「この話が本当だったら、これは酷い話だと思います」と彼女は言った。彼女は司法修習生、司法試験に合格し、弁護士の卵として裁判官や検察官、弁護士について研修を受ける身分で、ぼくもしばらくの間、指導担当の弁護士として彼女と行動を共にした。冒頭の発言は、ぼくの事務所に来た彼女に最初に見てもらった、ある重篤な女性被害者の事件の記録を読み終えた後の彼女の第一声である。
ぼくは、彼女の感想を耳にして、失敗をしない人の模範的な回答だと思ったが、「この話が本当だったら」という言い回しには、身体の方が先に反応してしまい、咄嗟に言葉が口をついた。「この間まで裁判官にくっついて、刑事裁判を、そして、被告人をずっと観察していたから仕方ないのかもしれないけど、そんなんじゃ、弁護士にはなれないね」。
普段、弁護士として、法的な紛争を抱えた方々、人生の非常に厳しい局面の中で深刻な悩みに捕まえられている方々の相談を受け、何らかのご縁で事件として受任するまでに至った場合、当然事件を処理することになるので、交渉であれ、裁判所に訴え出るにしても、最終的に、その成果というか、厳然として結果がでることになる。そして、この事件処理の結果には、これまた当然、通り相場から考えて満足できる水準であるときと、そうではないときがある。ところが、そこから先が問題なのだが、この結果の優劣は、依頼者の方の満足や充実とは必ずしも一致しない。普通に業界の常識で考えて充分な結果、たとえば、相当な賠償額を認める判決が下されても、満足されないどころか不満を抱えたままに留まる方もいれば、反対に、ぼろぼろだと云ってもよいような成果しか得られなかったにも拘わらず、ぼくの仕事に感謝さえされたり、実際に立ち直っていったり、前向きに人生をやり直されていく、もう一度人生の現実に立ち向かっていく気力を回復される方もいる。
この眼に見える結果だけが人を支えるのではないという不思議は、もう20年も前に弁護士になったときから感じていたことで、あるいは弁護士になるもっと以前から、それこそ小林秀雄先生の著作を読んだり、音楽でも何でも一流の芸術作品に触れたような機会にうすうすは感じていたことなのかも知れないのだが、弁護士という仕事を日々積み重ねていく中で、依頼者の満足、もう一度明日に懸けてみようと思って貰えるまでに気持ちが持ち上がること、その切実さが年を重ねるごとに身にしみて感じられるようになってきている。
そして、どのように依頼者に寄り添えばよいのかを考える上で、殊の外大切だと思えるようになってきたこと、あるいは知らぬ間に自分が実践していたことは、依頼者でも、関係者でも、その人の語る出来事や物語を有りの儘に受けとめるということである。この点で、同じように事件を扱っていても、白黒を決める立場にある裁判官とは、代理人弁護士の場合、事象の捉え方が決定的に異なるように思われる。裁判官は、刑事事件なら有罪か、無罪か、本当にやったのかどうかを決めなければならないし(人間追い込まれ切羽詰まると奇想天外なことまで言ったりしたりするもので、普段被告人から様々な突拍子もない言い訳を聞かされている刑事の裁判官などは法廷で被告人に対して「お前にだけは騙されないぞ」というような顔をしているものである)、民事事件でも、原告を勝たすのか、被告を勝たすのか、証拠に基づいて事実があったのかなかったのかを(本当は自分は全能ではないにも拘わらず)あたかも空の上から過去に現場を俯瞰していたかのように、あるいは、残された映像を再生するかのように、つまりはたった一つしかない(客観的)事実を認定していくことになる。しかし、実際には事件で関係者の意見や証言すら食い違うようなことは日常茶飯事であるし、そもそも事実が一つだと考えることの方が無理があって物事の実態に合致しないようにしばしば感じられる。このように事実関係が一つではない、少なくとも、その感じ方、現れ方が一つではあり得ないことを前提にすると、一層今人生の問題に悩んでいる一人一人が語るその人にとっての真実の物語を有りの儘に受けとめる、その真実の体験を、(他人である自分には難しいことではあるものの)むしろ、こちらの想像力を一生懸命働かせて、本当にあったこととして合点すること抜きには、今目の前で語ってくれているその人と交わることはできないのではないか。その人と本当に交わることができなければ、その人の魂は休まらないのではないかと痛切に思うようになった。
「思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である」とは「本居宣長」の中の一節だが(『小林秀雄全作品』第27集117頁)、過去の出来事について、自己の体験と同様、他人の体験を真実として受けとめる、そのために精一杯想像力を働かせるという心法は、(多くの場合に一つしかないと考えられている)客観的外形的事実からは離れて、いわば心の中に想像理に真実の別の物語や世界を創り出すことを可能にする。たとえ過去の出来事であっても、どの角度からみても変りのない銅像のように動かないものではなく、思い出そうとする人の心の有様ひとつで右にも左にも転がり得るのであるならば、私たちが共有しているこの時間や、これから起こるはずの出来事については、尚更心の持ちよう一つで想像裡に絵を描き出すことが可能となる道理ではないか。このよく思い出すという心法の鍛錬を積み、よりよく人と交わり、実人生という実践の中で、せめて私に語りかけてくれるその一時だけでも他人のこころに平和をもたらしたいと願っている。
「弁護士にはなれないね」とは「弁護士の仕事はよく務まらないね」という意味だったが、その後彼女は弁護士になった。「弁護士になった」とは勿論ただ弁護士資格を得たという意味ではない。共感力の強い、人の話に寄り添う、良い弁護士になったという意味である。それがぼくのところにいた数か月間の修習の成果であればとても嬉しい。
(了)