「不適切にもほどがある?」

荻野 徹

いつものような『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女。今日は、三十二章を話題にしているようだ。

 

 

凡庸な男(以下「男」) 孔子は、「本当に『詩』を学んだ人なら、政治家となり、他国に使し、誰と会って、どんな応対をしなければならぬ事になっても、適切で、完全な言語表現が発明出来る筈だ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集10頁)と考えていたようだけど。

元気のいい娘(以下「娘」) いいね!理想の政治家像じゃん。

生意気な青年(以下「青年」) そうかな。なんか、テレビで人気のお笑い芸人さんみたいのが思い浮かぶな。

娘 えっ、話が飛びすぎてない?

青年 あのさ、テレビ見てると、どんな話題でも気の利いたことを言って、みんなを笑わせる、もっともらしくて、よく言えば当意即妙だけど、どこか表面的な、そういうタイプの人って、いるよね。

男 それはそうだ。

青年 今って、そういうタイプがもてはやされる。どんな相手でも、どんな応対でも大丈夫なんていわれると、そういう妙な連想をしてしまうね。

男 確かに、「三百編の詩を学べばどんな相手でもオーケー」だなんていうと、まるでハウツー本だね。

江戸紫が似合う女(以下「女」) 何仰るの、違うわ。さっきの引用箇所のすぐ後に、こうあるでしょう。

「『詩』が教えるのは、凡そ言語表現の基本であって、詩術という格別なものではない。『詩』の内容は、民衆の述懐を出ないのであるが、その自在な表現には驚くべきものが見られる」。(前掲書10頁)

娘 「詩術という格別なものではない」ってあるね。

青年 もちろんそれも読んでる。内容は民衆の述懐の域をでないけど、「自在な表現には驚くべきものが見られる」とある。「自在な表現」ってとこがポイントじゃないかな。

娘どういうこと?まだ、脈絡がつかめないわ。

青年 だからさ、詩三百編というのは、要するに用例データベースみたいなものでさ、そこから、場面場面で必要な表現を選び出す、その選択のスピードと適切さを磨くことが、「学ぶ」ってことなんじゃないかな。

男 ChatGPTみたいだね。

青年 AIに、「寸鉄人を刺すコメントを」って頼めば、リベラルな言論人風でも、タカ派政治家風でも、なんか気の利いたセリフを生成してくれそうだ。

女 「でもそれはもっともらしいけど表面的じゃないか」と仰りたいわけね。それで、お笑い芸人さんがどうのこうのとか、変なたとえ話をするんだ。

青年 まあ、そうだな。そういうセリフがもっともらしいというのは、結局は、出現頻度が高いというか、よくありそうな、ということに過ぎないのでしょう。

娘 それはそれで、いいじゃん。

男 確かに、やたら、不適切にもほどがある発言を繰り返す政治家より、ずっとましかな。

青年 まあね。でも、それは、必要条件にすぎないというか、それだけじゃだめでしょう。他国に使いしてどんな相手が出てきても何とか大失敗はしない、というのではなくて、相手の心を動かして、所期の目的を達成するところまでいかなくては、一国を代表する使者としての役割は果たせないよ。

娘 相手の心を動かせるかどうかが、そこが腕もみせどころだね。

男 心を動かすテクニックみたいなものがあるかな?

女 いや、テクニックなんて言うと、抽象的というか、外在的と言うか、個別の人間関係や具体的な場面を離れて、自覚的に操作可能な人間の行動のパタンみたいなことになってしまうけど、そうではなくて、発話する人の内面が大事だと思うわ。

男 相手の心を動かすのに、発話する側の内面が大事なわけ?

女 ええ。誰しも、他人の心の中なんて結局わからない。発話する側も、それを受け止める側も、それはお互い様よね。でも、たぶんこうだろうとか、きっとこうに違いないとか、そう思うことは無意味ではないと思うの。

娘 相手の心は、自分の心のなかにあるってこと?

女 ええ。ロボットを夭逝した息子と信じて抱いて話しかければ、ロボットには心が宿っているんじゃないかしら。

男 AIに心が宿る日が来るのか。

女 そうよ。

青年 でも、愛する息子ならいいけど、敵対する他国の政治家が相手だと、話が違うんじゃない?

女 もちろん違いはあるわ。でも、ある手練れの元官僚が、「物事は51対49でしか落とせない。相手も自分が51取ったと思わない限り交渉は決裂する」(注)と言っている。ぎすぎすしたやり取りではあっても、自分の言いたいことを一方的にまくし立てているだけではないの。

男 なかなか含蓄のある話だけど、孔子の時代はどうだったのかな。本当に、詩経だけでよかったのかな?

女 民衆の述懐の集成だけれど、そこに言語表現の基本が示されているから、その在り様をきちんと身につければ、どんな場面でも、適切で完全な言語表現が発明できるということじゃないかしら。

男 なんか、縁遠い話だね。「詩経」を読まないと、言葉の使い方の基本が身につかないって、孔子がそう言っているの?

女 荻生徂徠によれば、そういうことになる。徂徠は、後世の他の注釈家の言を排して、孔子がその当時何を考えていたか、正面から向き合おうとしたのね。

娘 でも、『本居宣長』のこの辺りって、難しくてよく分かんないよ。

男 確かに、徂徠の学問を正確に理解するなんて、遠い話だよね。村岡典嗣や丸山真男が徂徠をどう理解していたか、小林秀雄先生がそれをどう評価したといったことは、学問の積み重ねとして軽々に扱ってはいけないけれど、そこに滞留してその先を読み進められないというのも、なんか口惜しい話だね。

女 そうよね。だから、ちょっとずるして読み飛ばしてしまいたくもなるけど、でも、徂徠の、というか、徂徠の説くところの孔子の、というか、人間の言葉に関する徂徠の考え方は、私たちがこの本を読み進めるうえで、なにがしかヒントを与えてくれるような気もするのよ。

娘 どういうこと?

女 もちろん「詩経」自体は、私たちにとって、異国の、しかも古代の詩集にすぎない。でも、そういう縁遠い言葉であっても、それをめぐる徂徠の考察が人間にとって言葉とは何かという問題の深いところまで行きついていれば、私たち自身が国語について考えるときの手がかりになるかもしれない。

娘 具体的にいうと?

女 徂徠によれば、「詩」というのは、聖賢の格言といった意味内容のはっきりした言葉を意識的にきちんと整理したというものではなく、人々の日常生活から生まれた微妙で婉曲な表現のあれこれが時間の経過を経て後世に伝えられたというものよね。

娘 人々の喜怒哀楽とともに生み出された無数の表現の、エッセンスみたいなものだ、といいたいのかな。

女 ええ。そういうところから、言葉というものが、どんなふうに発生し成長してきたをうかがい知ることが出来る、そんなかんじかな。

青年 それで、「興の功」とか「観の功」とかの話になるわけ?

女 うーん。徂徠の学問そのものとなると、正直、ハードルが高いけれど、言葉について考えるときのヒントは得られるような気がするの。

娘 どんなこと?

女 「言語は物の意味を伝える単なる道具ではない、新しい意味を生み出して行く働きである」(前掲書13頁)と書かれているでしょう。単なる「伝える」道具ではなく、新しい意味を生み出している働きだって。

娘 働きって?

女 言語の本能としての比喩の働きのことを言っている。意識的に使用される普通の意味での比喩ではなくてね。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテ已(ヤ)マズ」(前掲書12頁)と、徂徠は言っているけど、そういう言語の意味の発展の動力が、本来言語に備わっている比喩の働きだということかな。

娘 本来備わっているの?

女 ええ。比喩とか、たとえという言葉自体、人類の文明がそこそこ発展した段階で生まれたものよね。人がおぎゃあと生まれたとき、そこには既にその人にとって母語となるべきものが存在していて、人間が成長するとうことは周囲に影響を受けながら母語を習得していく、そういうことが常態になってからのことよね。

青年 それで、本来ってのは、どういうことさ?

女 こっからさきは、私の妄想よ。

男 はいはい、どうぞどうぞ。

女 たとえば、あくまで、たとえばの話ね。とっても大昔、太古の時代に、まだ夕陽って言葉も、その色を表す言葉も持たない人々が、夜暗くなる少し前に大空の一方向を眺めると、一面が燃えるような色に染まっている。そのときのお日様は、夜明けどきの神々しい輝きとも、空の真上でじりじりと地面を焼き尽くすようなまぶしさとも違っていて、夕陽に照らされていると、人々の胸の中に、なにか優しいような寂しいような思いが込み上げてくる。そしてね、誰かが、赤い夕陽みたいな言葉の原型を口走り、ほかのみんなも使いだしたとするでしょう。

青年 あなたの妄想に付き合うと、その赤いという言葉は夕陽と言う天象の譬えでもあり、同時に、夕陽という言葉は赤いという色彩の譬えでもある、ということかな?

女 そうそう、珍しく気が合うわね。言葉を使うということと、何かを何かで譬えるということとは、言葉がうまれる原初の段階では、区別できないんじゃないかしら。

青年 それが、言葉に本来備わっている比喩の働きという言い方の意味するところだと、そう妄想しているのね、オタクは。

女 そうよ。言葉が生まれ出るときの、その言葉を生みだす人の心の働き方って、そういうことじゃないかと思うの。心が動くっていうのは、言葉による譬えが働いているということなんだわ。

男 おやおや。

女 それでね。

青年 まだあるの?オタクの妄想。

女 それでね。時代が下って文明が発展すれば、言語も発達して、森羅万象を覆いつくすような沢山の言葉も生まれるし、比喩とか表現とかいうような言葉自体についての抽象的な概念を表す言葉も出来て来る。そして、さっき言ったように、言語というものが、個々人にとっては所与の存在になるでしょう。私たちは、いったん出来上がってしまった言語の中で言葉を習い覚え、考えることも感じることも、その言語の中で行っている。だから、その外に出て、言語がどうして生まれたかなんて、考えることもできないんだわ。

青年 それはそうだね。今や、あなたがまくし立てた赤い夕陽の光景なんて、まさに妄想としてしか語れないよ。

女 そうなの、妄想よ。でもね、もし、「詩経」のような古い文章のなかの民衆の素朴な述懐に、太古の昔からの人々の心の動き方や、言葉によって心が動くあり様が隠されているのだとすれば、「詩三百を学ぶ」ことは、言葉の本来の働きかた、つまり、人間の心の本来の動き方を知ることにつながるんじゃないかしら。

男 そこまで言うかな。妄想と断れば何言ってもいい訳ではないと思うけど。

女 そうかもしれないけど。でも、こんなふうに心が動くことも、言葉の働きなんだわ。すくなくとも、不適切ではないでしょう。

 

四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。

 

(注) 読売新聞(京都版)2024年2月27日付け『始動、新京都市長(第9回)』(岡田優香記者)で引用される今井尚哉氏(経産省出身で安倍晋三総理の首席秘書官を務めた)の発言

 

(了)