読書について

磯田 祐一

私は、二年前に東京の神楽坂で毎月開講されていた新潮講座「本居宣長」に初めて参加した。講座の内容は、第九章の中江藤樹、伊藤仁斎についてであった。講義前のフリートークの時間に、読書の仕方について、講師の池田雅延塾頭に質問した。「中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠、そして宣長と、みな読書の達人と小林秀雄先生は言われましたが、どのような読み方なのか何かヒントがあるでしょうか」という主旨の質問であった。小林秀雄先生の「学問」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)に次の一文がある。

「仁斎の読書法では、文章の字義に拘泥こうでいせず、文章の語脈とか語勢とか呼ぶものを、先ずつかめ、と教える。個々の動かぬ字義を、いくら集めても、文章の語脈語勢という運動が出来上るものではない。先ず、語脈の動きが、一挙に捕らえられてこそ、区々くくの字義の正しい分析も可能なのだ。(中略)歌に動かせぬ姿がある如く、聖人の正文にも、後人の補修訂正の思いも寄らぬ姿がある」(第24集p.20)

「歌に動かせぬ姿がある如く」、その姿が現れるまで読みこなすということが、本に向き合う態度なのである。

話をもとに戻そう。さきの私の質問に対して池田塾頭は、「語意を追わずに、行間を読むということです。小林秀雄先生の読書も同じです」という内容のアドバイスをされた。私には、その言葉の示すことがよく呑み込めていなかった。ただ、漠然と詩を読むように、何よりも感じることが先であると思っていた。詩の意味を理解することは不可能だからである。

山の上の家の塾の学びを重ねるにつれ、まず、歌や文の「かたち」を繰り返し模倣することで、「姿」に出会うことができると思うようになった。「行間を読む」という作法について、小林先生が徂徠の素読にまつわる「告白」の中で、私に教えてくれた箇所がある。

「例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も『見るともなく、読むともなく、うつらゝと』ながめるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。『本文』というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。(中略)もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう」(同第27集p.116)

 

読書とは、内的視力を要するもので、裸の言葉との交渉持つことであって、小林先生は、「仁斎の心法」について「『心目ノ間ニ瞭然タラシム』る心法を会得えとくしなければ、真の古典批判は出来ぬ、と仁斎は考えた」と書いている(同第24集p.21)。これは、心法という便利な方法があるのではない、時間をかけて古書の内部に入込み、「物」の「かたち」を捕らえるということである。

ここで、「かたち」を持ち出したのは、作品を作る側の作者にとっても、作品という「かたち」を生み出す苦心が心法を用いることになると考えられるからである。それは、自分の心の動きを見定める必要に迫られるということである。

作者が作る「かたち」は、単なる文章の形式ではなく、宣長の言う「かたち」という言葉がぴったりと来る。この「かたち」については、歌を題材にして第二十三章に詳しく述べられている。「『あゝ、はれ―あはれ』という生まの感動の声は、この声を『なげく』『ながむる』事によって、歌になる」(同第27集p.258)。―むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのずから、ほどよくアヤありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、かならずコトなる物にして、(「石上私淑言」巻一)(同第27集p.259)。

感動することとながめることは一緒のことだとわかるだろう。同時に私達はそのような行動を取ると言った方がよい。言語組織の動き、働きによって作られるものが歌の「かたち」となる。この「かたち」は感動を導く仕方と言ってよいものだが、宣長は、ただの言葉とは区別しているのである。

 

また、第二十三章の宣長の「つくゞと見る」という言葉と、徂徠の「見るともなく、読むともなく」読む素読が、重なり合って見える。宣長は、つくづくと見るを奈我牟流ナガムルというので、「ながむる」という語源を辿り、「あゝ、はれ―あはれ」という生の感動の声は、この声を「なげく」「ながむる」ことによって、歌になる、と言う。歌うことと「ながむる」と「つくゞと物を見る」は、繋がっている。読書とは、本をつくゞと「ながむる」ことだと思えば合点が行く。余計な意味など洗い流して、たゞ、見るのである。

「物思ふときは、常よりも、見る物きく物に、心のとまりて、ふと見イダ雲霞うんか木草にも、目のつきて、つくゞと見らるゝものなれば、かの物おもふ事を奈我牟流ナガムルといふよりして、其時につくゞと物を見るをも、やがて奈我牟流といへるより、後には、かならずしも物おもはねども、たゞ物をつくゞ見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし」(『石上私淑言』巻一)(同p.262)

「うつらゝ」として意識が朦朧もうろうとする中で見えてくる、「つくゞと見る」ものが「かたち」である。行間を読む読書を、「かたち」が見えてくるまで何度でも繰り返すという努力が読書の達人たちの工夫であった。

そこで、読書とは、内的視力を要するもので、裸の言葉と交渉を持つことだとすれば、裸の言葉とはどのような言葉であろうか。それは、歌であり、詩の類であろうか、「たゞの詞とは、必異なる物」である。内的視力が働く時を私の日常から切り抜いてみる。相手は、素の子供の感想文である。

実家を整理していたら、小学一年生の時の自分の作文が見つかった。五十音をやっと覚えた最初の作文で、五十五年も経っているので、まるで碑文のごときものであった。難解な言葉などあるはずもなく、単純で、余計な修飾語などない文である。淡々と事実だけが書かれている。題は、「ぶんちょう(文鳥)について」である。しかし、反って新鮮であった。私は、思い出すという以外に何もしていないし、裸の言葉とはこのようなものでないかと思った。言葉の「かたち」という原型に出会ったように思えた。どんな意欲も持たない、目的のない言葉が、裸の言葉であって、無心な心の印を発見したようである。

 

「言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼(徂徠)の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている『事実』も『事』も『物』も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像に描き出す絵である。各人によって、思い出す上手下手はあるだろう。しかし、気儘きまま勝手に思い出す事は、誰にも出来はしない。私達は、しようと思えば、『海』を埋めて『山』とする事は出来ようが、『海』という一片の言葉すら、思い出して『山』と言う事は出来ないのだ」(同第27集p.117)

さらに小林先生は、宣長になり代わったように、このように言っている。

「空理など頼まず、物を、その有るがままに、『天地はたゞ天地、男女メヲはたゞ男女メヲ水火ヒミズはたゞ水火ヒミズ』と受取れば、それで充分ではないか。誰もが行っている、物との、この一番直かで、素朴な附き合いのうちに、宣長の言い方で言えば、物には『おのゝその性質アル情状カタチ』が有る、という疑いようのない基本的な智慧ちえを、誰もが、おのずから得ているとする」(同第28集p.40)

 

現代の科学的な、合理的な事実とはほど遠い性質アル情状カタチを直に見ることが宣長の読書であった。性質アル情状カタチを明らかにするとは、言葉本来の力による、と小林先生は言う。それは、言葉の素直な働きに身を任すということである。そこに、行間のリズムや呼吸が生まれる。読者が文章の間に乗せられるということが、起こる。「悲しみを、そっくり受納れて、これを『なげく』という一と筋、悲しみを感ずるその感じ方の工夫という一と筋を行く。誰の実情も、訓練され、馴致じゅんちされなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その『かたち』を『つくゞと見る』事が出来る対象とはならない」(同第27集p.263)

 

本の行間を読むとは、まずは、その純粋な表現性に触れて、作品のもつ「かたち」を明らかにしていくことではないだろうか。強いて言えば、「感じ方の工夫」という一筋を行く、作者という人間のモデルに出会うことではないのか。

(了)