契沖と熊本Ⅱ

坂口 慶樹

三、夢のまた夢

 

それでは、前章の最後で述べた、契沖やその親族が翻弄された「肥後の国難」とは何だったのか。まずは、そこに到るまでの加藤家の動きを概観しておきたい。

加藤清正(*1)の名前が、現存文書に初めて登場するのは、天正八年(一五八〇)九月十九日付けの羽柴秀吉(*2)による知行宛行状ちぎょうあてがいじょうである。秀吉が、当時十八歳の清正に初の知行地(所領)として播磨国神東じんとう(現、兵庫県西部)を与えた時のものと言われている。

その後、天正十一年(一五八三)の、秀吉と柴田勝家(*3)との賤ケ岳しずがたけの合戦では、福島正則らとともに「七本槍しちほんやり」の一人として功名を上げ、天正十四年(一五八六)頃には「加藤主計頭かずえのかみ」という官途かんと(地位)を得て、織田信長(*4)の跡を継いだ秀吉グループにおける財務担当者となった。

天正十五年(一五八七)、秀吉は薩摩の島津氏を降伏させて九州を平定統一、肥後の地には、佐々成正さっさなりまさ(*5)を配した。しかし成正は、秀吉が在来勢力に配慮し禁じていた検地を強行したことにより、大規模な肥後国衆一揆を招いたため、秀吉に更迭され切腹を命じられてしまう。そこで成正に代わり、肥後北半国の領主に抜擢されたのが清正である。四千石から十九万五千石領主への大躍進であった。

天正二十・文禄元年(一五九二)、秀吉は、宿願であったみん国征服の第一歩として朝鮮出兵を開始した。約七年にも及ぶ「文禄・慶長の役」である。肥後南半国の領主、小西行長(*6)と対馬のそう義智らの第一軍、総勢十六万人が秀吉軍の先陣を切って釜山に上陸した。その五日後、清正が先頭を率いる第二軍も釜山に入った。

 

このように、清正が肥後を不在にしていた間、留守居役を務めていたのが、契沖(*7)の祖父、下川又佐衛門元宜もとよしである。吉村豊雄氏が「新熊本市史」史料編近世Ⅰに所載の、天正・文禄期に清正が出した書状構成をもとに論じているように、書状の「宛所は下川又佐衛門・加藤喜左衛門が中心であり、両名に中川重臨斎(軒)を加えたものが大半を占めて」いた。「下川・加藤・中川は加藤家を取り仕切る『奉行』(惣奉行)としての位置」にあったのだ(*8)。確かに同史料によれば、天正十九年(一五九一)から文禄五年(一五九六)の間に出された書状二十二通のうち十九通に下川又佐衛門の名前を確認できる。

前章の冒頭で紹介した、契沖が家族の思い出を語った言葉、「元宜もとよしは、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何せうかに似たる事の有ければ、豊臣太閤こま(坂口注;高麗)をうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり……」というのは、このような事情を振り返っていたことになる。

ちなみに吉村氏によれば、二十二通の書状の内容は「代官の配置、蔵入地(*9)の年貢、兵員・船・加子かこの調達、年貢米売却などについてこと細かに指示」しており、その指示は四十から五十条にも及ぶ。主君秀吉のいた都はもちろん遠隔地への出兵や築城普請が多かったという、清正ならではの事情はあるにせよ、地元肥後においては、「行財政の実務が清正個人の意思で動き、決定されているという『ワンマン』政治」の状況にあったようだ。このことは、後述する「肥後の国難」とも大いに関係するため、記憶に留めておいていただきたい。

 

さて、朝鮮での進軍は、地元勢力の反乱や背後に控えるみん国軍の加勢などにより、思うようには進まなかった。明国に近い朝鮮東北部の咸鏡道かんきょうどうまで進軍していた清正軍にしても、家臣たちは飢えや厳しい寒さと戦いながらの状況で、ついには首都漢城(現、ソウル)まで撤退せざるを得ず、一万人いた軍勢も約五千五百人まで減っていた。

出兵から約四年後の文禄五・慶長元年(一五九六)、明との和平交渉が大詰めを迎えていたところ、清正は秀吉の命により帰国する。ところが交渉は決裂、翌慶長二年(一五九七)、清正らは再出兵を命じられ、総勢十四万人の軍勢が再び渡海した。明・朝鮮連合軍の反撃は厳しく、清正軍は、兵糧や水の備蓄が不足するなかで、蔚山ウルサン城での過酷な籠城戦を耐え抜いた。この戦を契機に、戦線縮小を進言する朝鮮在陣の武将もいたが、秀吉は聞く耳を持っていなかった。

そんな最中、慶長三年(一五九八)八月十八日、秀吉は逝去した。「慶長の役」は一気に終息に向かい、清正も帰国。この間、清正の朝鮮半島での移動距離は、延べ二千キロメートルを超えていた。秀吉の明国征服の野望もまた、「夢のまた夢」と消えた(*10)

 

四.家康への接近

 

秀吉の死から時を置かずして、豊臣政権内では、五大老や奉行衆(*11)、武功派諸将などによる権力闘争が始まっていた。その闘争は、徳川家康(*12)を総大将とする東軍と、石田光成(*13)が率いる西軍が激突する、慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦いで頂点を迎えた。合戦の場所は、関ヶ原だけではなかった。肥後で待機していた清正は、早い段階で家康に従うことを決意し、九州では極めて少数派の東軍勢である豊前中津(現、大分県中津市)の黒田如水じょすい(孝高)(*14)らとともに、大勢を占める西軍大名領に攻め込んだ。

同年清正は、ともに朝鮮出兵していたものの関係が悪化していた、西軍の小西行長の留守をつき、宇土、益城ましき八代やつしろなどの肥後南半国にも攻め入った。関ヶ原で敗戦した行長は近くの伊吹山中で捕縛され、西軍の主将石田三成、安国寺恵瓊えけいとともに、大阪、堺、そして京都の洛中を引き回されたのちの同年十月一日、六条河原で斬首されている。二十三日には行長の本拠地、宇土城も落城した。

このように、九州における西軍の大名領を攻め落とす活動を続けていた清正は、同年十月二十六日付で以下のような書状を、熊本の留守を預かる二人の重臣に出していた(「中沢広勝文書」)

以上

急度申遺候、今日可令帰陣之処、爰元之仕置少隙入候故相延候、明後日者可打入候、

一、薩摩へすくニ可相働候間、先度申置候、宇土領へ人足共いそきよひよせ可召置候事、

  (中略)

一、如水其元被通候者、新城ニ而振舞候て可然候間、得其意、天守之作事差急、畳以下可取合候、小台所たて候へと申付儀ハ、こもはりにても不苦候、小座敷之畳をも仕合候へと可申付候、猶追而可申遣候、諸事不可有由断候、

謹言、

十月廿六日 清正(花押)

加藤喜左衛門尉殿

下川又佐衛門尉殿

 

前半では、次のように言っている。「急ぎ申し伝える。本日(熊本へ)帰陣する予定だったが、(柳川城の)戦後処理に手間取り、明日に延期した。薩摩にすぐ出陣するので、宇土に人足を集めておくこと」。

清正は、その前日の二十五日に、立花宗茂(*15)の柳川城を開城させており、急ぎ軍勢を薩摩へ転じるつもりだったのである。

一方、後半ではこうだ。「薩摩への道中、(黒田)如水を新城で歓待したい。天守でもてなせるように普請を急ぎ、畳も準備しておくように。少台所や小座敷(広間)の普請も進めておくこと」。

ここで「新城」とは、熊本城のことである。肥後入国以来居城としてきた「隈本くまもと城」(*16)とは別に築城中の城は、この時点で天守の外観は完成、内部に畳を入れるところまで来ていたことがわかる。ちなみに、最近の研究では、熊本城の築城開始は遅くとも慶長四年(一五九九)とされている(*17)。そうなると、新城建設について、秀吉の死後いち早く徳川家康の了解を得るなど、清正が家康に急接近していた可能性がある(*8)

書状の宛名にも注目しよう。朝鮮出兵中に引き続き、下川又佐衛門、つまり契沖の祖父元宜宛てとなっている。清正の、「留守の守」元宜への信任はゆるぎなかった。ちなみに、現在の熊本市南区田迎たむかえ三丁目、JR南熊本駅から南に十分ほど歩いたところに、「るすのかみ屋敷跡」という市の標柱が立てられている。ここに、元宜と長男の元真の住居があったことから、地元では、この一帯が「るすのかみ」と呼ばれてきたという。

 

さて慶長六年(一六〇一)、清正は、旧小西行長領の継承が認められ、天草と球磨を除く肥後全土を領有することとなった。また、慶長八年(一六〇三)年には、「主計頭かずえのかみ」に加えて「肥後守ひごのかみ」という官途が与えられた。

慶長十二年(一六〇七)には、待望の熊本城が完成したと言われている。しかし清正は、自身の居城を建てただけではない。家康の命を受け、一六〇〇年代初頭から、伏見城、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の普請に参画した。それも、ただの参画ではない。清正は、同じように普請を命じられた諸大名に勝る、仕事の速さと質の高さを自負していた。それを家康に褒められ、天下に名を上げたことを無邪気に喜んでいる書状も残っている(*18)。わけても石垣建設には大きなこだわりがあった。彼が石材調達役の家臣に宛てた書状を見ると、自身が、普請の進み具体に合わせて必要な石のサイズや形状や数を詳細に把握していたことがわかる。清正は「穴生衆あのうしゅう」と呼ばれる石工の専門集団を抱えていただけではなく、自ら土木・建築技術に関する深い知見を有していた。「土木の神様」と呼ばれたゆえんである(*19)

一方清正は、このような技術面からの家康へのアピールだけではなく、徳川家との婚姻政略も、抜かりなく進めていた。

まずは、慶長四年(一五九九)四月、秀吉の死から半年後に、家康の養女(清浄院。水野忠重の娘かな姫、家康の従妹にあたる)を正室に迎え、家康の婿むことなった。その後、清正は、慶長十一年(一六〇六)に、長女のあま姫を、家康側近の、いわゆる「徳川四天王」(*20)の一人である上野こうづけ館林たてばやし城主・榊原康政(*21)の嫡男康勝へ輿入れさせた。一方、家康は、慶長十四年(一六〇九)、十男の頼宜(常陸介)の室に、清浄院との間に生まれた八十やそ姫を迎えることに決めた。

ちなみに、福田正秀氏によれば、その時、将軍家からの正式な納采使のうさいしとして、頼宜の伯父の三浦為春ためはる(*22)が熊本城に下った。為春は歌人・文化人としても著名で、肥後への道中のことを「太笑記」に著している。同記によると、為春の宿舎に清正家臣が詰めかけ、和歌や連歌の会が催され、「無骨と思われた肥後武士の連歌の素養に為春は大変驚いたと記している。実は清正はこの以前より城下に著名な連歌師・桜井たんを招いて家臣に学ばせていた」のである。このことについては、また章を改めて触れることにしたい。

ともかくも、これまで見てきた通り、家康への接近と関係の深化は、様々に重なり合うかたちで着々と進められてきたのである。

 

五、おととさま御わづらひ

 

慶長八年(一六〇三)二月から、征夷大将軍となり幕府を開いていた家康は、慶長十年(一六〇五)には将軍職を子息秀忠(*23)に譲り、拠点も江戸から静岡の駿府城に移したものの、「大御所」としての実権は握り続けていた。その一方、公家の家格として、秀頼は、豊臣という「摂関家」の当主であり、徳川秀忠は、あくまで摂関家に次ぐ「清華せいが家」に列していた。加えて、秀頼が、家康や秀忠ら徳川家から知行を宛行あてがわれたりした事実もなかった(*24)

このように、徳川幕府の向後の盤石にとって、秀頼の存在は大いに気掛かりなものであった。そこで家康は、秀頼に面会を求め続けた結果、慶長十六年(一六一一)三月二十八日、京都の二条城で面会を果たす。大阪城を出た秀頼を、鳥羽まで出迎えたのは、後に尾張徳川家初代となる徳川義直(右兵衛)と紀州徳川家初代となる徳川頼宜(常陸)であった。ともに家康の子息であり、それぞれに付き添い人がいた。義直には浅野幸長よしなが(*25)が、頼宜には清正が付き添った。この時、浅野の娘春姫は義直と、また、先に見た通り、清正の娘八十姫は頼宜と婚約しており、二人の付き添い人は、血縁関係を結ぶ家康の子息の付き添いという立場で参加していたことになる(*19)

ともかくも、緊張感のある状況下で開かれた二条城の会見は無事に終わった。会見にも同行し大役を果たし終えた清正も、大いに休心したことであろう。ところがである。

 

同年六月二十四日、清正が熊本で急逝する。上記の会見を終えた清正は、同年四月九日には、天下の宗匠古田織部と浅野幸長との茶会を主催、二十二日には能を鑑賞している。萩藩毛利家の資料(「肥後国熊本様子聞書」)によれば、翌五月に大阪を出船し同十五日に熊本に到着。その後二十七日に大広間で発病したという。脳卒中だったと言われている。

その頃江戸にいた清正の十歳の息子、虎藤(のちの忠広)が父の病状に心を痛め、国許の母に宛てた手紙がある(「加藤忠広自筆書状」、本妙寺蔵)

……おととさま御わづらひ、少しづつよく御座候よし承り、めでたく存候、上方より

くすしやがて参候ハんまま、いよいよ御本復なさるべきと申参らせ候、よくよく御養

生なさるべく候、めでたくかしく

六月二十八日  とら藤

おかかさま

 

幼い虎藤の祈りは届かず、熊本での、清浄院や八十姫ら家族の必死の看病のかいもなく、薬石効なし。享年四十九であった。

 

まさに急逝である。遺言書もなければ、事前の準備も一切できていない。唯一の後継候補の虎藤は十歳で、将軍家への御目見おめみえもまだである。残された遺族はもちろん、家臣達も途方に暮れたに違いない。そんな青天の霹靂へきれきのような状況に輪をかけたのが、生前の清正のマネジメント・スタイルであった。前章で述べたように、肥後五十四万石にかかる「行財政の実務が清正個人の意思で動き、決定されているという『ワンマン』政治」のやり方が災いした。藩内に家老という役職者もいない。要は、清正の死後リーダーシップ(指揮)を取る人物すら定まっていなかったのだ。

だから、徳川幕府で実権を掌握している駿府の「大御所」家康から、詳細な家臣名簿を家老に持参させよ、と指示されても、家老はおらず、役人の中から互選するしかなかった。そこで、並河金右衛門、加藤左衛門、加藤清左衛門右馬允うまのじょう、加藤美作みまさか、そして、契沖の祖父下川又佐衛門(元宜)の五人が、駿府へ向かった。この時五人は、虎藤の相続と引換えに、重臣二十名が江戸に人質を差し出すという、異例の誓約書を持参していた。

このような、重臣たちの必死の懇願も奏功したのか、虎藤の相続が内定、熊本の治世は、五家老の合議制で執り行うよう命じられた。併せて、この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと、政務に滞りあれば事前に幕府奉行に一報することなどを含む五ケ条の起請文の提出も命じられた。

但し、正式な襲封しゅうほうには、上使による現地監察が必要であった。伊勢・伊賀二十二万石の大名、藤堂高虎(*26)に白羽の矢が立てられ、高虎は、虎藤が成人するまでの後見役も命じられた。

高虎による監察後、慶長十七年(一六一二)四月、虎藤は駿府の家康への御目見も果たした。清正の相続を正式に許され、将軍秀忠にも挨拶のうえ秀忠の一字を拝領して加藤忠広と名乗り、「肥後守」という官途も頂いた。但し、熊本城以外にあった七つの支城のうち、水俣、宇土、矢部、三城の破却が命じられた。こうして、幕府主導による、新生加藤家が動き出した。下川又佐衛門も、大きく安堵のため息をついたことだろう。

しかしながら、以上仔細に見てきたことは「肥後の国難」の序の口に過ぎなかった。

 

 

(*1)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)

(*2)天文六年(一五三七)~慶長三年(一五九八)

(*3)?~天正十一年(一五八三)。賤ケ岳の合戦は、織田信長亡きあとの家督をめぐり、秀吉と柴田勝家・織田信孝(信長の三男)が対立する構図を背景に起きた戦。当時、勝家は、織田信長の妹お市の方を妻に迎えていた。

(*4)天文三年(一五三四)~天正十年(一五八二)

(*5)?~天正十六年(一五八八)

(*6)永禄元年(一五五八)~慶長五年(一六〇〇)

(*7)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)

(*8)吉村豊雄「加藤氏の権力と領国体制」、谷川健一編「加藤清正 築城と治水」(冨山房インターナショナル)

(*9)豊臣秀吉の直轄地。当該地の税収は豊臣政権の財政基盤あり、その管理は重要な任務であった。

(*10)秀吉は、以下の辞世の句を遺している。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

(*11)五大老:徳川家康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝。五奉行:浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以

(*12)天文十一年(一五四二)~元和二年(一六一六)

(*13)永禄三年(一五六〇)~慶長五年(一六〇〇)

(*14)天文十五年(一五四六)~慶長九年(一六〇四)

(*15)永禄十年(一五六七)~寛永十九年(一六四二)。初代柳川藩主。

(*16)「隈本城」があった場所は、概ね現在の熊本城がある茶臼山の西南にある丘陵と推定されるが、藤崎台か古城町(現、第一高校地)かは、正確に特定できていない。

(*17)森山恒雄「隈本から熊本城へ」、熊本大学放送公開講座「近世の熊本」

(*18)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

(*19)熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯 古文書が語る実像」

(*20)榊原康政の他に、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政。

(*21)天文十七年(一五四八)~慶長十一年(一六〇六)。康政は、婚礼後すぐの五月に急逝、康勝が二代目当主となり、あま姫も館林藩主の奥方となった。清正は、若き藩主康勝に対して、経済的にも精神的にも親身に支援したことがわかる書状が遺されている。

(*22)天正元年(一五七三)~承応元年(一六五二)。当時の連歌壇の最高指導者、里村昌琢門で連歌にも親しんでいた。ちなみに、第二章で触れた、連歌師・俳諧師の西山宗因は、加藤家改易後、京都に上り、同じく昌琢門で本格的な連歌修業に打ち込むことになる。

(*23)天正七年(一五七九)~寛永九年(一六三二)

(*24)北川央「秀頼時代の豊臣家と大坂の陣」『大阪城をめぐる人々』創元社

(*25)天正四年(一五七六)~慶長十八年(一六一三)。初代和歌山藩主。

(*26)弘治二年(一五五六)~寛永七年(一六三〇)。

 

 

【参考文献】

・熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯古文書が語る実像」

・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

・熊本大学放送公開講座「近世の熊本」

・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社

 

(つづく)