ボクもやってみた、本歌取り

荻野 徹

アノ、ここ、座っていい? この図書館ときどき来るんだけど自習室は受験生ばかりで息が詰まるから、宿題とかこのロビーで。「ほう、草庵集かい」って、オジサン知ってるの? 変な宿題でサ。ボクの高校の国語の先生がモトオリノリナガって人の大ファンで、その人がどうのこうので、トンアとかいう昔のお坊さんの作った和歌をもとに、本歌取りっていうパロディみたいなことさせてる。「確かに、宣長さんは、頓阿の歌は手本になるといっているね」って、オジサン、ノリナガさんと友達なの? 結構昔の人みたいだよ、ノリナガって人。オジサンひょっとして、メージとかショーワとかの人、それって江戸時代だっけ? オジサンくらいになると、そのあたり、もうどうでもいいよね。

でね、ボクに割り当てられたトンアさんの「本歌」は、これ(注1)。

 

小萩原 花咲く秋ぞ 紫の 色こき時と 野辺は見えける

(「草庵集」456 巻第四 秋上)

 

でもこれには、さらに「本歌」があって、

 

むらさきの 色こき時は めもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける

(「古今集」雑上・在原業平、「伊勢物語」四十一段)

 

「伊勢物語」のこの段は、むかしむかし、お嬢さん育ちの姉妹がいて、一人が貧乏人と、一人が金持ちと結婚したんだけど、貧乏人と結婚したほうの女の人が夫の着物の洗い張りを自分でしようとして、でもそんな召使のするようなことしたことないから着物がやぶれちゃって、ただただ泣くばかり、これを気の毒に思った金持ち男が立派な着物に歌を添えて貧乏男に贈ったという話。歌は「紫の色が濃い時は、目のとどく遥か遠くまで、野に生えている草木はみな紫草と区別がつきません。妻を愛する心が強いので、その縁者であるあなたのことも、他人事とは思われないのです」という意味で、「貧しい義弟を物的に援助するとき、相手が抱くかもしれない惨めな劣等感を、この歌は注意深く拭い取る暖かさを有する」ということなんだって(注2)。大人の美学ってことかな。でもちょっとビミョー、女どうしどうなんだろう、ボクには女のキョーダイいないからわかんないけど。

 

で、このナリヒラくん(アイドルだったらしい)の歌を本歌として詠んだトンアさんの歌。一面の萩の野原に花が咲く秋となり、紫の色が濃く色づく時節と見えることだなあ、この野原は、というような意味らしい(注3)。言ってることはわかるけど、だからどうしたの、って感じだよね。原っぱを眺め渡したら、やっぱハラっぱ見えちゃった、みたいな。

 

だいたい、トンアさんて、有名じゃないよね。百人一首にも入ってないし、ノリナガさんはほめてたのかな。

 

<<宣長は、頓阿を大歌人と考えていたわけではない。……「新古今ノコロニクラブレバ、同日ノ談ニアラズ、オトレル事ハルカ也」>>(注4)

 

げっ、だめ出しされてるわけ。なんでそんな人が手本なの?

 

<<「頓阿の歌は、……異を立てず、平明暢達を旨としたもので」、「一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ」。「その平明な註釈は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰う捷径であろう」>>(注5)

 

ショウケイとか、オジサンむずかしいこと言うね。でも確かに、目を閉じて頭の中に一面に花咲く秋の野原を思い浮かべて、眼の前全部ムラサキだあって感じるの、そんなにむずかしいことじゃないよね。いまならインスタだね。でも、言葉だけでおんなじことができるのかな。

 

<<「此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也」>>(注6)

 

もの読み知らぬ童ってなんかちょっと馬鹿にされてる気もするけど、でもそうか、無理して難しい言葉を使わなくていいし、今のことばでもいいんだ。まず自分がよく分かるものじゃないとね。

でも、本歌取り、なんかルールみたいのがあるんだよね、言葉を一句か二句もらって、でも季節は変えて、とか。トンアさんは「紫の 色濃き時」を取ったんだね。で、ナリヒラくんの歌にあるビミョーな人間関係はスルーして、ただただ、紫の美しさだけを思い浮かべて詠んだんだね。トンアちゃんの頭の中の紫色って、どんなんだったのかな。風が吹いて草がそよげば、一面の紫も波を打って、いろんな色合いが見えたんだろうな。トンアちゃんも、少しだけ心がしくしくしたんじゃないのかな。

 

<<宣長にとって、歌を精しく味わうという事は、……(歌の歴史の)巨きな流れのうちにあって、一首々々掛け代えのない性格を現じている、その姿が、いよいよよく見えて来るという事に他ならない。>>(注7)

 

あっ、それでノリナガさんはトンアちゃんを薦めているわけか。陳腐だとか平凡だとか決めつけちゃダメなんだね。決めつけといえば、パパがさ、フランス出張のお土産にヴィトンのお財布買ってきてくれたんだけど、ボクにはローズピンクで弟がブルー。こういう決めつけって、だからヘーセー生まれは古いんだっつーの。

あっ、ローズピンク、そうか、紫ばかりというのは、ちょっと切ないよね。季節を春にして、春っぽいカラーで、温ったかくしたいな。野原一面のサクラソウ。薄紅色の可憐な花と明るい青空が引き立てあって、いや、一面ピンクがいいな。夕日が紅色に空を染め、野原を照らし、空と地面の境もなくなって、ぼんやりと融けあって、ピンクのふわふわの中にみんながつつまれている。恥ずかしいけど、こんなのどうかな。

 

夕日照り 色こき時ぞ さくら草 空も融くると 野辺は見えける

 

「伊勢物語」の姉妹。今や境遇が大きく隔たって、後戻りできない。でも、二人がまだ子供のころ、一緒に野原で遊んで、さくら草を摘んだなんてこともあったんじゃないかな。貧乏な女の人も、そのころのことを思い出して、ちょっとほっこりすることもあるんじゃないかな。ボクの歌はへたくそだけど、あの女の人に暖かいものが届くといいな。

 

<<(宣長は)自分にとっては、歌を味わう事と、歴史感覚とでも呼ぶべきものを練磨する事とは、全く同じ事だと、端的に語っているだけである。歌を味わうとは、その多様な姿に一つ一つ直に附合い、その「えも言はれぬ変りめ」を確かめる、という一と筋を行くことであ(る)。>>(注8)

 

そうか、本歌取りって、ただのパロディごっこの言葉遊びじゃないんだね。本歌を詠んでぴんと来たり来なかったり、自分で言葉を並べてみてしっくり来たり来なかったり、この繰り返し。どの句を取ろうかな、どんなふうに趣かえてみようかな。オモムキなんて、先生の受け売りでよくわかんないけど、ゲームの世界観みたいなやつかな。こういうの、自分の頭の中だけのやりとりにみえちゃうかな、キモイかな。でも、そうじゃない。本歌っていうのは、うまく言えないけど、確かに、そこに、在る。不思議。本歌取りって、タイムマシン付SNSみたいだ。

 

<<宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ。>>(注9)

 

オジサンのいうこと、ちょっと分かる気がする。男女4人のビミョーな関係にビミョーな歌を投げ込んじゃうナリヒラくんがただのイケメンじゃないことも分かったし、トンアちゃんも、ぱっとしないけど一生懸命なとこが意外とかわいいかも。友達が増えた気がする。でもこの人たち、大昔の人なんだよね、どのくらい? 戦前生まれってやつ?

 

<<現在が過去を支え、過去が現在に生きるとは、伝統を味識している者にとっては、ごく当たり前な心の経験であろうが、そのような伝統の基本性質でさえ、説明を求められれば、窮するであろう。伝統に関する知は、伝統と一体を成しているとも言えるからだ>>(注10)

 

オジサン、また難しいこと言っちゃって。せっかく何かわかった気がしてたのにサ。えっ、「だから質問しなさい」って、オジサンに質問するの? 「本当にうまく質問することが出来たら、もう答えは要らない」って。あれ、オジサンの今のセリフ、どっかで読んだよ。そうだ、先生が貸してくれた本。バッグに入ってるから、見せてあげるね、ちょっと待ってて。これこれ、小林秀雄『学生との対話』。

あれ、オジサン、どこ、うそっ、消えちゃった。

あっ、この写真の人。

マジ、ヤバイ!

 

(注1) 和歌文学大系65巻『草庵集/兼好法師集/浄弁集/慶運集』77頁

(注2) 新潮日本古典集成『伊勢物語』56頁(渡辺実校注)

(注3) 前掲(注1)77頁(酒井茂幸校注)

(注4)~(注10) いずれも、『小林秀雄全作品』第27集所収『本居宣長』第21章より。順に、(注4)238頁、(注5)238頁、(注6)237頁、(注7)241頁、(注8)241頁、(注9)241~242頁、(注10)243~244頁。

(了)