「本居宣長」は、何よりも小林秀雄先生の言語観が、本居宣長を語る中で端的に表れた作品だと私は考えている。その核となる考察が「意より詞を先きとする」である(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.47)。
この作品では、本居宣長の「源氏物語」と「古事記」の註釈を中心に、彼の研究の系譜となる人々、とりわけ契沖や荻生徂徠、賀茂真淵などを詳しく取り上げ、戦後における宣長への誤解(宣長を国粋主義者として戦前の軍国主義に結びつけた解釈などはその最たるもの)を解き、彼の生きた思想をできるだけその輪郭を保ったまま取り出そうとする試みがなされている。中でも「言語」に対する宣長の見通しに小林先生の主観が強く鋭く共鳴し、宣長の思考の内部に深く潜った箇所が、第二十三章、第三十五~三十六章、第三十九章である。
第二十三章は「うひ山ぶみ」での宣長の歌についての考え方に触れ、第三十五~三十六章、第三十九章は「古事記伝」での宣長の事績をめぐって考察が行われている。第三十五章の冒頭、小林先生は、宣長が 古代の言語観を「神も、殊に言詞のうるはしきを感給ふ」に求めたことに触れられている(同第28集p.47)。また、第三十五~三十六章にかけて「人に聞する所、もっとも歌の本義」(同第28集p.50他)という宣長の主張を紹介している。これらはいずれも、宣長の「意より詞を先きとする」という考えからきている。小林先生は、宣長が「言葉」そして「歌といふもの」のおこる所、文字通り起源まで遡ったことによってこの考えは生まれた、と言う。どういう意味だろうか。
実は、第二十三章には、これについて、かなり詳しい記述がある。少し長くなるが、下記に引用する。
――彼に言わせれば、既に教養として確立して了った「歌の道」の枠内で歌を論ずるのは、「末をたづねる」事に過ぎない。その論調は「高上ニシテ、スナホニキコヘ、大方ノ人ハ至極ノ道理也トオモヒ、信仰スレドモ、ヨクヨク案ズレバ、サヤウノ事ニアラズ」と言う。何故、「只心ノ欲スルトヲリニヨム、コレ歌ノ本然ナリ」という単純明白な考えに立ち還ってみようとしないのか。其処から考え直そうという気さえあれば、「歌の道」の問題は、「言辞の道」というその源流に触れざるを得まい。そうすれば、歌とは何かという問題を解くに当り、「うたふ」という言葉が、どういう意味合で用いられる言葉として生れたかを探るところに、一番確かな拠りどころがあると悟るだろう。言語表現というものを逆上って行けば、「歌」と「たゞの詞」との対立はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語を摑むことが出来るだろう。この心の経験の発見が、即ち「うたふ」という言葉の発明なら、歌とは言語の粋ではないか、というのが宣長の考えなのである。
激情の発する叫びも呻きも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が「ほころび出」ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生れ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。(同第27集p.260~261)
なお、もう一か所、第三十九章においても言葉の源流について触れられた箇所があるので、これも引用しておく。
――その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実は、その事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「直に神其ノ物を指シて」と産巣日神(むすびのかみ)と呼べば、其ノ物に宿っている「生す」という活きは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)と名付ければ、その「誘ふ」という徳が、又、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「言意並ニ朴」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だったろう。
迦微をどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上った詞の外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が、浮びようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい、生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声の上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同第28集p.84~85)
この二か所の引用した文章を要約すると、次の通りだ。
元々言葉は文字ではなく、「音声」から始まった。言語の歴史を遡ると、そのおこり、源流においては、「歌」と「たゞの詞」との対立、「体言」と「用言」の区別はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語が生まれていた。「いはではやみがたき」思いから生れ出た「長息」や「叫び」、表情や身振りなどの身体的表現も加味した延長線上にある「音声」の「かたち」、それが聞く人に感動を与え、動かすという言語共同体としての経験・伝統の積み重ねの上に「歌」も「たゞの詞」もある。もしかするとここでは「歌」が「たゞの詞」より先に生まれたかもしれない。
第三十五章は、「古事記」を取り上げる中で、上記の考察が「日本書紀」神代紀の「天ノ石屋戸ノ段」や同時代以前の宣命・祝詞によって裏付けられているということを中心に記述された、謂わば第二十三章の変奏章である。上記の考察故に、「歌は、凡そ言語の働きというものの本然を現す」と言え、それが「人に聞する所、もつとも歌の本義」が中心テーマとなる第三十六章の考察につながっていく。
宣長は、「古事記」の特に神代篇において、古の人が遍く享受していた「言霊」の力を感じ取っていた。それは、言葉の源流に近い古の言語の「かたち(ふり・あや)」に本来内在する純粋な表現力や美しさ、付随する道具としての力である。「天ノ石屋戸ノ段」や宣命・祝詞にはその古代の言語観の痕跡が見られる。各自の心身を吹き荒れる実情の嵐が叫びとなって収束する。そのうち、模倣も利き、繰返しも出来る、純粋な表現力や美しさを伴う悲しみのモデルとでも言っていいものに出会うということが、各自の内部に起る。叫びが、「歌」と「たゞの詞」の区別が判然としない、だが人の心を動かす「カタチ」に変わる。まさに「言霊のさきはふ」世界が、そこにはあった。
詠歌という行為の特色は、どう詠むか、つまり歌の「カタチ」によって決まる。そこに「歌の本義」がある。宣長も小林先生も、歌の本義は「技芸を極める」ところにあるのではなく、「歌といふ物のおこる所」即ち言語というものの出で来るところにあるとみていた。この見立てから、歌は言語の粋、言辞の道であると言えたのだ。このような考えが「意(何を歌うか)より詞(カタチ、どう詠むか)を先きとする」という考察に収斂されている。
小林先生は、宣長と同じように言語とその歴史に対して無私な交渉を行った。自らを投じて言語の源流に遡り、模擬体験したのだ。小林先生はこの体験を通じて、言語のおこりのプロセスそのものが「意より詞が先にあった」、もっと言えば意識より言辞が先にあった、ということを証明している、という考えに至ったのである。
(了)