物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の「実験」

坂口 慶樹

「本居宣長」において、宣長の「物のあはれ」論は、第十二章から詳述される。但し同章は、序章のような位置付けであり、「宣長が、『ものゝあはれ』論という『あしわけ小舟』の楫を取った」という最後の決めの一言を受けて、第十三章から本論が始まる。小林秀雄先生は、その冒頭で「もののあはれ」という言葉の最初の用例として、紀貫之(*1)の「土佐日記」について、さらには、同じく貫之が綴った「古今和歌集」(以下、「古今集」)の「仮名序」について触れている。ちなみにこれは、前稿「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ」(「好*信*楽」2023(令和五)年冬号)で述べた、紫式部が「源氏物語」の「蛍の巻」で自身の物語論を、登場人物の口を借りて語っているくだりの前段にあたる。

その「仮名序」と「土佐日記」については、第二十七章において、改めて詳述され、「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところが、宣長を驚かしたのである」という決め台詞ぜりふで終わる。ここで小林先生が言っている「同じ方法」とは、一言で言えば、貫之が「土佐日記」の執筆を通じて行った「和文制作の実験」のことである。すなわち、「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて、「何の奇もないが、自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみる」ということだ。さらに先生は、それこそが「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕えるという、その事になる」と言っている。

それではまず、その「実験」の詳細を、「土佐日記」に向き合いながら体感してみよう。

 

「土佐日記」は、当時六十代後半の紀貫之が、国司、土佐守とさのかみとしての四年の任期満了後、任地の土佐(現、高知県)から京都まで帰る船旅、五十五日間の模様を、経日けいじつ的に綴った日記日次ひなみ記)である。もちろん貫之以前にも、入唐僧や太政官の役人による公的な日記(*2)は存在していたが、私的な日記が書かれるようになるのは、貫之が生れた九世紀後半からのことである。例えば、「宇多天皇日記(寛平御記)かんぴょう元年(八八九)十二月条には、天皇が愛猫の様子を生き生きと書いているくだりがあるが、漢文で書かれている。それを、「女手」とも言われた平仮名で、筆者は前土佐守に仕えた女房という体裁で書いたのが、貫之の「実験」だったのだ。

それでは、その「土佐日記」に書かれた内容を、喜・怒・哀・楽に分けるかたちで具体的に見てみよう。

まずは、喜と楽である。

「二十二日に、和泉いづみの国までと、平らかにくわん立つ。藤原のときざね、むま。上中下ひあきて、いとあやしく、潮海のほとりにて(傍点筆者、以下同様)

出発に際し、船旅なのに、馬のはなむけ(元来は旅の無事を祈り旅先の方角に馬の鼻を向けることであったが、その後、送別の宴や餞別の意味に用いられた)、という駄洒落である。また、「あざる」の二つの意味、「魚が腐る」と「ふざける」を利用し、塩海で腐るはずないのに、酔っ払いが「あざれ」合っているという諧謔かいぎゃくもある。これは、「古今集」など和歌で用いられた「掛詞」の応用である。

「六日、澪標みをつくしのもとより出でて、難波なにはに着きて、川尻かわじりに入る。みな人々、おむなおきな。かの船酔ふなゑひの淡路の島の大御おほいご、『都近くなりぬ』といふをよろこびて、船底よりかしらをもたげて、かくぞいへる。

いつしかと いぶせかりつる 難波潟 あしぎそけて 御船みふね来にけり」。

船は、ようやく京へ向かう川上りの体勢に入った、これで、ひどい風波に悩まされることもない。船酔いで寝ていたおばあさんの破顔も、眼に浮かぶ。

次は、怒である。

「かく別れがたくいひて、かの人々の、口網も諸持もろもちにて、この海辺にて担ひ出せる歌、

をしと思ふ 人やとまると 葦鴨の うち群れてこそ われは来にけれ

といひてありければ、いといたく賞でて、行く人のよめりける。

棹させど そこひも知らぬ わたつみの 深き心を 君に見るかな

といふ間に、、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」。

「本居宣長」第十三章の冒頭でも紹介されている、土佐出発のくだりである。見送りの人々は声を一つにして惜別の歌を詠み上げる。それに感動した前土佐守は、李白の詩を踏まえ心を込めて歌を返した。楫取りは、そういう微妙な機微も解することなく、しこたま酒を飲むと、「早く船を出そう」と騒ぐ。「いい気なもんだ!」というところだろうか……

最後は、哀である。

「二十七日。大津おほつより浦戸うらどをさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、女子をむなご、このごろの出立いでたちいそぎを見れど、なにごともいはず、京へ帰るに、。ある人々もえたへず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、

都へと 思ふをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりけり

また、あるときには、

あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらととふぞ 悲しかりける」。

貫之には、京で生まれ、若い妻とともに土佐に同行したものの、当地で亡くした女児があった。すでにこの世にいないことを忘れて、「あの子はどこに?」と自問してしまう悲しさよ……

「四日。……この泊りの浜には、くさぐさのうるわしき貝、石などおほかり。かかれば、、船なる人のよめる、

寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ

といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、

忘れ貝 拾ひしもせず 白玉しらたまを 恋ふるをだにも かたみと思はむ

となむいへる、女子をむなご」。

「むかしの人」とは、亡児のことである。悲歌を詠む「船なる人」も「ある人」も、作者の分身としての貫之自身なのであろうか。忘れ貝は拾わない、白玉のようなあの子を恋い慕うこの気持ちを持ち続けることだけが、あの子の形見なのだから……

なお、「女子のためには親幼くなりぬべし」という表現は、貫之の最大の庇護者であった藤原兼輔の歌「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな」(「後撰和歌集」十五)を念頭に置いたものと言われている。ちなみに、兼輔は紫式部の曽祖父であり、「源氏物語」の中にも、この歌の趣旨を踏まえた表現が二十六箇所にも及んでいることは、前稿で紹介した通りである。

「池めいてくぼまり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年いつとせ六年むとせのうちに、千歳ちとせやすぎにけむ、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、『あはれ』とぞ人々いふ。思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、女子をむなご。船人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ、ひそかに心知れる人といへりける歌、

生まれしも 帰らぬものを わか宿に 小松のあるを 見るが悲しき

とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ。

見し人の 松の千歳に 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや

忘れがたく口惜しきことおほかれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ」。

前土佐守の一行は、なんとか京の家に到着した。しかし、しばらくぶりに眼にした、家屋や庭は見るも無残な廃屋のように荒れ果てていた。しかも、この家で生まれたあの子は帰ってこない。そこに、小さな小さな松が生えていた……

ちなみに、貫之が心底慕っていた藤原兼輔は、貫之の土佐在任中の承平三年(九三三)に亡くなっていた。貫之は、帰京後、兼輔のいない屋敷を訪れ、そこに松と竹があるのを見て、次の二首を詠んでいた。

松もみな 竹も別れを 思へばや 涙のしぐれ 降るここちする

(貫之集 第八 七六七)

陰にとて 立ちかくるれば 唐衣からころも ぬれぬ雨降る 松の声かな

(同、七六八)

前者の歌意は、松も竹もみな故人との別れを惜しんで泣いているのか、涙が時雨しぐれとなって降っているようだ、である。後者は、松の木陰に故人を偲ぼうと身をひそめると、松籟しょうらい(*3)が、その死をいたむ涙の声となって、衣を濡らさずに降りそそぐ雨音のようだ、という歌意である。

わけても、後者は、兼輔の生前、その屋敷で酒宴が開かれた時に詠んだ歌でもあった。その時の歌意は、松の木陰に隠れると、松籟が、まるで衣を濡らさずに降る雨音のように聞こえます。ご主君(兼輔のこと)のお蔭で、厳しい世の中に泣く思いをすることもなく、ありがたい限りです、である。このように、貫之はまったく同じ歌を、歌意を替えて人生で二度詠んだ。彼にとって、その松は、兼輔の面影をありありと思い出させるものだったのだ。

 

土佐への赴任中に、貫之が失ったかけがえのない人は、女児と兼輔だけではなかった。延長八年(九三〇)には醍醐天皇が崩御、その諒闇りょうあん(*4)のなかで、兼輔の母が亡くなった。さらには、承平元年(九三一)には宇多天皇が崩御。翌年には、もう一人の庇護者であった藤原定方が逝去していた。

なかでも醍醐天皇は、貫之にとって、距離的に必ずしも彼方かなたの人ではなかった。「古今集」編纂の発案者であり、歌人としての力量や編集実務能力に長けた撰者の一人として、三十代前半の貫之が選ばれていた。彼は、当時のエピソードを「貫之集」のなかの一首の詞書として遺している。

延喜えんぎ御時おほむとき大和歌やまとうた知れる人を召して、むかしいまの人の歌奉らせたまひしに、

承香殿しようきやうでんひんがしなるところにて歌らせたまふ。の更くるまでとかういうほどに、

仁寿殿じじゆうでんのもとの桜の木に時鳥ほととぎすの鳴くを聞こしめして、四月六日うづきむいかの夜なりければ、

めづらしがりをかしがらせたまひて、召し出でてよませたまふに、奉る

こと夏は いかが鳴きけん 時鳥 今宵こよひばかりは あらじとぞ聞く

(貫之集 第九 七九五)

友則とものり、紀貫之、凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねら四人の撰者は、延喜初年から四年(九〇一~九〇四)頃の初夏、内裏の奥深く、天皇の居所である清涼殿からほど遠くない承香殿のなかの東の一隅を供されて、編集作業に没頭した。気付けば深夜、仁寿殿の桜の木で、その年最初の時鳥が鳴いた。その声を聞いて心動かされた醍醐天皇から歌を所望され、貫之が詠んだのが、「こと夏は……」の歌である。

さらに、その醍醐天皇の父である宇多天皇も、和歌への関心は深かった。その治世では、「寛平御時后宮歌合かんぴょうのおおんときのきさいのみやのうたあわせ」「是貞親王家歌合これさだのみこのいえのうたあわせ」などの催しを行い、二十代前半の貫之も出詠していた。ちなみに、両歌合は、後に編纂された「古今集」の重要な撰集資料ともなった。

以上見てきたように、貫之は、土佐への赴任中に、文字通りかけがえのない人たちを失ってしまった。私には、「土佐日記」に記された、船旅のなかで実感した喜・怒・哀・楽、わけても女児をなくした哀しみには、貫之が日常生活のなかで体験してきた出来事や、親交を結んできた人たちのおもかげが、より奥行の深いところで凝縮、表出しているように思われてならない。

 

ところで、三十代前半の若き貫之は、「仮名序」にこのように記していた。

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神おにがみをもあはれと思はせ、男女をとこをむなの中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」。

和歌は、人間の心を種として生い茂った、とりどりの「言の葉」だと言えよう。この世に暮らしている人間は、様々な出来事に遭遇するものなので、その折々の心情を、見るもの聞くものに託して言い表す。……力をも入れないで天地を動かし、眼に見えない「おにかみ」の心をも感じ入らせ、男女のあいだをも和やかにして、勇敢な武人の心さえも和らげるのは、歌なのである。

ひと麿まろ亡くなりにたれど、歌の事とどまれるかな。たとひ、時移り、事去り、たのしび、かなしび、ゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散りせずして、正木のかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎていまを恋ひざらめかも」。

柿本人麻呂かきのもとのひとまろが亡くなってしまっては、歌の道も途絶えてしまうように思うが、今の世に留まって、この集を編んだ。たとえ時代が移り変わり、出来事も過ぎ去り、楽しいことや哀しいことが行き来しても、この歌という名は長く存在し続けるだろう。物事の深意を感得している将来の人は、大空の月を観るように、歌の興った昔を仰ぎ見て、「古今集」が成った今を恋しく思うに違いない。

 

それから約三十数年後、「土佐日記」を書き上げた六十代後半の貫之は、こんな心持ちではなっただろうか。「おにかみ」のこころを動かし、男女の仲を和やかにし、武人の心も和らげるという功徳は、和歌ならではのものだと思っていた。しかし、思い立って、漢文とは違う身軽な文字である仮名で和文を書いてみると、まったく同じ功徳を体感した。「仮名序」に記した和歌の本質は、和文においても見事に通貫するものだったのだ!

ところで、先に「土佐日記」における具体例を示した、喜・怒・哀・楽を感じる、ということは、自らの動くこころを知る、ということであろう。小林先生が本文で繰り返し述べているように、「すべて人の情の、事にふれてうごくは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」)と述べた宣長は、「物のあはれを知る」ことを論じる起点として「仮名序」を選んだ。ここで私が感じた貫之の心持ちは、宣長も実感したところでもあったと想像してみることは、過ぎたことではないように思われる。

 

ともかくも、本稿では「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕え」た貫之による「和文制作の実験」の仔細を見てきた。冒頭で紹介したように、小林先生は、宣長を驚かしたのは「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところ」だと言っている。

それでは、のちに「源氏物語」を書いた紫式部は、その方法をどのように応用したのだろうか。いや、その前に、前稿で触れたように「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部は、自身の曽祖父兼輔を心底から敬愛してやまなかった貫之、さらには兼輔の長男すなわち我が祖父雅正とも個人的な悩みを分かち合う友であった貫之と、「古今集」や「土佐日記」などを通じて、どのように向き合ったのであろうか。

 

 

(*1)貞観十年(八六八)頃~天慶八年(九四五)頃。平安前期の歌人、歌学者。歌集に「貫之集」など。

(*2)入唐僧によるものとしては、慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」。太政官によるものとしては、「外記日記」「内記日記」など。

(*3)松の梢に吹く風、その音

(*4)天皇などの喪に服する期間

 

【参考文献】

・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

 

(つづく)