「トータルの宣長体験」とは

須郷 信二

2017年4月、リニューアルオープンしたばかりの、松阪の本居宣長記念館を訪ねた折、吉田悦之館長がしきりに、「トータルの宣長体験」、「全体としての宣長理解」と言われるのを聞いた。掛け軸、道具、衣服、家など、文献以外の展示にも力を入れて、宣長の人物像をより生き生きと甦らせようという、今回のリニューアルのテーマについて言われているのだと理解した。それは、初学者や、「他所他国之人」への「最初の一歩」を用意することにもなるのだろうと。しかし、もう少しお話を伺ってみると、そこには現在の宣長研究への批評が含まれているのに気づいた。「いまの研究者は、文献にばかり目を向けているが、宣長は足の人であり、目の人であり、耳の人でもあった」、と館長は言う。彼の薬箱を見て、これを提げて、一日十里以上歩いた宣長を思い描いてみる。自画像からは、彼自身の目の働きや、他者の眼差しへの意識を感じる。また、残された古鈴から、密やかな音色に耳を傾けている宣長の姿を想像する。文献研究にばかり焦点を絞り、しかも研究が細分化している、現在の研究者にこそ、こうした「トータルの宣長体験」が必要なのではないか、というわけだ。実際、館長は、「研究者のための”最初の一歩”も用意したつもり」と仰っていた。

 

小林秀雄は本居宣長の、思想と実生活との関係について、「両者は直結していた」(「本居宣長」第三章)と書いている。ただし、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた」と、宣長の自宅にあった、「取外し自在の階段」に比して書いている。宣長は、「本(もと)」と「末(すゑ)」ということを、強く意識した人であり、彼にとって学問が「本(もと)」だったには違いないが、 一方で、「慎重な生活者」宣長にとって、生活することと、考えることは、同じ意味を持っていたのではないだろうか。自らの衣服をデザインしたり、古鈴を書斎の壁につけるにはどうしたらよいかと思案したりすることと、「古事記」を研究することとの間には、区分はあったが、質的な差異はなかったのではないか。

宣長は、自らの医業について「ますらをのほい(本意)にもあらねども」と書くが、これは小林が言うとおり反語表現であり、医業についても、その他の生活についても、宣長にしてみれば、これを学問に比べて、低く見るつもりなどなかったに違いない。そのことは、本居宣長記念館に残された、沢山の遺物から、我々が直接に感知できることだ。さらに言えば、宣長の学問は、そうした彼の実生活の中で育まれたと言える。そのことを小林は、「やって来る現実の事態は、決してこれを拒まない(中略)そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た」と書く。医者としての生活、家長としての生活、松坂の人としての生活の中から、彼の学問が立ち上がってきたと考えるべきなのだろう。宣長の文体について、小林が、「生活感情に染められた」ものというのも、同じ意味と考えられる。

 

宣長の学問は、その文章にばかり捉われて見ていると、「思想構造の不備や混乱」ばかりが目に付くことになる。たしかに、排外的思想を説く時や、「古事記伝」に関する論争を読む時、宣長の姿は、しばしば、その文体の陰に隠れてしまうように見えることもある。吉田館長ですら、儒学者の「古事記伝」批判に論駁した「くず花」などを読む時、「さすがに宣長さんのこじつけではないか」と思うこともあるそうだ。そうした時、宣長が残した「物」に目を向けてみるとどうなるか。館長が、「宣長を思い出すための装置」と呼んだ奥墓や、彼の住んだ家や、薬箱や鈴は、何を語りかけてくるか。そこに、宣長の「生きた個性の持続性」 を直知できるのではないだろうか。『新潮』から連載の依頼を受けて、どう書いたものか考えあぐねていた小林秀雄が、大船から電車に飛び乗り、宣長の奥墓を訪れたのも、宣長の肉声を、あらためて聴くためだったのだろう。

 

さて、遺物から宣長に至るというだけなら、孔子のような古代人や、遺品・資料をほとんど全て処分して亡くなった(池田塾頭談)という小林秀雄のような人物に関しては、その道が閉ざされているという話になる。しかし、「トータルの宣長体験」という言葉には、文献を補完するものとして遺物がある、という以上の意味があるように思える。「物」という言葉を手掛かりに、もう少し考えてみる。

徂徠は、「物」という言葉を、「理」に対置させた(同第三十三章)。理は「形無し、故に準なし」というから、物は形あり、準あるものということになる、と小林は書く。目に見えて、定まりのあるものが物となる。それは徂徠にとっては、先王の遺した「礼楽」であり、「詩書」であった。徂徠は学問の中心に物を置いた。そのことを小林は次のように書く。「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ」。この学問の方法は、宣長に手渡され、彼は神代上代の事跡の上に現れた、「道」という物を学問の中心においたのである。「物」は、理のように明確に説明してくれないから、「くりかへし、くりかへし、よくよみ見る」しかない。それなら、我々にとっても、徂徠や、宣長がしたのと同じように、宣長の書物や、遺物を、等しい態度で迎え、我が物にすることが、宣長に最も近づく道、ということになるのではないか。 「物が、当方に来るのを迎え、これを収めて、わが有となす」、「格物致知」(同)という言葉が、ここに反響しているというと言いすぎだろうか。

 

小林は「文学者の味読」という言葉で、宣長の「論語」という「物」に対する態度について書いている。「論語」、「先進第十一」の中に、孔子の弟子の曾晳そうせきが「自分のやりたいことは、政治上のことではなく、友と一緒に、川辺で風に吹かれて、詩を詠じながら家に帰ることである(浴沂詠帰)」と語る場面がある。これに対して、孔子は、「喟然きぜん」として、「吾は点(曾晳)にくみせん」と答えたという。儒者はこのエピソードを、「どのような観念の表現と解すれば、儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか」としか捉えなかったが、宣長は「浴沂詠帰」にこそ孔子の意はあるとする。 「ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な『物のあはれ』の説の萌芽も、もう此処にある、と言ってもいいかも知れない」、と小林は書く。

宣長は、「玉勝間」では、「論語」の文章にもケチをつける。落語で有名な「厩火事」のエピソードで、孔子は「怪我人はいないか、と問うたが、馬のことは何も聞かなかった」とあるが、宣長は、「馬をとはぬが何のよきことかある。是まなびの子どもの、孔丘こうきうが常人にことなることを、人にしらさむとするあまりに、かへりて孔丘が不情をあらはせり、不問馬の三字を削りてよろし」、とする。ここには、本文すら、軽々と超えていく宣長の姿がある。

学問における、こうした宣長の態度は、彼の生涯の随所で顔を出す。先日の訪問時、記念館の収蔵庫で、吉田館長が、「続紀歴朝詔詞解」を取り出して見せてくださったが、その中の聖武天皇の宣命について、「天皇が冒頭、自分は三宝の奴、つまり仏の弟子だと述べる部分があり、宣長はこれについて、『あまりにあさましくかなしくて』と書いている」と説明してくださった。宣長は、さらに、心ある人はこれを読まないでほしいと書き、読みすら付けなかったそうだ(記念館HPより)。

宣長のこうした言説は、「傍観的な」読者にとって、恣意的な解釈にしか見えないのかもしれない。宣長の文章には、そうした躓きの元が随所にあると言ってもよい。だとしたら、我々は、これを非合理として退けるか、こうした物言いがどこから生まれたのか問い続けるか、どちらかしかない。宣長学における、いわゆる「宣長問題」にもつながるが、これについては稿を改めて考えてみたい。

ここまで考えてみると、吉田館長の発した「トータルの宣長体験」という言葉には、部分に拘らず、全体を眺めてごらん、という示唆を感じる。そうして宣長が遺した事物の全体に向き合った時、小林のように、 宣長の「生きた個性の持続性」に保証された、「思想の一貫性」を汲み出すことができるのだろうか。そんな問いを胸にしたまま、これからも松阪を訪ね、宣長の本文を読むのだろう、と今は考えている。

(了)