四人の歴史家

松宮 研二

歴史の授業が好きだった高校生のころから高校生に歴史の授業をしている現在まで、小林秀雄先生が「無常という事」の中で「多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収p.145)と書かれていることが、気にかかっていた。過去を「心を虚しくして思い出す事」が歴史であるとは、どういうことなのだろうか?

 

「本居宣長」第三十章では、歴史家に対してさらに手厳しい。「凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ」(同第27集p.348~349)

これと対置されているのが、本居宣長が「古事記」に向き合った姿勢である。宣長が、やまとたけるのみことの述懐に「所思看は、淤母富志売須那理祁理オモホシメスナリケリと訓べし」と注したことについて、小林先生は「訓は、倭建命の心中を思いはかるところから、定まって来る。『いといと悲哀カナしとも悲哀き』と思っていると、『なりけり』と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい」と書く(同p.348)。宣長は、古人の内部に入り込んで、古人が生きた経験を自分の心のうちに迎え入れ、これを生きてみることを実践し、それによって古人の「ふり」を体得した。これこそ「歴史家が自力でやらなければならない事だ」という(同p.350)。すなわち、宣長こそ歴史家である、と小林先生は言う。

 

大学などで歴史を学ぶ者にとって、E.H.カーの『歴史とは何か』は、文字どおり「歴史とは何か」を学ぶ上での必読書とされている。長く清水幾太郎訳(岩波新書、1962年)で読まれてきたが、このほど近藤和彦による新訳が出て面目を一新した(岩波書店刊、2022年)

新しい訳文で読み返しながら、ふと目についたのが、「歴史家は絶えまなく『なぜ』と問い続けています」という一節だった。宣長は「なぜ」とは言わないだろう、と思った。「ここは『なりけり』と読まねばならない」とまで倭建命と一体化した宣長が、「なぜこうしたのか、ほかにもっと良いやり方はなかったのか」などと問いかけることは考えられない。

「なぜ」への答は、後付けの解釈だから、必ず「さかしら」に陥る。いにしえから遺ったままの姿に心惹かれるという素直な態度が取れず、すべてに合理的と思えるような答を出さないと気がすまない、という姿勢が「さかしら」である。「なぜ」という問いと「さかしら」な解釈は、過去に対しても現在に対しても、それらを外側から裁断したり改造したりできるかのような態度をもたらすだろう。

 

「なぜ」と原因を問うのは、結果をコントロールしたいという意志があるからだ。カーは、「人が過去の社会を理解できるようにすること、人の現在の社会に対する制御力を増せるようにすること、これが歴史学の二重の働きです」(同p.86)、あるいは「私たちは合理的原因と偶発的原因を区別します。合理的原因の方は、他の国、他の時代、他の諸条件にも応用可能で、実のある一般化にいたり、教訓を学べるでしょう」と論じている(同p.178)

カーが『歴史とは何か』の中で、イタリアの歴史家クローチェの「すべての歴史は『現代史』である」という言葉を取り上げたことは有名だ。カーは、この言葉を「歴史の本質は過去を現在の目で見ること、現在の諸問題に照らして見ること」と説明している。

また、カーは「私たちがどこかから来たという確信は、私たちがどこかへ向かっていくという確信と切り離せません」ともいう。彼は、歴史を学ぶことは、過去と同じく現在をも理解し、よりよい未来へ導けるように、現在の社会に働きかけてゆくことだと確信していたのだ。

 

小林先生も、同じクローチェの言葉を引いている。昭和四十五年に、国民文化研究会の「全国学生青年合宿教室」に集まった学生たちへの講演で「『歴史はすべて現代史である』とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです」と語った(「講義 文学の雑感」、新潮文庫「学生との対話」p.28)

「本居宣長」においても「総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい」と繰り返される(同第27集p.351)。過去を知ることは、現在の自分の生き方を知る、そしていかに生きるべきかを考えることである。

歴史を学ぶことは自分の生き方を考えることだ。宣長はそのように生きた人であるからこそ、歴史家である。また、そうした宣長の生き方を、そのように学んだ小林先生も歴史家である。

 

クローチェ自身は、どのように考えていたのだろうか。彼の「思考としての歴史と行動としての歴史」(上村忠男訳、未来社刊、1988年。原著は1938年)には、次のような言葉がある。

「事実を収集しただけのものは実録、事記、回顧録、年代記などとは呼ばれるが、歴史とは呼ばれない。……単に事実を収集したものにとどまっているかぎり、……ついにわれわれの真理、言い換えれば、われわれによって、われわれの内なる経験にもとづいて産み出された真理となることはない」(同p.7~8)

「われわれは他の民族や他の時代の歴史をそれらが充足していたもろもろの欲求がわれわれのうちに生き生きと再現してこないかぎり理解はできない」(同書p.11)

「歴史学において通常史料と呼ばれているものにしても、……わたしのうちに存在する心の状態の記憶をわたしのうちに呼び覚まし確認させてくれるのでなければ、史料として働いていないのであり、史料ではないのである」(同p.14)

これらは、小林先生が「学生との対話」の中で「歴史家とは、過去を研究するのではない、過去をうまく蘇らせる人を歴史家というのです。……歴史家の精神の裡に、過ぎ去った歴史が生き返っていて、その生きたさまを書くから、僕らを捉えるのです。歴史家の目的は、歴史を自分の心の中に生き返らせることなのです」と語られていることと響き合う(「講義『文学の雑感』後の学生との対話」、同p.109)

 

クローチェは、「ナポリ王国史」(1923年)、「十九世紀ヨーロッパ史」(1932年)などの執筆と並行して、ムッソリーニの政権と対峙して、言論による抵抗を続けた。その生き方は、「十九世紀ヨーロッパ史」を自由とカトリシズムや絶対王政などとの闘いとして描いた彼の歴史叙述に呼応しているだろう。

 

カーが『歴史とは何か』を書いたのは第二次世界大戦の終結から十数年後のこと。カーをはじめとする歴史学者たちは、人類の進歩、社会の進歩を信じ、それに歴史学や自分たちが参画してゆく、人々は歴史を学ぶことで人類・社会を進歩させることができる、と考えていた。

現在、世界はまるで第二次世界大戦前に戻ったようにも見える。進歩への信頼・確信を持ちにくい今、歴史の学び方は、宣長や小林先生に立ちかえるべきではないか、と思う。

(了)