本誌前号に掲載した「作家の表現力に学ぶ人間の力」において、私は「表現力」について考えた。今回の自問自答では、その延長として、「うまく表現できないもどかしさ」について考えたい。というのも、本居宣長は、はっきりした考えがあっても、うまく説明できない、もどかしい、そんな困難が要所で文章に現れる人物である、と小林秀雄先生が「本居宣長」の中で何度も繰り返していたからである。
初めに確認したいのは、「本居宣長」の全編にわたって、小林先生が宣長のもどかしさについて述べている箇所である。
たとえば、宣長にとって「源氏物語」はいかなるものであったかについて、小林先生は次のように言う。
――だが、この自分の「源氏」経験を、一般的な言葉で言うのは、彼には、大変面倒な事であった。彼は、「紫文要領」のなかで、それを試みているがうまくいっていない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.140)
同じ「紫文要領」の問答体の部分について、次のようにある。
――しかし、問う者だけを責められない。宣長も、勝手に、「物のあはれ」に、限定された意味を附しながら、このどうとでも取れる曖昧な言葉以外の言葉を持ってはいないからである。平俗に質問されれば、彼は平気で、同じ言葉を平俗に使っている。従って、この辺りの宣長の評釈文は、一見混乱しているのだが、宣長自身が、問いを設けた文章である以上、混乱は、筆者によく意識されているのであって、その意のあるところを推察して読めば、極めて微妙な文と見えて来るのである。(同第27集p.154〜5)
あるいは、次の箇所である。
――ところが、面白い事には、宣長は、飽くまで相手に、勝手な問いをつづけさせ、自ら窮地に陥って見せている。明らかに、問題の微妙に、読者が気附いて欲しいというのが、宣長の下心なのである。(同第27集p.155〜6)
「あしわけ小舟」を詳しく述べる前段には、次のように書かれている。
――これが、宣長の眼に映じていた歌の伝統の姿であったが、彼にしてみれば、それは、直知という簡明な形のものだったに相違ないが、面倒は、その説明にあった。(中略)「紫文要領」で、「あはれ」の説明に苦しんだと同様な事が、「あしわけ小舟」の問答体で既に起っているのが面白い。(同第27集p.243〜4)
ここまでは、和歌や「あはれ」が話題の中心であるが、「古事記」の話に移っても、宣長の調子は変わらない。
――しかし、問題の本質的な困難は、「受行ふべき道なき」を道とする「神の道」が、「道といふことの論ひ」で、説明がつくわけがないというところにあった。そして、言うまでもない事だが、これにはっきり気付いていたのは、宣長独りであった。「古事記」を「かむがへ」て、得られた確信が、いよいよ明瞭になるとは、これを分析的に説く事が、いよいよ難かしくなる事に、他ならなかったからである。(同第28集p.36)
あるいは、「おのづから」ということについて、一見似て見える老荘思想と神の道については次のようにある。
――彼の体得したところには、人に解り易く解いてみせる術のないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。(同第28集p.126〜7)
一旦、引用を止めよう。それぞれの文章が、その時、小林先生が焦点を当てている問題についての記述であることに注意したい。本来は、それぞれ宣長の書いた本文と合わせて読まれるべきものである。だから、単純に、宣長がうまく説明できない箇所には共通点があるなどと語るのは無理である。しかしながら、どの著作を読んでいても現れる宣長のもどかしさを、小林先生がその度に付き合い、向き合ったという事実、その歴史が「本居宣長」という形になっているということが肝要だと、私は考える。
以上、前置きが長くなったが、私が問いたいのは、小林先生は、どういう心持ちで、宣長の説明のうまくいかなさ、もどかしさと向き合っていたか、ということである。このことを「訓詁」という言葉を手掛かりに考えたい。
訓詁とは何か。先に「あしわけ小舟」について小林先生が語っているところを引用したが、そこをさらに進んでいくとこういう言葉がある。
――彼には、難問が露な形で、見えていた。避けて通る事は出来ないし、手際のいい回答は拒絶されている。「秘スベシ秘スベシ」とは、問題に、言わば当たって砕けるより他はない、という彼の態度を示す。この態度から、磨かれぬ宝石のような言葉が、ばらまかれて行くのだが、私が、煩をいとわず、これを追うのも、私の仕事の根本は、何度くり返して言ってもいいが、宣長の遺した原文の訓詁にあるので、彼の考えの新解釈など企てているのではないからだ。(同第27集p.253)
宣長は、決して、難問に対して論理明快な答えや説明を示さない。だから、ときにもどかしそうな書き様になる。しかし、それを等閑視して、彼の意見は要約すればこうであると断定してしまえば、議論は円滑に回り出すように見えて、空転するにすぎないのである。小林先生は、宣長と徹底して付き合うことの困難、面倒を隠さず率直である。裏を返せば、難問に対して、こんなことは造作もない、と簡単に済ますことも素通りすることもないのである。徹底して考える宣長に、徹底して付き合う。それが小林先生にとっての訓詁の根幹であった。
この訓詁のあり方について、「あしわけ小舟」の訓詁に一区切りをつける段になって、小林先生は次のように言う。
――宣長から、わかりにくい文ばかりいくつも引用し、これを上手に解説も出来なかったのは、読者が見られた通りだが、わかりにくい例証を、私が、先きに磨かれぬ宝石のようなと形容したのは、そこに見えた宣長の露わな姿を言ったので、磨いてみたいというような意は、少しも含まれてはいなかった。歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。(同第27集p.265)
「磨かれぬ宝石を、磨いてみたいわけではない」という小林先生の言葉に、訓詁のあり方が表現されている。宣長にとって難問が、「上手に解かねばならぬ問題の形」で現れなかったように、宣長の「わかりにくい文」は、小林先生にとって、わかりやすく解こうとしてはならない問題であった。訓詁の仕事は、解釈や解説とはっきり違うものだったのである。
上手に解こうとしてはならない、ということに関連して、もう一つ引用しよう。熊沢蕃山が「三輪物語」の中で、神書の「あやしさ」を処理しようとする、その態度に対して、小林先生は宣長とともに次のように言う。
――宣長に言わせれば、この理由は、基本的には、極めて簡単であって、それは、「世ノ中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」ところに在る。この「さかしら」が、学者等と神書との間に介在して、神書との直かな接触を阻んでいる、というのが実相だが、彼等は、決してこの実相に気附かない。何故かというと、彼等の「さかしら」は因習化していて、彼等はその裡に居るからだ。彼等は、神書の謎に直面した以上、当然これを解かねばならぬという顔をしているが、実は、解くべき謎という、自分等の「さかしら」が作り上げた幻のうちに、閉じ込められているに過ぎない。(同第28集p.120〜1)
現在の自分にわからぬ「謎に直面」して、それに答えがあるはずだ、「解かねばならぬ」と構えれば、謎が謎でなくなる。後は解きたいように解くことになるが、それで本来の謎が何か意味を持って、私たちの人生に関わったことになるだろうか。謎と「直かに接触」するには、解こうとしてはならない。小林先生は、ただ宣長の行った道を、余計な外の概念、「さかしら」に惑わされずに辿り続ける覚悟をもって、宣長がもどかしそうに説明しているところに出会っても、いや、出会ったときこそ易きに流れず、もどかしさも含めて体得しようとする。それが、小林先生の訓詁、もどかしさと「身交ふ」方法だったのではないだろうか。
最後に、池田雅延塾頭が主宰する「本居宣長」精読十二年計画も、令和六年度で最終年度となる。私は、十二年を通して参加したわけではなく、最終年度が三年目にあたるが、ここまでの二年間で多くの学びを得てきた。そう自覚するからこそ、最終年度は、改めて「本居宣長」を謎であると再認識することから始めようと思う。すでに熟視し、自問自答した箇所についても、わがこととなっているか、いや、まだまだ付き合いが足りない。「わからない」を種として、その謎を解こうとせず、徹底して向き合い続けたい。
(了)