編集後記

坂口 慶樹

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人の話題は、食欲の秋ゆえか、ワインを味わうということについてである。しかし気付けば、その話題は、ワインに向き合う楽しさから、好きだからこそ深く学び続けることができるという「学び」の本質、ものを愛でることの本質へと昇華していく。この「劇場」も、それこそ大きなワイングラスに注がれたワインを愛でるように、じっくりと五感で味わっていただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、橋岡千代さん、越尾淳さん、松広一良さん、冨部久さんの四名の方が寄稿された。

橋岡さんは、大阪の和泉いずみ市に古くから伝わる「葛の葉伝説信太しのだ狐)」という「ものがたり」を紹介し、そこには母子の哀しみという「そらごとのまこと」があると言う。加えて、そういう「ものがたり」には、「語り手と聞き手が次々と紡がれた言葉によって、固有な『まこと』の価値を共に想像しながら生み出していく力」があると述べている。橋岡さんとともに、改めて小林秀雄先生の文章に、耳を傾けてみよう。

越尾さんは、生成型AI(人工知能)が巷間を賑わせているなか、「本居宣長」に向き合うと、「この機会に『考える』とは何かということについて考えてみなさいと小林先生に言われているような気」がすると言う。越尾さんは、中江藤樹について、また彼の学問に向かう態度について、先生が書かれている文章とじっくり向き合ってみた。そうすると、先生が、藤樹のほか、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、そして本居宣長らを「豪傑」と呼ぶ深意に気付いた。

松広さんが向き合ったのは、小林先生が使っている「古典」という言葉である。そのヒントは、先生の文章のなかにあった。「豊かな表現力を持った傑作」かどうか、「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」あるいは「新しく息を吹き返そうと願っているもの」かどうか、に眼を付けてみた。そのような意味で、独特の文字表記法のため長きにわたり読解困難となっていた「古事記」は、真に「古典」と言えるのであろうか……

冨部さんは、小林先生が「本居宣長」第十五章において、「源氏物語」の最終章「夢浮橋ゆめのうきはし」について書いている十五行のなかで、「夢」という言葉が十五回も使われていることに注目した。池田雅延塾頭によれば、小林先生にとって「夢」という言葉は、若い頃からの特別な言葉であった。先生には、同じように若いころから大切にしてきた言葉があった。「円熟」という言葉である。この二つの言葉を巡る冨部さんの思索を、じっくりと味わいたい。

 

 

先日の山の上の家の塾の講義のあと、本誌のウェブディレクションを担当している金田卓士さんから、読者の皆さんの、本誌に対する直近のアクセス(サイト来訪)状況について報告があった。

平成二十九年(二〇一七)の創刊当初には、ひと月当たり約八百人の来訪者があったところ、その後右肩上がりに漸増し、最近では、約二千人の方、多いときには約二千五百人の方にご覧いただいている状況にあることがわかった。しかも、そのうち、約八割の方が新規の来訪であり、新しい読者の方の利用が増えていた。

もちろん、ネット検索でたまたま引っかかっただけではないか、という思いもあり、閲覧のための滞在時間も調べてみた。そうすると、新規訪問者の約五パーセントの方、そして再訪者の約十四パーセントの方が、十分以上滞在されていることがわかり、きちんとお読みくださっている方が少なからずいらっしゃることに、編集部としても、読者の皆さんに心からの感謝を表するとともに、継続してきてよかった、と心底報われたような心持ちにもなっている。

山の上の家の塾の塾頭補佐である茂木健一郎さんは、本誌の刊行開始時のエッセイ「命のサイクル、魂のリレー」において、「ここに集った文章」が「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」と述べている。そのような一灯として、きちんと世の一隅を照らし出すことができているか、いまだに自信はない。しかし塾生一同、今一度気持ちを引き締めて、少しでも照度を上げて、さらに多くの皆さんにお読みいただける同人誌になることを目指し、さらなる歩み続けて行きたい。

 

そうこうするうちに、長い長い酷暑も終息し、いよいよ晩秋へ、という時季を迎えた。食欲の秋はもちろん、読書の秋も到来である。ここで改めて、引き続き、読者諸賢の倍旧のご愛顧をお願いする次第である。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」と、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読くださっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫び申し上げ、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)