていたであろう。

(四十三 了)