一 はじめに
2022年秋号までに、「物語」と「歌」、そして「道」という言葉をめぐって右往左往して来たように思われる。これらの言葉は『本居宣長』にちりばめられた言葉として指摘出来るものであり、反復して使用されている語彙としてページのそこここに存在するわけだが、しかし、その語彙だけを抽出して意味するところを吟味しても、それぞれの働き、その語彙を表現している文脈の動きを明示化しうるわけでもない。前稿の最後に記したところを想い起こせば、「『事』の世界は、又『言』の世界でもあったのである」(第二十四回)ということ、すなわち、『本居宣長』という書物全体を「事」として捉える我々の認識は、その意味を求めようとする願いが赴くところ、「言」として現れる一行一行を丹念に読み進める果てしのない行為を繰り返さざるを得ない。そうして、小林秀雄の『本居宣長』という「事」を、この書籍において使われている言葉たちの集積から、我々の読書行為の中で形成しつつある「言」の「ふり」へと遡り、これらの言葉たち自体の振る舞いの動きへと眼を向けなければなるまい。そして、この言葉たちが見せる振る舞い、動き方こそが、実は「物語」という文学を編み上げる源流なのだということに思いを致すことが重要なのである。
なお、本稿中で、『古事記』、本居宣長の『古事記伝』、そして小林秀雄の『本居宣長』のそれぞれの本文を引用するが、時に交錯する場合もあるので、少々ややこしくなることをお断りしておきたい。なお、それぞれの引用文中の振り仮名で、原則としてカタカナ表記は原文通りのもの、平仮名表記のものは、小林秀雄『本居宣長』の原文にあるものと、稿者が新たに付したものとがあるが、前後に重複している際は適宜省略している。また、神名に使用されている漢字表記は、『古事記』原文、本居宣長『古事記伝』で異なる場合がある。
二 神名という「言」と「事」
それでは、「言」と「事」、そして「物語」としての<時間>が合流し、「意」を整えて行こうとする箇所を考えていこう。それは『本居宣長』第三十八回において、次のように合流する。太安万侶の「筆録の蔭に隠されていた」稗田阿礼の「口ぶり」を求めて、「本の古言に復す」こと、つまり、「古事記」本文の言葉の総体から「古言のふり」を再生し、復元しようという困難を『古事記伝』はどのように克服したのか。
彼(※稿者注・宣長)は、「源氏」を熟読する事によって、わが物とした教え、「すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず」という教えに準じて、「古事記」をわが物にした。「古事記」が、「雅の趣」を知る心によって訓読れたとは、其処に記された「神代の古事」に直結している「神々の事態」の「ふり」が取り戻されて、自足した魅力ある物語として、蘇生したという事だ。
(第三十八回)
すなわち、「古事記」の記述が「古言のふり」へ、「神代の古事」に戻されたなら、そこにこそ「神々の事態」が目の当たりに顕現するということだ。このことを『本居宣長』第三十八回から第三十九回に至って、小林秀雄の書きぶりは詳細かつ大胆、そして不思議なくらいに拘泥している様子を見せる。あるいはこういう言い方が適切かどうか分からないが、この回の記述は『古事記伝』の注釈、本居宣長の文勢を踏まえつつも、遥かにこれを超えようとしているのではないか、そうした想いを私は禁じ得ないのである。本稿ではこのことを出来るだけ詳細に考察していきたい。
「さて、神という『言』の『意』という問題に直ちに入ろう」と、第三十八回後半部から、本居宣長による「神」という言葉の吟味が焦点になっていくが、「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」と『古事記伝』の三之巻を引用しつつ、その「可畏き」という言葉の詳細な注釈が展開される「神世七代」の「阿夜訶志古泥神」について説明される箇所を取り上げ、「ここの注釈には看過出来ない含みがあるので、曖昧な文だが、努めて宣長の真意を求めて、少し詳しく言う事にする」として考察を深めていく。しかし、その前に、三十八回から三十九回にかけてもっとも重要なことは、神への命名行為について論じているところであり、ここに「言」はそのまま「事」であったという発想の結実を見ていることである。すなわち、命名という行為は「言」を得ることで「事」を知るという必然的な業であったことを明かしていく。
上古の人々は、神に直に触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己の直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神の意を引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。
(第三十九回)
神名という言葉を得るという極めて単純かつ具体的な経験も、その経験内部での<嘆き>から自ずと生成していく動きであって、「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物」との遭遇という<驚き>から起動していくものである、と言い添えてもいい。いわば、ここでも人間は、「もののあはれ」に捕らわれることなく、生きていくことなど出来ない相談だったということだ。これを踏まえて「阿夜訶志古泥神」の注釈に関わる「看過出来ない含み」があるという読みを追跡してみよう。
問題の神は、神世七代も終りに近付いて生りました神である。高天原に成りました神々は、本文に従えば「別天神」であり、そのお姿は、先ず純粋で簡明なものであったと見てよいのだが、それも天之常立神までで、その次になると、国之常立神と、御名の書きざまが変るのである。それから以下、にわかに天神の代が、地神の代になったという言い方は避けたいが、その辺りから、神々のお姿には、その御名から推して、宣長の言い方で言えば、――「必ず地と成るべき物に因て生坐スべきこととぞ思はるゝ」、或は、「天に坐ス神とは見えず、此ノ地に坐ス神とこそ見えたれ」、――と言わざるを得ないものが現れて来る。神代の様も、少々混雑して来るのである。
そこで、国之常立神の次の、――「豊雲野ノ神より訶志古泥ノ神まで九柱の御名は、国土の初と神の初との形状を、次第に配り当て負せ奉りしもの」――と宣長は見た。
(第三十九回)
その後、いわゆる神世七代と記された箇所の注釈に入っていくが、まずは『古事記』の原文を掲げる。原文の割り注部は神名の訓み方を指示する二行書きであるが本稿ではカッコの中に記しておく。
次成神名、國之常立神(訓常立亦如上)、次豐雲(上)野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
次成神名、宇比地邇(上)神、次、妹須比智邇(去)神(此二神名以音)、次、角杙神、次、妹活杙神(二柱)、次、意富斗能地神、次、妹大斗乃辨神(此二神名亦以音)、次、於母陀流神、次、妹阿夜(上)訶志古泥神(此二神名皆以音)、次、伊邪那岐神、次、妹伊邪那美神。(此二神名亦以音如上)。
これを、新日本古典文学全集(小学館版)の書き下し文で示すと以下のようになる。
次に、成りし神の名は、国之常立神、次に、豊雲野神、此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠しき。
次に、成りし神の名は、宇比地邇神、次に、妹須比智邇神、次に、角杙神、次に、妹活杙神、次に意富斗能地神、次に、妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神、次に、伊邪那岐神、次に、妹伊邪那美神。
では、『古事記伝』三之巻の神代一之巻に記された本居宣長による注釈はどうか、細部を具体的に確認してみよう。参照、引用する本文は三之巻の神代一之巻、板本の28丁から44丁までである。
「国之常立神」の前に現れた「天之御中主神」から「天之常立神」までは「別天神」と明記されているので、これらは天上の成立とともに出現した神々であって、「国之常立神」からが「地と成るべき物に因て成坐るなり」とし、その時の「地」とはまだ「浮き脂のごとくなる物」であって、クラゲのようにふわふわと漂っていたのであり、「是の漂へる国を修理ひ固め成」す、つまり国土を確かに整え固めるのは、伊邪那岐、伊邪那美の二神のしわざを俟たねばならない。したがって、地上の生まれる兆しとして神世七代の神々が成るというのが、この箇所の背景と説いている。そこで問題となるのは、「国之常立神」から次々に現れる神々の名の意味である。本居宣長『古事記伝』の注釈の要点をまとめていこう。
「国之常立神」については「天之常立神」に準じた名であるとしているので確認すると、「常立」は「底」、「曾伎」であり「至り極まる処」という。つまり地の兆しが極まるところに成った神である。次の「豊雲野神」の「豊」は「物の多にして足ひ饒なる意」、「雲」は「久毛」で「物集り凝りて」の意と「初芽す」を兼ね、「野」は「沼」で「水の渟れる処」という。そして次の「宇比地邇神」、妹の「須比智邇」はその表記からも推測出来るように「宇」は「宇伎」と同じで「泥」であり、「須」は「土の水と別れたるを云う」、すなわち、スヒジも土砂と水、「邇」も「野」に通じ「沼」を意味しているとすれば、つまり海や天と分かたれた国土がまだ明確には現れない状態をイメージしていることになる。そして次の「角杙神」と妹「生杙神」は、「角」は「都怒」であり、「物のわづかに生初」て「未生ざる形」を言う。「杙」は「久比」で先の「久毛」と同じとみれば、「神の御形の生初たまへる由なり」であり「生杙」は「生活動き初る由の御名なり」ということになる。また次の「意富斗能地神」、妹「大斗乃辨神」の「意富」、「大」は称える語として、「斗」は「処」、「地」と「弁」は男女に付す尊称と解すと、「此二神の御名は、彼地と成るべき物の凝成て、国処の成れる由にて、其れに女男の尊称を付けたるなり」。そして、「於母陀流神」と妹「阿夜訶志古泥神」に至るが、この二神の名についての本居宣長の吟味については、『本居宣長』第三十九回に記してある通りである。
こうして改めて神世七代の神名についての『古事記伝』三之巻の注釈を見てくると、天地が別れ、水と土とが混じり合いつつも濃淡を帯びて来て、やがて海と州とに別れようとする前兆が現れる状態を、神々の出現の動きと共に言い表している文脈が浮かび上がって来ると言える。
そこで、私が問題にしたいのは、この先、「阿夜訶志古泥神」の後に続き、「伊邪那岐神」までを解く、その間の『古事記伝』の注釈記述である。どうやらこの箇所の宣長の注釈について、小林秀雄『本居宣長』第三十九回は「看過出来ない含みがある」と、極めて重要視しているからで、ここを精読するために、上記のように『古事記伝』中の神世七代の神名の吟味を引用紹介して来たのであった。具体的には、『小林秀雄全作品』の28巻、p88の3行目から4行目の間を埋める作業を試みたわけである。
三 神名の流れ
では、まず、「看過出来ない含み」があるという『古事記伝』三之巻から、神代一之巻の45丁の宣長の記述をよく見てみよう。
豊雲野神より訶志古泥神まで九柱の御名は國土の初と神の初との形狀を、次々に配り當て負せ奉りしものなり、其は豊雲野、宇比地邇須比智邇、意富斗能地大斗乃辨と申すは、國土の始のさま、角杙活杙、淤母陀琉阿夜訶志古泥と申すは、神の始まりのさまなり、【但し國土も神も、其神の生坐し時の形狀の、各其ノ御名の如くなりしには非ず、必しも其時の形狀にはかゝわらず、たゞ大凡を以て、次第に御名を配當たるのみなり、されば此の御名々々を以て、各其時の形狀と當ては見べからず、此レをよく辨へずば、疑ヒありなむものぞ、實は神は、初メ天之御中主よりして、何れの神もみな、既に御形は満足坐せり、面足ノ神に至り初て足ひ坐りとには非ず、又國土は、伊邪那岐伊邪那美ノ神の時すら、未だ浮脂の如く漂蕩へるのみなりしを以て暁るべし】、然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべきに、然は非ずて、國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差ひたるは如何にと云に、未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る【天之常立神以前五柱は、天神にて別なる故に、此に云ハず、此は國土の初メに就て云故に、國常立神より云々とは云り】故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙と名け奉り、さて御面の足はせるを見て可畏むは、既に國處も成り、人物も生てのうへの事なる故に、大斗乃辨神の次なる神を、淤母陀琉阿夜訶志古泥と名け奉りしにぞあらむ、【書紀には、沙土煮の次大戸之道とつゞき、又一書には、活樴の次面足と續けり、】
さて、以上が『古事記伝』の注釈記述の全文になるが、小林秀雄の『本居宣長』第三十九回の該当箇所では、まず先述した国土生成の兆しとしてのイメージを押さえながら次のように記す。
そのうちに、動揺もようやく治まり、確かに国土を生成さむとする伊邪那岐、伊邪那美神の出現を待つばかりの世の有様となった時に、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神と申す女男双坐す二柱の神が現れる。あたかも、その御名に注意されたい、とでも言う風に、宣長は、その註釈を書き進めているのである。
この先で特に「次のような考えが語られる」と言及するところが問題になる。それは『古事記伝』の引用文の最初の【……】部後半で、「實は神は、初メ天之御中主よりして、何れの神もみな、既に御形は満足坐せり、面足ノ神に至り初て足ひ坐りとには非ず」というところ、つまり神々が次々に現れる状態を、時系列的に、次第にその姿が整って来た過程において、それぞれの御名を命名しているという『古事記』の「神世七代」の成立に関するごく普通の解釈、それを『古事記伝』は拒んでいるというところ、普通に読み流していては気づくこともない些細なところに、宣長の注釈は、ことさらに、「面足ノ神」が現れて初めて「御形は満足」したわけではないと、即座には分かり難い補足を加えているのである。そこに強く注意を促しているのが『本居宣長』第三十九回のこの引用に続く文である。つまり、「――更に言えば、(宣長自身は言及していないのだが)、――」とわざわざカッコを付けて断りながら、「『訶志古泥ノ神に至ってはじめて訶志古く坐すには非ず』という事になろう」と続けているのである。すなわち、この「阿夜訶志古泥神」の出現によって漸く「畏き」存在としての神威に触れたわけではないと、宣長の注釈に欠けているところを補足するように加筆までしている。いや、ここからの第三十九回の本文は、まさに本居宣長の注釈を超えるような小林秀雄の注釈と考えなければならないのではないか。そして、この宣長自身が「言及していない」注釈に続き、さらに次のように説いているのである。
そうに違いなかろうが、これは、あくまで事後の反省に属する事で、神の命名というひたむきな行為の関するところではなかった、というのが宣長の基本的な考えなのである。従って、この行為の徴として、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神が、大斗乃弁神の次に、生れ坐したという出来事は、どうあっても動かせない事になる。それが動かせるなら、神代は崩壊して了うのである。
神々は歴史的な過程、つまり継起的に、徐々に十全な姿形となって、名付けられるたびに次第に全体を整えつつ、人々の前に顕現した、というように、「可畏き物」との遭遇という経験のただ中で、異常な働きとしての神威に直に触れたことを、その神の姿として、顕現するたびごとに名付けて行ったのではない。ある特権的で絶対的な力を、その部分の圧倒的な威力において、その瞬間に名付けているので、命名された個々の神々の姿の全体は最初から「満足坐す」姿であったし、その存在も最初から「訶志古く坐す」ものであったというのである。ただ、こう解くことは、あくまでも「事後の反省に属する」というのは、名付けた圧倒的な力をもって、それをその神の一部分として認識し、命名した、その御名の背後にその神の姿の、その時には隠れていた全体が示唆されているはずだと勘違いするなというのである。
そこで、ここに続く文章をさらに注意して読んでみよう。
では何故、そのような出来事、つまり、神々の本来の性格を、改めて、確かめてみるというような出来事が起こったのか。伝えがないから解らないが、これは、周囲にそうなる条件があっての事だろう。多分、それは、――「既に国処も成り、人物も生てのうへの事」であろう、と註釈は言っている。しかし、そのような事は、宣長には、恐らくどうでもいい事であった。周囲の条件を数え上げてみたところで、外的な説明が、命名という行為の自発性にまで届くわけがない。そういうはっきりした考えが、宣長にはあったと見てよい。実は、そう見てはじめて、彼の混乱した註釈に、一本、筋を通す事が出来るのだ。そういう考えを秘めていたところから、註釈が苦し気に乱れた、と逆に考える事も出来るのである。
(第三十九回)
では、一つ一つ解きほぐして行こう。まず、これまで説いてきた「面足ノ神」への補足説明部分が「彼の混乱した註釈」の一つではあるが、もう一つとして、神々の序列の記述、その語り方にあるようだ。しかし、この点についても、第三十九回の記述には、『古事記伝』三之巻、神代一之巻の45丁の本文全体を引用していないので、小林秀雄の『本居宣長』本文だけを読んでいては、実は見当が付きかねるところなのである。本居宣長の注釈が「混乱」し、「苦しげに乱れた」というのは次の箇所である。
然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべきに、然は非ずて、國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差ひたるは如何にと云に、未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る【天之常立神以前五柱は、天神にて別なる故に、此に云ハず、此は國土の初メに就て云故に、國常立神より云々とは云り】故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙と名け奉り
この「國土の初メと神の初メと、御名の次第の參差ひたるは如何に」という難問についての注釈として、これだけの言葉ではどうにも腑に落ちかねる曖昧さ、不得要領の感が否めない。つまり「御名の次第の參差ひたる」というのは、神々の御名から、それぞれの流れ、系統が推測されるが、その系統が交錯しているというのである。この引用の前をもう一度確認すれば解るのだが、「豊雲野、宇比地邇須比智邇、意富斗能地大斗乃辨と申すは、國土の始のさま、角杙活杙、淤母陀琉阿夜訶志古泥と申すは、神の始まりのさま」としている。つまり、前の五神は「国土」の生成状況を「次第」に命名した流れを言い、後の四神は「神」の生成状況を「次第」に命名した流れを示すと解されるわけで、それを踏まえるなら、「国土」系列の神名と「神」系列の神名がそれぞれ分けて記されるべきと考えられる。つまり、普通に考えるなら、国土たる大地の生成を終えてから、神と人の世が開始されるという順序が至当であろう。しかし、『古事記』原文の記述は次のような順序を示している。
次に、成りし神の名は、宇比地邇神、次に、妹須比智邇神、次に、角杙神、次に、妹活杙神、次に意富斗能地神、次に、妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神
したがって、いわゆる天地創世神話を当たり前のように思い描く現代の読者としては、「然らば須比地邇の次に意富斗能地とつゞき、活杙の次に淤母陀琉とつゞくべき」と神々の出現と御名の配列の系統の交錯が、系統の乱れのように見えるのだ。なぜ大地生成神話と神々生成神話とを区別して、順序立てて語らないのか。それを問題としながらも、『古事記伝』における宣長の注釈は、「未ダ國處は成ざる前に、國之常立神よりして、次第に神等は生坐る故に意富斗能地神の先なる神を、角杙活杙と名け奉り」と言うだけなのである。
しかし、この「次第に」に現代の用法としての「しだいに」ではなく「ツギツギ」と宣長自身がわざわざルビを振っているところに、注意を払うべきなのではないか。まだ国土も定まらぬ前に、神々はツギツギに現れた。その度毎に間髪を入れず御名は命名されて行ったのだ。この『古事記』に使用される「次=ツギ」の語法については、『本居宣長』第四十八回に直接言及されていて、さて、実はここが『本居宣長』最大の問題提起となる箇所と考えるところなのだが、本稿では参照事項として示すのみに留めたい(『小林秀雄全作品』28・p176)。
四 命名という「ふり」
さて、ここまで検討して来たように、神々の御形の生成と国土と神の生成の二つを語っていく神世七代の御名の記述について、『古事記伝』の注釈を精読しても、飛躍としか思えない補足部分と「次第に神等は生坐る」故にとしか、自ら立てた問い、「御名の次第の參差ひたるは如何に」という本質的な問いに答えないところ、この二点を以て、神代一之巻の45丁の本文全体を小林秀雄は「混乱した註釈」と言うのである。しかし、その混乱の所以については、極めて踏み込んだ注釈を施していくのである。それは、ここでの本居宣長の解は『古事記』神世七代のこの記述を「古言」として再生し、その語り方をできるだけ復元してみること、そうした想像力を自らに強く求めた故に「苦しげに乱れた」のだと言うのである。つまり、神世七代の語り方が示すように神々が顕現していく有様を、そのまま俊敏に聴き取りつつ、これを神威に触れて即座に命名する行為の絶対性として受容し、認識する方法というべきだろう。
すなわち、『本居宣長』第三十九回の「彼の混乱した註釈に、一本、筋を通す事が出来る」というのは、いわば宣長の注釈を浮き彫りにするための補助線を、「命名という行為の自発性」に求めたということなのである。
それでは、以上を踏まえて、この先にある最奥、最後の踏み込みに向かってみよう。「命名という行為の自発性」という補助線を引いた上で、宣長の記した神代一之巻の45丁の本文を位置づけ直し、そこに浮び上がる光景に注目したい。『本居宣長』第三十九回の箇所をもう一度引用する。
この行為の徴として、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神が、大斗乃弁神の次に、生れ坐したという出来事は、どうあっても動かせない事になる。それが動かせるなら、神代は崩壊して了うのである。
(第三十九回)
先に検討した神々の序列、その顕現の順序が、『古事記』本文では国土系列と神々系列とが交錯して記されているという箇所である。この交錯した記述は宣長によれば「次第に神等は生坐る故」というのみであった。そして、小林秀雄はこの「次第」、ツギツギという言葉の動き、その「古言」の「ふり」に眼を凝らして「命名という行為の自発性」を読み取り、さらに「其ノ可畏きに触て、直に歎く言」という果敢な踏み込みを行ってみせたのであった。既に記したように、その時その時の一瞬に顕現する神々、その神威との邂逅は絶対的な経験と言う他にない。したがって事後の反省による整序とは自ずから異なるのは当然なのである。しかし、この動かせない序列を動かしたら、つまり、反省に基づく整序を施すとしたら、「神代は崩壊してしまう」というのは何故なのか。しかも、「神世七代」とするのではなく「神代」と記す限りは、ここでの注釈対象の神世七代の領域に留まる話ではなくなってしまうのは明らかであり、そうなるとこの「崩壊」というのが少なくとも『古事記』の上巻全体に及ぶことになる。「大斗乃弁神、大淤母陀琉、阿夜訶志古泥」という語られ方を取っている順序が、入れ替わってしまうと「神代」という歴史が崩れ去ってしまうというのである。
五 神代という物語の<時間>
さて、この問題の輪郭を明確にするためには、「命名という行為の自発性」という補助線のさらなる考察が必要になって来る。本稿の冒頭部に記したところをもう一度振り返ってみたい。『古事記』の記述はその文字、文章から稗田阿礼の語りへと回帰することを促していて、その始原ともいうべき経験の総体への想像力を行使できるか否か、というところまで小林秀雄の記述は踏み込んで行った。つまり、神の御名と言えば、それを唱える声の上げ下げまでを指摘する本居宣長『古事記伝』の注釈とは、文章としての神世七代の記述総体を、その元の形へ、「古言」へ帰そうという努力の表れなのだと見ているわけである。しかも、「古言」として復元された神の御名とは、あれかこれかの選択の末に定まっていくというものではなく、「直に歎く言」と考えなければならない以上、その経験の一つ一つから「自発的」に展開されたものである。この特殊かつ極めて具体的な経験から、唱え言として生成する御名までの、心の動きとは、任意なものではないということだ。ここを押さえた上で、この命名行為の特権性という補助線を引き、それについて『本居宣長』の第三十九回以前に記して来たところを振り返ってみよう。
特に荻生徂徠について説くところの核心をなす問題は、言語の問題であったこと、それについては徂徠の『辨名』に言及されていたことを想い起こしたい。
ところで、「生民ヨリ以来、物アレバ名アリ」とは、これも言うを待たざることと考えられているが、意味合はまるで違うのである。名は、自然に有りはしないだろう。物につき、人が、名を立てるという事がなければ、名は無いだろう。しかし、この命名という行為は、あんまり自然で基本的なものだから、特に意識に上るという事がなく、誰もが、単に物あれば名ありと思い込んでいる。そういう風に、徂徠は考えている。凡そ、人間の意識的行為の、最も単純で、自然な形としての命名行為が、考えられている。言わば意識的行為の端緒、即ち歴史というものの端緒が考えられている。先王の行為を、学問の主題とした孔子にとって、名は教えの存するところであったのは、まことに当然な事であった。
徂徠は、「子路篇」から孔子の言葉を引く、「名正シカラザレバ、則チ言順ハズ」と。言語活動とは、言わば、命名という単純な経験を種として育って、繁茂する大樹である。
(第三十二回)
さらに第三十四回で展開された「神」という言葉と「物」との関わりについての考察も見てみよう。
「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取り上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質形状」は、決して明らかにはなるまい。直に触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先でも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「抑意と事と言とは、みな相称へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。「すべて意も事も、言を以て伝フものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有ける」とつづく文も、「意」は「心ばへ」、「事」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態心ばへ」の「徴」としての言辞は、すべて露わであって、その外には、「何の隠れたる意をも理をも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。
(第三十四回)
ここで引用されているのは、『古事記伝』一之巻の冒頭、「古記典等総論」の終わり近くになるが、さらに補足すれば、上記の引用文「抑意と事と言とは、……」の後には、次の文も入っているのである。
此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、古ヘより云ヒ傳ヘたるまゝに記されたれば、その意も事も言も相稱て、皆上ツ代の實なり、是レもはら古ヘの語言を主としたるが故ぞかし
「意と事と言」の三者が相互に、しかも緊密に関係しつつ「徴」として機能するとは、これらの総体が本質としての言葉なのであって、ある出来事との遭遇とそこで感じ取られた心情や意味と、この総体としての経験をどう表現するかということは、一つ一つが独立した漸次的、段階的な過程なのではなく、すべてが一挙に獲得される「徴」と呼ぶしかない完結した経験であり、表現に他ならないということだ。したがって、この過程の全体が「實」なのである。そうであるからこそ、第三十四回で言及される「くず花」の引用文、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也」ということになるのである。すなわち、通念的な歴史上の一時代のように「神代」を想定し、その「神話」を想像上の産物としか捉えられないというなら、神代の神々を表現する言葉、神の御名の数々と、その御形が「目に見えた」ということは全く理解不能なのである。それは御名と御形とを引き離したが故なのだ。
さて、ここまでの考察を踏まえて、第三十九回において問題化した箇所、神世七代の神々の顕現する語り、その順序が一つの理屈によって整序されたとしたら、「神代は崩壊して了う」という文章に戻ってみたい。
そこで語られた神々の御名とは「次第」に生成して来る神威に直に触れて、直ちに歎く「徴」としての言葉の連続体であって、これを語っていく神々の物語の、その動きの総体こそが「神代」の「實」という歴史そのものである限り、この連続体を停止させ、組み替える行為が何をもたらしてしまうか、それは火を見るより明らかであろう。
そして、第三十九回の最終段落にも注意しておきたい。
要するに、淤母陀琉、阿夜訶志古泥神の出現という出来事に、古代人の神の経験の性質が、一番解り易く語られていると宣長は考えた、と見てよいのだが、その神名の解によれば、この経験の核心をなすものは、――「其ノ可畏きに触て、直に歎く言」にあったとするのだ。これは、明らかに、「古の道」と、「雅の趣」とは重なり合う、或いは「自然ノ神道」は「自然ノ歌詠」に直結しているという、言いざまであろう。彼は、「物のあはれ知る心」は、「物のかしこきを知る心」を離れる事が出来ない、と言っているのである。
(第三十九回)
「意と事と言とは、みな相称へる物」だという見解が、おそらく『本居宣長』の中で最も重視されている思想であって、これと「もののあはれ」の説との重なり合う様をこの引用文は語っているのである。神世七代の語りによって顕現した神々の御名と御形の言葉を「古言」の「ふり」の動きへ再生しようとすれば、「道の事」は「歌の事」と同じであり、両者は二つの事を表現したものではない。それははっきりしているのである。
さらに、『本居宣長』のこの後の展開、第四十三回にはこの二つを踏まえて、より踏み込んだ記述が見られることを確認して、本稿を閉じたい。
神代の伝説は、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語ではなくなるわけはない。だが、「さかしら」の脱落が完了しないと、この事が受け入れられない。それが厄介な問題だ。「神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理もなく、つたなき寓言にこそはあれ」と頑なに言い張るからである。歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直に結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確かめるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。
(第四十三回)
「神代」、「古伝説全体」は、徹頭徹尾「徴」としての言葉に基づいた物語として成り立っているという。だから、その「ふり」を見失えば一挙に「崩れ去」ってしまうのだ。
(つづく)
注……本稿中の『古事記伝』本文は、『本居宣長全集』第九巻(昭和四十三年七月 筑摩書房刊)を使用した。なお本稿に引用、要約して示したところは、筑摩版全集九巻のp140(28丁)~151(45丁)にあたる。