青年の思想と顔

本多 哲也

本居宣長は、宝暦二年から七年、ということは二十三歳から二十八歳にかけての時期、京都に遊学したが、このとき宣長が書いていた書簡がいまも残っており、小林秀雄先生はこの書簡に目を向けて、りつ(三十歳)前の青年宣長の姿と出会おうとしている。先生は、宣長が、堀景山の塾で共に学んでいた上柳敬基や清水吉太郎ら学友に宛てた書簡の主旨を紹介し、次のように言っている。

―ここに、既に、宣長の思想の種はまかれている、と言っただけでは、足りない気がする。彼の、後年成熟した思想を承知し、そこから時をさか上って、これらの書簡のうちに、萌芽ほうが状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚くのである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.63)

私はこの部分を熟視したい。この驚きの体験はどういうことだろうか。

 

書簡の中でも小林先生が特に着目したのは、宣長の孔子観である。ある時、学友から非難の言葉を受けた宣長が記した書簡を、先生の要約から引こう。

足下そっかは僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、あるいはむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」所以ゆえんのものではない。ところで、現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。(同上p.60)

これに加え、自分が和歌を好むように、孔子もまた風雅を好んでいた、と宣長は言う。「論語」の先進篇の話に触れ、彼は、孔子について「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ヨクキエイキニ在リ」(同上p.62〜3)と記した。

以上を踏まえ、小林先生は次のように言う。

―彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然きぜんとして嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同上p.65)

宣長は、学友たちが抱いている孔子像が、「聖人」として祭り上げられた偶像に過ぎないことに気づいていた。その時の宣長の精神の動きについて、小林先生は次のように言う。

―書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。「君師」に比べれば、遥かに「士民」に近い、自分の「小人」の姿から、彼は、決して眼を離さない。(同上p.65〜6)

「小人」という言葉は、宣長の書簡に出てくる言葉である。自らが小人であることを忘れずに生きることは、簡単ではない。先人を聖人化、偶像化してしまうのは、自分もそう見られたいという欲望の裏返しであろう。そのことに気づいているか。書簡のうちにある、「吾ガトモガラハ小人ニシテ」という表現が問いかけているところを心に留めて筆を進めよう。

 

小林先生の文中に、「思想」と「顔」という二つの言葉がある。この二つの言葉を熟視しよう。

まず、思想についてであるが、これは既に本誌で連載中の池田雅延塾頭「小林秀雄『本居宣長』全景」で詳しく論じられたことがある。池田塾頭は、小林先生の「イデオロギイの問題」を引いて、思想とイデオロギーという言葉の混同について注意を促す。

―人間精神の表現は、これを完了した形として眺める限り、ことごとくイデオロギイならざるものはない。イデオロギイは僕の外部にある。(中略)だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第12集p.281〜2)

―「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。(池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(二)思想のドラマ」本誌2017年7月号)

私は思想と混同しやすい言葉として、もう一つ「見解」という言葉を挙げたい。先に「本居宣長」からの引用でも、「この宣長の見解というより」という箇所があったが、これより前に、次のように「見解」という言葉は使われている。

―「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。(中略)しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのも亦容易なのである。見解を集めて人間を創る事は出来ない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.57)

たとえば、宣長の書簡の中には「神州」という言葉が何度か出てくるが、これを拾い上げて「ここに国学者の思想の一端がある」という言い方は、誤っている。断片的な言葉を拾って現れるのは、見解にすぎないからだ。見解は、イデオロギーと同じく、人間の外にある。思想とは、もっと有機的で、人間の営みと切り離せない。小林先生は、宣長の書簡の中に、イデオロギーや見解を探しに行ったわけではなく、宣長が青年らしく、「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」している、そのような活力ある試行錯誤の痕跡を探しに行ったのだろう。

しかし、小林先生は、実際に出会ったものを、「思想」ではなく「顔」と言っている。文学上の修辞に過ぎない比喩だ、と私は思わない。「顔」とは、何を表しているのだろうか。これを考えるヒントは、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という繋がった作品の中にあった。

まず、「作家の顔」の中から、「顔」について二つの使われ方をしていることを確認したい。一つ目の「顔」は、フローベルの書簡を読んだ小林先生が以下のように批評する箇所に出てくる。

―もはや、人間の手で書かれた書簡とは言い難い。何んという強靭きょうじんな作家の顔か。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.13)

別の「顔」は、トルストイについて正宗白鳥が論じた文章に応じる中で出てくる。

―偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見附けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。(同上p.16)

この二つの顔を、「作家の顔」に続く二作品の表題に照応させて、前者は「思想の顔」、後者は「実生活の顔」と、端的に言い直してみよう。偉大な作家や思想家は、その仕事を進めていく中で「思想の顔」を持つに至る。私たちが彼らの作品を通じて出会うのは、この顔であり、その体験にこそ意味がある。否が応でも普段から貼り付いている私たちの「実生活の顔」を映す鏡のように、それらの作品と向き合うのは、誤った態度である、と小林先生は言っている。

では、いかにして人は「思想の顔」を得るか。「文学者の思想と実生活」から一節を引く。

―抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.136)

この「最も正確な自然の像」が、「思想の顔」と言えよう。これを得るのに必要なのは「抽象作業」である。木材から余計な部分を取り除いて木像を作るがごとき抽象作業を経ることで、人間は、実生活だけでは得られない、独立した思想の顔を得る。それを最も巧みに行った先達が、偉大な作家や思想家である。この抽象作業は、先に引用した「希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤」という池田塾頭の言葉とも重なり合う。

 

改めて、初めの小林先生の文章で言われていた「驚き」に戻ろう。青年宣長の書簡のうちに、思想の種がまかれている、思想の萌芽がある、そういう表現では足りないのは、一学生だった宣長が、既に試行錯誤の上で抽象作業を終え、ある思想家の顔を持つに至っていたからである。どんな思想か、と一言で言うことはかなわないが、自らを「小人」と自覚して、そこから言葉を発する、聖人の道という学問的通念に惑わされず、自分を大きく見せることも卑下することもなく、過不足ない自分を捉えて離さない、その態度が、小林先生を驚かせた。私は、小林先生の驚きをそのように受け取った。

(了)