「小林秀雄に学ぶ塾」(通称、山の上の家の塾)では、年度最後の月例会となる三月に、「フリートーク・スペシャル」と銘打って、塾生が一年間の学びを振り返り、その学びをさらに深め合う場を設けています。ここに、その要旨集を転載します。読者の皆さんにもその場の熱気を感じ取っていただければ幸いです。(編集部)
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松宮 真紀子
今回初めて勉強会に参加させていただき、「本居宣長」を読み通すことが出来たことは大変有難い経験でした。それもただ読むだけでなく、小林秀雄先生の作品を書写する如くデータ化して、章ごとに自分なりに要約する作業を完遂したことで得た収穫は大きいものでした。
「意より詞を先きとする」ということの意味を、音声ではなく文字を通してではありましたが、この作業の中でも実感できることが多くありました。
また、講義を通して、小林先生の言葉はたとえ語彙が平易であっても、読み解くのがなぜこれほど難解なのか、あらためてわかった気がします。先生の言葉は、すべて「本を辿る」必要がありました。語彙の一つ一つ、文章のそれぞれに、先生の深い考察の背景・主観的思索の歴史が込められている。自ら蓄積した経験や知識を総動員し、その上で先生が宣長に対してしたような、先生の考え方の系譜や作品群に体当たりしなければ見えてこないものもあるのだと思います。
(了)
冨部 久
私は山の上の家の塾以外でも、池田雅延塾頭による『本居宣長』の講義、小林秀雄先生の様々な作品を味わう「小林秀雄と人生を読む夕べ」、そして「萬葉集」の講義にも参加させて頂いております。小林先生の作品に関する講義の素晴らしさは言わずもがなですが、今まで読んで来なかった「萬葉集」の講義は、毎回、まっさらな頭の中に今まで知り得なかった萬葉秀歌の深い味わいを教わることができ、大変刺激になっています。千二百年を超えても、人の心も言葉の魔術も少しも変わっていないということに驚かされています。
令和五年度も引き続き池田塾頭の講義で様々なこと学びながら、小林先生の思想と人間像に少しでも迫って行ければと思っています。
(了)
松宮 研二
学生時代から遙かに仰ぎ見てきた『本居宣長』に一年間取り組み、曲がりなりながらも通読できたことに感慨を覚えます。昨年度まで大阪塾で小林秀雄先生の文章を何編か読んできましたが、『本居宣長』に接すると「小林山脈」は、いよいよ高く、いよいよ深い。
自問自答の発表をさせていただく中で、ようやく小林先生の歴史観が胸に落ちた気がします。字数以外に制約がある中で文章を書くのは久しぶりでしたが、池田雅延塾頭に御閲読いただく中で、文意が収束していくことがわかりました。また、当日、池田塾頭から御指摘いただいたクローチェの歴史観について、『好*信*楽』の原稿を準備する中で学ぶことができたのも、大きな収穫でした。
小林先生の文章に向き合うことは、「いかに生きるべきか」という問いに自分自身が向き合うこと。これも今年度の塾に参加する中で、よくわかりました。これからも、そのように歩んでいきたいと思います。
(了)
森本 ゆかり
私の心の中にある弱さに、どのような姿勢で向き合うかということを考えた一年でした。
池田雅延塾頭に「小林秀雄さんは怒りの感情についてどのように対処されていたのでしょうか」と質問した際「小林秀雄さんは率直な人であった」というお話を伺いました。
では、率直な生き方とはなんだろうと考えるうちに、「率直」と「信じる」ということは「責任を伴う」という共通点があるように感じました。率直な生き方とは、日常生活の中で、見る、聞く、読む、信じるという訓練の積み重ねによって、自分の心の動きと向き合い、心の姿を整えることで身に付いていくのでしょうか。
(了)
磯田 祐一
最近の大きな気づきは、自問自答を「書く」という経験から得たものです。物を書くとは、第二十四章で述べられた、「見るにもあかず、聞にもあまる」という現実の経験が、言葉によって、意識され明らかになり、自らの心の[大かた人の情(ココロ)のあるやう]が見えるということです。言葉によって自分の心を写し取ることが、物を書く行為であると学びました。白紙の原稿用紙に向かい、何処から言葉がやって来るかわからない、不思議があります。一つのわずかな言葉の振動が、波のように繰り返す言葉の列になるか、音楽のように聞こえるか、誰もが言霊の働きによって詩人になれる。言葉が動かず息を潜めることもあるだろう。
自分で、自分を知るのではなく、物との交わりを通して結果として自分を知る、とは、言葉の経験なのであり、「事の世界は、言の世界」と本居宣長は言った。
「書く」という表現が、私の日常に文学の中に、学問のある生活をもたらすことになりました。
(了)
入田 丈司
「読むことで作者の声を聴く」ことが少し分かりかけた実感があります。『本居宣長』にも「作者(式部)の声に応じ」宣長が歌を詠んだ一節があります。そのような読み方ができるのは何か極意でもあるのか、今まで解りませんでした。この一年間で結局はシンプルなこと、先入観を持たず作者が記した言葉を、真っ直ぐに繰り返し何度も読むことだと実感しました。以前は、読み始めると自分の感想や考えを混ぜながら読んでいたのだと思います。あたかも、人の話を聞く時に相手の話を遮り、自分の意見を相手にぶつけるかのように。言葉を真っ直ぐ読むと、作者が込めたものが次第次第に解ってくる。そうして、作者の想いが解ってきた後に、それでも自分はこう思った、という作者と読者である私の違いも自覚できます。こうして、私が作者と対話ができるようになってきたことが学びです。そして次の一年間、宮沢賢治全集を読み通そうという課題を設けました。
(了)
越尾 淳
この冬、四十代から七十代までの約十名の方々に小林秀雄先生について、僭越にも私から話をする機会がありました。今までの塾での学びを総動員して話をしましたが、池田雅延塾頭の準備がいかに大変なものであるか、その一端を知った思いがしました。
私からは、「直感に頼るな」「歴史は繰り返す」など現代の「常識」に小林先生がどう述べているか、自問自答の大切さなどについて話しました。出席者からは、そうした常識やすぐに答を求める風潮への危惧や、対象と親身に交わって考えることの大切さがよく分かったとの声がありました。
そして、多くの人が小林先生の声を初めて聞いたのですが、「あの難解と言われる小林秀雄がこんなに分かりやすく、親身に語りかけているのか」と強い感銘を受けていました。小林先生は録音を好まれなかったと聞きますが、先生に会うことのできない現代、そして未来の日本人にとって、先生の息遣いの伝わる録音が残されたことはまさに宝だと改めて感じました。
(了)
鈴木 順子
最近、よく足が攣る。身体を冷やしてしまう。つい、良い状態に保つことを怠ってしまう。このようなことは、精神についても同じである。幸い、私は、月に一回、「小林秀雄に学ぶ塾」があり、精神について考えることができる。
今年度を振り返って、小さな進歩があった。自問自答で、身の丈に合わせて問いを作ることが出来るようになった。身の丈の問いには、身の丈の答えが返ってくる。ここでいう身の丈とは、今ある力で、素直に言葉と向き合うことである。また、自問自答へ向かう態度が、こう在らねばならないから、こう在りたいに変わってきた。ここに来て、言葉に自由さが出て、精神に良く影響しているように思う。塾の、読む書く修練のお陰である。
入塾して四年、学びに心が躍る。来年度は、特に、書くことで身体と精神を鍛えたい。
(了)
片岡 久
昨年三月の山の上の家の塾のフリートークの場で、折口信夫さんの別れ際の言葉、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」の言葉がずっと気になっておりますと申し上げたところ、池田雅延塾頭から「ぜひそれをテーマに自問自答してください」との言葉をいただきました。四月の塾で質問をさせていただき、「好*信*楽 秋号」に掲載をしていただきました。池田塾頭のご指摘とともに、掲載に至るブロセスでの、坂口慶樹さんの幾度にもわたる丁寧なご指導をいただき、校正のたびにフォーカスの甘さや、思い込みが過ぎる点に気づかせていただくことができました。徹底的な校正作業という素晴らしい経験をさせていただき、感謝いたします。
(了)
生亀 充子
小林秀雄先生の「本居宣長」は、「ヨットのユニバーサル・エンジンのようなものだ」という池田塾頭の喩え話はぴったりで、毎回、心の軸に育てたい思想であると実感しております。目まぐるしく変貌する世界の様相や日常の過剰に便利になる環境変化に言いようのない不安を覚えるのですが、「本居宣長」の「人生いかに生きるべきか」の問いは、確かな判断を与えて下さるように思います。
皆さまのお力を借りながら「本居宣長」を読むことで、古人がいかにことばという道具を用いて「こころあまりて言葉足らず」の思いを表し遺してきたかを知り、古の人々と今の私たちの心の働きになんら変わりない姿を確認できることに、驚きと安堵感を抱いています。第二十七章にある「言霊のさきはう国」という表現にとても心惹かれました。大らかな感性の溢れる自国に生きることに感謝し、その恵みを味わいたいと思いました。そして、ことばの産み出す言霊の不思議を探究し経験したいと思っております。
(了)
本多 哲也
小林秀雄先生は、本居宣長という一人の人間を信じ、それについて書きたいと希った。これは古書を信じ、模傚した先人の学者たちの学脈に通じるのではないか。徂徠は「習ヒテ以テ之ニ熟スレバ、未ダ喩ラズト雖モ、其ノ心志身体既ニ潜ニ之ト化ス」と言い、宣長は「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」と言った。自らが信じる古書や古人を対象化せずに、その内側に這入る。信じる心が自らを反省し、それが自ずと註釈の形になり、また信を新たにする、という無心の反復を経て、書物や人物の微妙な姿と出会う楽しみ。小林先生が「本居宣長」を書く中で一貫した実践は、私たちの目に学脈の生きた姿として映らないだろうか。その姿はあるいは、名優が役の人物や劇そのものに迫った姿である。
昨年七月、池田雅延塾頭は、私の口頭質問の後で「本多君、君はどう考えたんだ、と小林先生に問われている」とおっしゃった。私は小林先生に、本多君、と呼びかけられたように感じた。池田塾頭の言葉もまた、小林秀雄という人間に肉薄した俳優だけが体現できる肉声だったのではないか。「本居宣長」を熟視し、自問自答という実践を続けることで、私自身が学脈を体現する、その機が熟するのを待ちたい。
(了)
荻野 徹
「小林秀雄全作品」第二十七集、第二十八集によって『本居宣長』を読み始めて十年近くになり、訳もわからず引きまくった傍線やら、半可通の書き込みやらで、紙面をずいぶん汚してしまった。これでは、知らず知らずに蓄積した先入観にとらわれ、理解が進まぬのではないか。そこで思い立って、単行本版の『本居宣長』、それもせっかくだから初版本を入手し、初めて読むような心持ちで、一気に読み通すことを試みた。
すると意外にも、すらすらと読み進めることはできたのだが、その分、難しさを痛感した。行論の自由自在さ、思考の高速回転のようなものについていけない。そこでふと思ったのは、(論理の飛躍はお許しいただきたいのだが)「訓詁」とは何か、ということである。
第十章なかほどに、徂徠らが素読に疲れ、「本文計を、見るともなく、讀ともなく、うつらうつらと見居候内に……」というエピソードがある。このような不思議な体験を経て、ある種の理解に至ることが、訓詁なのだろうか。
まだまだそういう境地には遠いなと、半ば意気消沈し、半ば希望を抱いている。
(了)
溝口 朋芽
今年度は第二十四章にある「明瞭な人間性の印」という一文に注目して、「好*信*楽」に文章を書かせていただきました。徴とは何か、というテーマでわたし自身ながらく「本居宣長」を読み進めるなかで、特に今年度は「書く」という行為が自身の言葉によって思考を展開することにつながる、ということを身をもって教わることができました。最近あらためて講演CDで小林秀雄先生のお話を聞きなおしていた際に、人間が言葉を生み出す時、それは身体全体から出た「物」である、という表現をされている箇所に気がつきました。徴としての言葉とは、身体全体から出た言葉のことであり、脳のような局所から出た言葉とは違う、思わず識らず長息のように出てくる類の言葉が、徴としての言葉である、ということなのではないかと、今さらながらに思い当たりました。そして、あらためて自身の文章を読んだ時、あらたな気づきがいたるところに生まれるという経験をしました。
(了)