「美を求める心」を走る

鬼原 祐也

私は広島で「美を求める心」を素読する会に参加している。私が素読を行う理由は、私の思考が間違ったことを考え始めたときに、そのねじれを正し、整える基になると直感したからである。

近年は、インターネットやスマートフォンの普及によって、瞬時に様々な情報を得られるようになった。その中で、自分の思考の偏りや、歪み、むず痒さを感じるときが多々あった。考える、ということはどういうことなのか。情報を素早く手に入れて判断することなのか。コンピューターの検索エンジンの様に考えることが、思考に妙な歪みをかけて、人と人との交わりを機械的な交わりに変化させ、他人を、ましてや自分自身をも傷つけているのではないかと思うようになった。要するに自分の物事の考え方の幅が狭くなっていると感じていた。

 

そのような事を感じて、普段私はどのように本を読んでいるかを振り返ってみた。当然、普段は黙読を行っている事が多かった。読み進んで行って分からないなと思ったら、前の行に戻ったり、分からない漢字や語句を辞書で調べたりしながら読んでいた。また、集中力の続かない時は途中でやめて違う事を始めたりしていた。

しかし、素読はこのようにはいかない。皆でランニングをするように、集中力が切れたといっても途中で止まるわけにはいかないし、途中で気になる文章があっても一人抜けて引き返すわけにはいかない。そうしたら皆は先に進んで行ってしまうからだ。だから分からない漢字が出てきても調べる事は後にして読み進んで行く。これらの事は、私が普段行っている読み方と大きく違っており、初めは戸惑ったが何度か素読を重ねて行く中で、その中に素読の面白さがあると思うようになった。

私は体を動かす事が好きだから、物事をよく運動に例える事が多いが、素読は運動的な文章の読み方だと思った。「美を求める心」は10頁半の文章であるが、1回全体を素読すると大体40分かかる。40分間、一定の速度で文章を声に出して読んで行くと結構、体力と集中力を要する事が分かる。それを1回の素読塾で2回行うので計1時間20分読んでいるという事になる。これはサッカーの1試合分に相当するもので、終わった後、毎回驚いている。というのも、集中しているせいか、あっという間に終わってしまうからだ。

読み方は全体を段落ごとに区切り、できた10の段落を主宰者の吉田宏さんが先に読み、その後皆がそれをくり返すという方法で1度読む。2回目は区切られた段落ごとに一人一人交替して読んでいる。それぞれ句読点や、各々に区切りのいい部分まで読んで、その後皆が続けて声に出すので集中して聴き、読んで行く。それでも40分の間には集中力に波が生じるので、どこを読んでいるのか迷子になったり、声が出せない時もある。そういう面においても黙読と素読の違いが体感できて面白い。最初は素読に意味はあるのか、と考えたり、途中で思う事が生じても読み進めて行く事に、もったいなさを感じていたが、素読という、皆で一緒になって走っていく文章の味わい方も良いと感じるようになった。

 

そのように、読み手につられ、時にはペースが上がったり、落ち着いたりしながら読み終えると、途中走ってきた文章から景色のようなものがチラチラと脳裏をよぎってくる。小林秀雄は「美を求める心」という風景をつくり上げ、私たちはそれを素読する事で、風景の中を皆で走り抜け、文章全体をひとつの姿として、感じたのではないか。本文の中でも記されている姿のことは、素読を行う事でさらに身近な景色となって現れてくるように感じる。「ここに谷があるぞ」とか、「ここはゆるやかだ」とか、「ここは声がこだまして返ってくる」とか、大体の地形が姿として存在している事に気づく。それを知らず識らずのうちに体験するから40分はあっという間に過ぎてしまうのではないか。私は素読を通して小林秀雄の風景の中で、皆と走ったり、声を出したりするうち、自然と自分の中の力みが抜けたり思考のクセが整えられていくのを感じた。それは全身をまんべんなく動かすように描かれた風景の中を走るからではないか。

この文章は小学生、中学生に向けて書かれたのだというのもなるほどと思った。小林秀雄は自分の中で自然をつくり出し、その中で動き回ってほしいと思いこの文章を書いたのではないか。その中で考えるときは、現代の都市のような風景ではなく、どこかのどかな里山のような原風景が思い浮かぶ。ふと私は、都市の中を動き回るように考えていたから、疲れていたのだなと思った。また、小林秀雄がなぜこのように表現したのか、その理由が素読体験を通して少し分かったように感じた。

 

素読により、この文章の中を走るということは、美を求めることといってもよいのではないか。走っている最中に通り過ぎていった景色がどんなに美しくても、お互いに語り合うことはできない。私たちは黙って菫の花を1分間見つめることを、40分間の素読の中で行っていたのではないか。小林秀雄は読者を沈黙させるために文章を書き続けていたのではないか。私が小林秀雄の文章に引きつけられる理由は、それが美そのものを目指して書き続けられているからだと思う。

小林秀雄は「美を求める心」を通して私を里山に連れ出し、素直に文章に向き合う事の大切さに改めて気付かせてくれた。素直に読むためには自分の内なる雑音に対して沈黙する力が必要であり、それには努力を要する。だがそれを求める行為そのものが美を求める心だという事は救いである。これが素読体験を通じて間違いのない事だと確信できた。

(了)