「歴史の枠と人間の自由」(対話ふうに)

荻野 徹

男 今回の熟視対象は、どこかな?

女 第三十章の結語部分に「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失うであろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集351頁)とあるでしょう。

男 そのどこが気になるの?

女 「自由」という言葉が、何かを感じさせるの。

男 僕はむしろ、「歴史を限る枠」っていうのにひっかかる。どういう意味かな?

女 引用文と同じパラグラフの前の方に「歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない」(同上)とあるでしょう。ここでいう「年表という歴史を限る枠」のことよ。

男 ああそうか。「年表的枠組」という表現もあるね。でも、年表って、過去を振り返って作成された記録だよね。それがどうして、歴史を限る枠になるのかな?

女 言ってることがよく分からないわ。

男 証拠に裏付けられた客観的な事実とは別に、歴史なんてありえないよね。年表って、客観的な事実の集合体なんだから、歴史そのものなんじゃないの?

女 ああ、そういう話ね。もちろん、いついつ何々が起きたという記録を無視した歴史認識はあり得ないし、「かくかくの過去があったという証言が、現存しないような過去を、歴史家は扱うわけにいかない」(同350頁)

男 学問なんだから、客観主義に徹すればいいんじゃないの?

女 確かに、そういう「証言証拠の受身な整理が、歴史研究の風を装っている」(同349頁)こともあるわ。でも、宣長さんの学問はそうではないの。

男 というと?

女 宣長さんは、「『古事記』という『古事のふみ』に記されている『古事』とは何か」(同)を突き詰めていった。その際「主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られる」(同)ということなのね。

男 年表は、「過去に起った単なる出来事」の羅列に過ぎないというわけだね。客観的な証拠や証言だけでは不十分なのかな?

女 そうね。「証言が現存していれば、過去は現在によみがえるというわけのものではあるまい。歴史認識の発条は、証言のうちにはない」(同350頁)ということよ。

男 歴史認識のバネか。でも、客観的な証拠や証言を離れて、どうするのかな?

女 「古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみる」(同)ということなんだわ。

男 共感とか、追体験とか、そういうことかな。でも、そんなことが可能かな?

女 簡単なことではないわ。それでも、「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、(中略)総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事」(同350,351頁)はできる、そう考えてはどうかしら?

男 面白そうな話だけど、うまくいくのかな。各自が勝手に、自分の願望を投影しただけのものにならないのかな?

女 少なくとも宣長さんは、こういう方法で、「古事記」について何百年たっても通用するような読み解きをすることができた。でも、誰でもできることではないわね。「確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい」(同351頁)ということじゃなくて?

男 宣長さんも、もちろん、勝手な自己主張をしたわけではないよね?

女 そうよ。「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きでみたされて、隅々まで透明」なの(同349頁)

男 何か、強烈な意思のようなものを感じるけど、どうかな?

女 宣長さんの場合、「何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導」いていたのね(同349頁)。そういう宣長さんなればこそ、「倭建命の『言問ひ』は、宣長のココロに迎えられて」はじめて、「息を吹き返した」(同351頁)。「年表的枠組は、事物の働きをかたどり、その慣性に従って存続するが、人のココロで充たされた中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している」(同)というわけね。

男 そうなると、生死を託された後世の人のココロの働きがどのくらいあて・・になるか、心もとない気がするけど、どうかな?

女 そうよね。後世の私たちは答えを知っている。いくさの帰趨であれ何であれ、結局どうなったのか分かっている。そういう年表的枠組には手を付けないでいて、「過去の経験を、回想によってわが物とする」(同350頁)ことになる。

男 そうするとさ、追体験するにしても、所詮この人は最後はこうなる、なんて考えてしまう。それで、本当の意味で、過去を蘇らせたことになるのかな?

女 たしかに、過去の人々の行動について、大きな時代の流れの中の一つのエピソードくらいに考えがちよね。歴史的な必然性とか法則性、あるいは実証主義に基づく歴史解釈とか、そういったものの具体的な一事例として扱ってしまう。

男 それでは結局、「証言証拠のただ受身な整理」(同349頁)としての歴史学と大差ないんじゃないかな?

女 だからこそ、「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失う」(同351頁)ということなんだわ。

男 どういうこと?

女 過去の人々にとって、その時点での未来は、当然、未知のものだった。結果論で言えば、「抗しがたい運命に翻弄されていた」ということになるかもしれないけど、彼らは、その運命に抗おうと奮闘していた。行動の自由があったんだわ。それを、「所詮、時代の流れには抗しがたかった」みたいに後知恵で裁いてしまうと、歴史の中心点を失うことになる。

男 中心点を失うっていうと?

女 結果論や後知恵では、年表的枠組しか掴めない。たまたま目の前にある証言証拠を眺めて、いつでも誰でも分かることを再確認しているだけなんだわ。それでは過去は現在によみがえらない。歴史の中心点、つまり歴史認識の最も重要な部分にたどり着けない。こういうことじゃないかしら。

男 なるほど。そうすると、自問自答の域を超えてしまうかもしれないけど、こうも言えるかな。今を生きる僕らも、過去の経緯とか、漠然とした時代の流れとかいったものには、何か抗いがたいものを感じている。でも、宣長さんのように歴史に向き合い、過去の人々の行動の自由に想いを馳せ、人間経験の多様性を自己の内部に再生して味わうことができれば、僕ら自身が、社会通念や固定観念から離れて、未来に向けての自由を取り戻す道が開かれることになる。なんて。言い過ぎかな。

女 ええ、言い過ぎは言い過ぎね。でも、同感、そうこなくっちゃ、だわ。

 

(了)