小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

八 「あしわけ小舟」を漕ぐ(上)

1

 

本居宣長の「もののあはれ」の説は、「源氏物語」から導かれていたが、宣長は「源氏物語」を研究したというより、「源氏物語」によって開眼したと言ったほうがいいと小林氏は言った、その宣長の開眼とは、何に対する、どういう開眼であったか、そこを前回は辿ったが、今回は、小林氏の言う「宣長の開眼」を、さらに先まで見ていくことから始めようと思う。宣長の開眼とは、「もののあはれを知る」とはどういうことかということと、その「もののあはれを知る」ということを、余すところなく実行してみせていたのが「源氏物語」だったということ、この二点においてであったが、その開眼を宣長にもたらしたのは、宣長が研究者としてではなく、愛読者として「源氏物語」を読んだということだった、読者としての「愛読」こそが、宣長に「源氏物語」を読ませた……。「開眼」は、宣長だけではなかった、「源氏物語」を熟読することによって、小林氏も宣長に開眼したのである。

 

第十三章で、小林氏はこう言った。

―ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。……

ではその開眼は、何に対してであったか。

―彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した……。

これが、第十五章に進むと、こう言われる。

―宣長が、「情」と書き「こころ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「ココロと呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである。……

宣長が、あえて「ココロ」と読ませる「情」は、「なさけ」とか「おもいやり」とかという心の動きの一側面を言うのではない、ありとあらゆる事象にふれて人間の心が動く、その心の動きのすべてを包括する言葉であり、それは人間が生きているという現象そのものであると同時に、歌とか物語とかと呼ばれて人の心に働きかける言語表現そのものだというのである。

―言うまでもなく、彼は、「ココロの曖昧な不安定な動きを知っていた。それは、「とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく」、決して「一トかたに、つきぎりなる物にはあらず」と知ってはいたが、これを本当に納得させてくれたのは、「源氏」であった。その表現の「めでたさ」であったというところが、大事なのだ。彼は、この「めでたさ」を、別の言い方で、「人のココロのあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも言った。……

この「情」の不安定な動き、それをつぶさにことごとく描き出して、わが身を鏡に映して見るかのように見せてくれたのが「源氏物語」だった……、前回は、ここまでを見た。さて今回は、その先である。

 

―この迫真性が、宣長の「源氏」による開眼だったのだが、言葉を代えて言ってみれば、自分の不安定な「ココロのうちに動揺したり、人々の言動から、人の「ココロの不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人のココロのあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。……

すなわち、実人生・実生活において、私たちが刻々経験している「情」の世界のほかに、それらをひっくるめてひろげて見せて、実人生・実生活の感覚とまったく同じように私たちに知らしめる世界があるということ、すなわち、実人生と等価の「物語」という世界があるということを、宣長は「源氏物語」を読むことで知った、初めて「物語」というものをそう認識した、というのである。

では、そういうふうに物語を認識して、宣長は「源氏物語」をどういうふうに読んだか。

―式部は、古女房に成りすまして語りかける、―光源氏の心中も知らぬ「物言ひさがなき」人の言うところを、真に受けてくれるな、「をかしき方」に語られた「交野少将」並みの人物と思ってくれるな、源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい、―宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる。源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……

そして小林氏は、またしても念を押す。

―何故、このような事を、繰り返し書くかというと、「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ。……

 

「源氏物語」は、久しく誤読されてきた。光源氏の女性遍歴を中心として、是非の議論の喧しい物語だった。その議論は、時代時代の学者や知識人によってなされたが、それらはいずれも「春秋の筆法」に威を借り、儒教的・仏教的な道徳規範に則って登場人物の所業を裁定するものだった。つまり、「愛読」ではなかった。

「春秋」とは、孔子の編集によると伝えられる中国の史書である。歴史上の人物に対して手厳しい批判が加えられ、その批判の厳しさが「春秋の筆法」と言われるものだが、そういう「源氏物語」の「春秋」気取りの注釈者たちを捉えて、契沖は彼の著作「源註拾遺」の「大意」でこう言った、第十七章に引かれている。

―春秋の褒貶は、善人の善行、悪人の悪行を、面々にしるして、これはよし、かれはあしと見せたればこそ、勧善懲悪あきらかなれ、此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり、何ぞこれを春秋等に比せん……。

「春秋」の場合は、善人は善人、悪人は悪人としてはっきり区別し、そのうえでこの人物はよい、この人物はよくないと裁定している、したがって、「春秋」の意図は、世人に善を勧め、悪を戒めるところにあることが明らかであるが、「此物語」すなわち「源氏物語」は、一人の人物に美点もあれば難点もあり、それらが交々現れるさまを描いている、ゆえに、「源氏物語」に「春秋の筆法」を持ち込むのは筋違いである……。

契沖のこの言葉を引いて、小林氏は言う、

―言葉が烈しくなっているのは、幾百年の間固定していた、『源氏』のもつ教誡的価値という考えと、絶縁せざるを得なかったが為だ。だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……

「定家卿」は平安末期から鎌倉初期にかけての歌人・歌学者であった藤原定家である。「可翫詞花言葉」は、詞花言葉をもてあそぶべし、歌や文章の見事さを楽しむべきである、の意である。

小林氏は、契沖には、こう言ったからといって「源氏物語」を軽んずる心は少しもなかった、「萬葉代匠記」に精神は集中され、「源氏物語」研究は余技に属していた、と付言し、第十八章に至ってこう言うのである。

―「定家云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

―「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、およそ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……

宣長は、定家が言い残し、契沖が手にし、契沖から自分に伝えられた「可翫詞花言葉」にはどれほどの重みがあるものか、それを積ってみた、「可翫詞花言葉」という文句は誰でも口にする、しかし詞花言葉を翫ぶという経験を、自分自身でしてみるということになればまったく別の話だ、宣長は、そのまったく別の話に全体重をかけたと小林氏は言うのである。おそらくそれは、ことさら意識も身構えもせず、自然に行われたであろう。宣長には、「源氏物語」の愛読と同時に、歌を詠むという「詞花言葉を翫ぶ」経験が、すでに切実にあったからである。

小林氏は引いていないが、契沖が「源註拾遺」で、「此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり、何ぞこれを春秋等に比せん」と言った条の最初には、

―定家卿の詞に、歌ははかなくよむ物と知りて、その外は何の習ひ伝へたる事もなしといへり、これ歌道においてはまことの習ひなるべし、然れば此物語を見るにも大意をこれになずらへて見るべし。……

とまず言われている。宣長は、必ずやこの定家の詞も拳拳服膺していたであろう。

 

2

 

宣長は、二十三歳の年から京都に遊学し、医師になるための勉学に励んだ。その京都遊学中、宣長が和歌を好むのを難じた友人に対し、手厳しく切り返した手紙が第五章に紹介されている。宣長の和歌好きは、今日いうところの趣味や道楽などではなかった。彼の生き方の根本は、何事も好み、信じ、楽しむ、すなわち「好・信・楽」にあったが、なかでも和歌は格別であった。以下、筑摩書房版「本居宣長全集」第二巻の「解題」および別巻三の「年譜」によって、宣長の詠歌歴・歌学歴の発端をざっとではあるが追ってみる。

宣長が和歌に志したのは延享四年(一七四七)、十九歳の正月であった。この年は、七月に改元して寛延元年となったが、九月、宣長は今井田家の養子となり、その頃から歌道に心を寄せた。翌年、二十歳の年からはその道の先達に添削を受けるようになり、「古今集」や定家の歌論書「詠歌大概」等を書写し、「和歌の浦」と題して歌に関するノートを取り続けた。この頃、「源氏物語」に関心を示し、「源氏物語覚書」を記すなどもした。

二十一歳の同三年十二月、今井田家を離縁となり、二十三歳の宝暦二年(一七五二)三月、母の勧めで京都に遊学する。その直前の一月には自らの歌稿を集めて「栄貞詠草」を編み、上洛するやただちに定家の流れを汲む冷泉家筋の門弟となって歌会に出席し始めた。その旺盛な精進ぶりは、ただただ目を見張るというほかない。

遊学中、身を寄せたのは儒医、堀景山の許であった。そこで宣長は契沖の存在を知る。景山は日本の古典にも素養があり、契沖の学問に敬意を抱いて契沖の「百人一首改観抄」を契沖の孫弟子とともに刊行したほどの人であった。宣長はその「百人一首改観抄」を読んで歌学に開眼、最初の歌論書「あしわけ小舟」を著すに至った。

ここからは、小林氏に教えを乞う。氏は第十二章で言っている。

―宣長は、京都留学時代の思索を、「あしわけ小舟」と題する問答体の歌論にまとめたが、この覚書き風の稿本は、篋底きょうていに秘められた。稿本の学界への紹介者佐佐木信綱氏によれば、松坂帰還(宝暦七年)後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている。……

―「物のあはれ」論は、もうここに顔を出している。「物のあはれ」と言う代りに、情、人情、実情、本情などの言葉が、主として使われているが、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言されていて、もう後年の「紫文要領」にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである。……

宣長にとって、「もののあはれ」とは何か、「もののあはれを知る」とはどういうことかは、歌を詠むという現実的、具体的な経験のなかで立ち上がってきた。ふたたび小林氏の本文である。

―「あしわけ小舟」の文体をよく見てみよう。これは、筆の走るにまかせて、様々な着想を、雑然と書き流した覚書には相違ないが、宣長自身、後年その書直しを果さなかったように、これは二度と繰返しの利かぬ文章の姿なのである。歌とは何かとは、彼にとっては、決して専門家の課題ではなかった。歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当りを受けたのである。受けると、これを廻って様々な問題が群り生じた。歌の本質とは何か、風体とは何か、その起源とは、歴史とは、神道や儒仏の道との関係から、詠歌の方法や意味合に至るまで、あらゆる問題が、宣長に応答を一時に迫った。この意識の直接な現れが、「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成している。……

続いて、小林氏は言う。

―宣長の学問上の開眼が、契沖の仕事によって得られた事は、既に書いた。繰返さないが、契沖の「大明眼」を語る宣長の言葉は、すべて「あしわけ小舟」からの引用であった事を、ここで思い出して欲しい。……

契沖が、「本居宣長」に登場するのは、第六章の冒頭である。

―ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也……

これに続けて、小林氏はさらに言う。

―宣長は、「玉かつま」で言っているように、京に出て、初めて、「百人一首改観抄」を見て以来、絶えず契沖の諸本に接していたらしい。契沖の畢生の仕事であった「萬葉」研究にも、在京中、既に通暁していたと考えてよい。……

そう言って、以下、宣長が契沖に導かれ、当時の「萬葉集」研究の最先端を学び、「萬葉集」味読の頂に立っていた姿に目を向ける。

―宝暦七年、京を去る半年ほど前に、景山家蔵の「萬葉集」の似閑書入本を写した事が知られている。宣長の奥書に、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」という言葉がある。久松潜一氏の綿密な研究によれば(「契沖全集」旧版第九巻、伝記及伝記資料)、この本は、元禄二年に成った契沖自筆の校讎こうしゆう本に拠ったものだが、そうすると、彼が「萬葉代匠記」の初稿本を水戸義公に献じた後、水戸家から「萬葉集」の校合本を借覧し得て、次いで献ずる「萬葉代匠記、精撰本」について勘考していた時期の作という事になる。のみならず、似閑の書入があったという事になれば、契沖晩年の「萬葉」講義を聴聞したこの高弟を通じて、契沖の円熟した考えが、其処に見られた事になるのであり、要するに、宣長は、当時、民間人で入手出来た、「萬葉」研究に関する、先ず最良本に接していたと言ってもいい。……

「似閑」は今井似閑、契沖の高弟である。「似閑書入本」は、「萬葉集」の本の行間や余白に、似閑が注釈や関連資料のことを書き込んだ本である。「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」は、契沖の言わんとするところは契沖の「萬葉代匠記」を見なくても明らかに読み取れる、である。「校讎本」は校合本の意であるが、ここは契沖が「萬葉集」の伝本を諸種突き合わせ、「萬葉集」のあるべき姿を再現しようとした本である。「水戸義公」は水戸藩第二代藩主、徳川光圀。契沖の「萬葉代匠記」は、光圀の委嘱を受けて着手され、初稿本、精撰本と、二度にわたって光圀に献じられた。

契沖の「源註拾遺」に関して、契沖の精神は「萬葉代匠記」に集中され、「源氏物語」研究は余技に属したと小林氏は言っていたが、「萬葉代匠記」は、宣長の「古事記」解読に先立つこと約百年、元禄三年(一六九〇)に達成された「萬葉集」再建の大事業であった。宣長が現れるまで、「古事記」は誰にも読めなかった、それと同様に、契沖が現れるまで、「萬葉集」を正当に読み通した者は誰ひとりとしていなかった。宣長に学問上の開眼をもたらした「百人一首改観抄」も、「萬葉代匠記」の延長で書かれた本であった。

(第八回 了)