からごころ、さかしら心を捨てる。山の上の家にて、大きな難題に挑んだ帰り道、正月で賑わう鶴岡八幡宮を訪れ、「美心守」を頂いた。そこには、御神紋の鶴丸を施した小さな鏡がついている。美心が映るそうだ。ご祈願物とはいえ、質問に挑んだばかりの私は、どんなふうに我が心は映るのだろう、からごころやさかしら心を捨てられたか、そんなことを思いながら、恐る恐る鏡を覗き、自問自答の時間を思い出していた。
小林秀雄『本居宣長』第43章で、「もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず素膚にして戦ひて、たちまち敵のために手を負ふがごとく、かならずからごころに落ち入るべし」という、『うひ山ぶみ』から引用された一文を読んだとき、私は、まるで血しぶきが飛び散るかのような表現に一瞬たじろいだ。しかし、目を凝らして、二度三度と文字を追うと、ある想像と大きな問いが浮かんできた。
ここには、宣長の、生身の人間としての経験が吐露されている。神の御典をよむ、すなわち、「古事記」を解くには、素直で安らかと観ずる態度を基本にせよとしてきたにもかかわらず、なぜか、戦場に赴くときの物々しい身構えに例えている。この落差はいったい何だろうと驚いた。甲冑を着る、とは、たいへん激しいものの言い方だ。難物を攻略するための、甲冑にあたるものとはいったい何なのか。それが「此身の固め」の奥に隠れているのではないかと、つよい好奇心をそそられた。
つぎに、なぜ、小林秀雄は『うひ山ぶみ』からこの一節を引用したのだろうと疑問が湧いてきた。宣長の経験そのものを伝えようとしているのか、あるいは、からごころの手強き存在に注意せよと促しているのか。私には、からごころに向きあわんとする宣長の内なる努力にしっかり学べ、と諭しているように思われた。私は、宣長のひどい痛手を負った姿を想像して、なんとしても「此身の固め」の正体を突きとめたいと気持ちを高ぶらせていった。
「此身の固め」とは、いったい、何ものなのか。
――「此身の固め」とは、古伝えの趣や姿を心眼に描きだす想像の力であり、物語の謎めいた性質の魅力を保つ意識を持つことではないか。
――「此身の固め」とは、神代の物語の「あやしさ」から目を逸らさず、つねに、古人の心ばえに依って立ち、自らの「神しき」経験とできるかを問い続けることではないか。
――「此身の固め」とは、直覚と想像の力を礎にした甲冑の喩えであり、その戦わんとした大敵はからごころという名の、宣長の我執をさすのではないか。
私は、拙い自答を繰り返した。しかし、どれも、しっくりこない。違和感があるのも当然で、想像や問いを固めるという日本語の表現はない。固めるならば、それは意志や考えであるはずだ。そもそも、私自身の「さかしら心」によって眼が曇っているのではないだろうか。気がつけば、自分の「我執」にずるずると引き摺られていた。
『本居宣長』第37章に次のようなくだりがある。「この、我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引っ提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には、当然、己れの意図や関心に基づいて、計算出来る世界しか映じてはいない。当人は、それと気付かぬものだが。宣長が考えるのは、そういう自我が、事物と人情との間に介入して来て、両者の本来の関係を妨げるという事である。これは、宣長の思想の決定的な性質であって、学者の『つとめ』は道を『行ふ』にはなく、道を『考へ明らめる』にあるという、『うひ山ぶみ』で強調されている思想にしても、本はと言えば、其処に発している」
自分は学者ではなく実行者でありたいなどと子供染みた言い訳をしても始まらない。実行者であるほど、計算出来る世界しか見えなくなる、事物との本来の関係を失ってしまいかねない状況はいかに危険であるかを認識しなければならない。私は、はっとした。
「あと一日だけ、待ってほしい」。既に約束の期日となっていたが、そう塾頭に願い出て、ひたすら、事物にまっすぐに向かうことを試みた。
――「此身の固め」とは、「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知るべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきには非ず」(『本居宣長』・第40章)という宣長の確固たる主張のことではないだろうか。つまり、「すべての物語は、みな実のことであり、現代を生きる我々の知識ばかりでその謎を解くことはできない。そのようなさかしら心で考えるべきではない」という宣長の確たる持論を頭におくことではないか。私は、宣長の学問の中心部に含まれる「難点」に行き着いた。
しかし、その真意は、原文『うひ山ぶみ』にしっかり記されていたのである。「初学の輩、まづ此漢意を清く除き去りて、やまとたましひを堅固くすべきことは、たとへばもののふの戦場におもむくに、まづ具足をよくし、身をかためて立ち出づるがごとし」という一文が、小林秀雄の引用した「もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず素膚にして戦ひて、たちまち敵のために手を負ふがごとく、かならずからごころに落ち入るべし」という宣長の経験の裏からすっと顔を出した。
なんと、「此身の固め」の正体とは、「やまとたましひを堅固くする」ことであったのだ。
「さかしらだちて物を説く」ことを自らの戒めとして、宣長の味わった容易ならぬ経験という事物に直に行ってみると、「やまとたましひ」の言葉に出会い、宣長の心構えを知った。
そして、私は、もうひとつ、学んだことがある。それは、宣長の困難はどこにあったのかということだ。宣長は上田秋成らの論難をさかしら心やからごころと突き放して一切拒否したが、問題は相手ではない。物語の謎を解くという幻のうちに自ら陥らず、どこまでも古人の心ばえを我が心とする一筋道をひたすら行く、自問自答を繰り返す、その態度から内なる努力の緊張が想像される。
小林秀雄は、宣長の努力の様子をこのように伝えている。「ここで、又、附言して置きたくなったが、『古事記』の表現を寓言と解するのは、『古事記』から逃げる事だ、『古事記』を全然読まぬに等しいという考えを、宣長は持ち、これを、『古事記伝』で、実行に移したわけだが、むしろ、この彼の考えは、『古意もて釈』くという事を実行してみて味った困難、それをどう切り抜けるかという苦労の故に、徹底した、確固たる考えに育ったと言った方がよかろう」(同上・第38章)
その確固たる考えこそ、「此身の固め」、すなわち、「やまとたましひを堅固くする」ことではないだろうか。この考えは、はじめから目的とされたのではなく、「古意をもて釈」くことを実行して味わった困難や苦労の経験のうえに育っていった、その過程を知ることはさらに重要と思われる。
小林秀雄に学び始めて6年が経つ。今回の学びを、私は身体で覚えておきたいと思う。一切の「さかしら」を捨てるとはどういう事かという宣長の味わった経験を追うことで得られた体験であるからだ。まるで宣長の心の一端がすっと入り込んだかのような感覚、これが「生きた心が生きた心に触れる」ということなのであろうか。宣長の学問の中心部で起こっていた、もう一つの出来事を知ることができたと思う。
鶴岡八幡宮で頂いた「美心守」の小さな鏡に、どんな我が心を映すことができるか、私も宣長の努力にまねぼうと思う。
(了)