ブラームスの勇気

杉本 圭司

十一

「批評文も創作でなければならぬ。批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」と発言した同じ座談会で、小林秀雄はまた、「こんな風なことも考える」と断った上で次のように語っていた。

 

例えば、僕は長い間中絶してから、「ドストエフスキイの文学」をまた書こうと思っていますけれども、彼に関するいろいろな批評を読んでしまうと、いろいろな意見が互に相殺して、結局何も言わない原文だけが残るという感じをどうしようもないのだね。批評家は誰も早く獲物がしとめたい猟師のようなものでね。ドストエフスキイはこういうものだと、うまく兎を殺すように殺してしまって、そうして見せてくれる。兎を一匹二匹と見せられているうちは、まず面白い。兎の死骸がしこたま積み上げられるとなると閉口するのだよ。全然兎が捕まらない批評だってあっていいだろう。そうすると、批評というものがだんだん平凡な解説に似て来るんです。勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る。昔の人は原文というものを非常に大事にした。古典といってね。批評精神が発達しなかった証拠という風にばかり考えたがるが、そこにはやはり深い智慧があるのだ。原文尊重という智慧だ。古典を絶対に傷つけたくなくなるんだ。勝手に解釈するのが嫌になるんだ。古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法もあるのだ。

 

この「批評の方法」とは、後に「ゴッホの手紙」において見出される「『述べて作らず』の方法」そのものであろう。同時にここで言われた古典という「原文」は、「無常という事」で語られた「解釈を拒絶して動じないもの」としての歴史であり、それを合点していよいよ美しく感じられたという一つの「形」としての歴史であった。その発見は、既に見たように「ドストエフスキイの生活」において彼が経験した、「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」(「歴史と文学」)に端を発し、それとほぼ時を同じくして遭遇した骨董への開眼を一つの契機としてなされたものであった。さらに言えば、「自己を没却出来る」という小林秀雄生得の「或る批評家的性向」をその源泉とするものであった。

だが一方、彼には、批評文もまた創作であり、芸術であらねばならぬという強い要求と野心とがあった。それは元来作家を志した小林秀雄の文学者としての矜持であり、嘗て志賀直哉へ書き送った「やつぱり小説が書きたいといふ助平根性」の残滓でもあっただろう。「ゴッホの手紙」の連載を開始する四ヶ月前の昭和二十三年八月、坂口安吾との対談の中でも、彼は、自分のレーゾン・デートルは「新しい批評文学形式の創造」であると語っている。作家である安吾が信長が書きたい、家康が書きたいと思うのと同じように、自分はドストエフスキーが書きたい、ゴッホが書きたいと考える。その手法はあくまで批評的だが、結局達したい目的は、そこに「俺流の肖像画」を描くということだ。それが「最高の批評」であり、そのための素材は何だってかまわないのだと。

「扱う対象は実は何でもいい」とは、「コメディ・リテレール」座談会でも言われていた。だが彼の言葉を誤解してはならないだろう。彼は、「それがほんとうに一流の作品でさえあれば」と保留している。対象は何でもかまわぬとは、どんな対象を描いても同じ自画像に仕上げてみせるという自負ではない。対象は何であれ、それが一流の作品でありさえすれば、いつでも彼には「自己を没却出来る」用意がある、ということなのである。小林秀雄の批評活動とは、彼を芸術としての文学創造へと駆り立てる或る詩人的性向と、自分が信じ愛する古典を前にして「自己を没却出来る」という或る批評家的性向の、言わば二つの焦点から成る楕円軌道を描くということであった。折々の作品たる軌道上の点は、常にこの二つの定点からの距離の和を等しくしたが、「無常という事」から「モオツァルト」にかけての作品群において、その軌跡は詩人的性向の極に大きく振れたのである。そしておそらく、小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」とは、この楕円軌道を「螺階的に上昇」しつつ、二つの焦点が限りなく接近して行く道であった。すなわち詩人と批評家とに引き裂かれながら、しかし互いに曳き合いながら歩み続けた彼の足取りが、遂に一つの中心点を見出し、その軌跡が正円へと収束していく道であった。

「モオツァルト」を発表した三ヶ月後、都美術館の広間に懸かっていた「烏のいる麦畑」の複製画の前に立った時、小林秀雄はおそらく詩人的性向の臨界点に達していただろう。「ゴッホの手紙」の冒頭に書かれた彼の烈しい「逆上」ぶりと、その感動が描き出したあの嵐の吹き荒れる海原の黙示録的ビジョンがそのことを物語っている。だがまたそれは、「自己を没却出来る」という批評家的性向の極に向って、彼が大きく旋回し始めた転回点であり跳躍でもあったのだ。

先に引用した発言の中で言われた「『ドストエフスキイの文学』をまた書こうと思っています」とは、直接には「ゴッホの手紙」の連載開始直前に発表された「『罪と罰』について Ⅱ」を指すが、その後、足掛け四年にわたった「ゴッホの手紙」の連載を終えると、彼はすぐさま次なる「ドストエフスキイの文学」の執筆に取りかかった。「『白痴』について Ⅱ」がそれである。ゴッホの書簡と生涯を辿りながら、そこに「ゲルマン風のムイシュキン」(「近代絵画」)の面影を見ていた小林秀雄にとって、ゴッホの肖像画を描き上げた後に、ムイシュキンという「スラブ風のゴッホ」を描くのは自然な筆の流れではあっただろう。しかしそれは、「書簡による伝記」によっていったん「自己を没却」した小林秀雄が、ふたたび「批評文に於いて、ものを創り出す喜び」(「再び文芸時評に就いて」)を求め、ドストエフスキーという大理石に向って鑿を振るい始めたということでもあったはずである。だが、その新たな批評的創造の試みにおいても、「予め思いめぐらした諸観念」は次第に崩れ去り、遂に「批評的言辞」が彼を去るという、「ゴッホの手紙」の時とほとんど同じことが起こった。連載の半ばを過ぎたあたりから、小林秀雄はイポリートやレーベジェフ、イヴォルギン将軍といった脇役たちの告白を、彼自身の言葉で言えば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところを、本文も殆ど参照せずに」綴り続けることになるのである。

「『白痴』について Ⅱ」の連載はしかし、八回続いたところで半年間のヨーロッパ旅行によって中断され、帰国後、新たに開始されたのが「近代絵画」であった。小林秀雄は「モオツァルト」について、あれは文学者の独白であって音楽論というものではない、もし今度音楽について書くとしたら同じやり方では書きたくない、もっと勉強して専門的なものを書きたい、と幾度か語っていたが、ヨーロッパで半年間、西洋美術の洗礼を受け、その後四年間、計四十五回に及んだこの近代画家論が、まさにそれに当たると言えるだろう。少なくとも「近代絵画」は、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「一つのたしかな美の形式」としての批評文というより、同じ座談会で言われていた「一番立派な解説が一番立派な批評でもある」という批評作品の系譜に属している。もともとこの連載は、ラジオでの講演をきっかけに始まったものであったが、この作品が野間賞を受賞した際、小林秀雄は、「長く書いたが、苦労ではなかった。苦労もあったが、それも楽しく、読者に訴えようという気も強く持っていなかった」と語っている(「『近代絵画』受賞の言葉」)。「読者に訴えようという気」とは、彼が言った「早く獲物がしとめたい猟師」としての野心であり邪念でもあっただろう。そしてこの「平凡な解説」者に似て「一番立派な批評」家たらんとする覚悟を、彼は「近代絵画」を上梓した翌月以降、五年間、計五十六回にわたって断行した。それが、「感想」という名で『新潮』に連載されたベルクソン論であった。

 

実は、雑誌から求められて、何を書こうというはっきりした当てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルグソンの哲学を説くに及ぼうとは、自分でも予期しなかったところであった。これは少し困った事になったと思っているが、及んだから仕方がない。心に浮かぶままの考えをまとめて進む事にするが、私の感想文が、ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせないで終ったら、これは殆ど意味のないものだろう、という想いが切である。

 

母親の死にまつわる或る忘れ難い経験の回想から書き出され、話がベルクソンの哲学に及んだ第三回の冒頭で、すでに彼はこのような「想い」を吐露している。きっかけは何であれ、連載がこのような形で始まった以上、彼の目的はベルクソンの哲学の「解説」を書くことであり、それは畢竟、「ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせ」ることに尽きる。とすれば、「勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る」のは必至であろう。「扨て、余談にわたったが」と断って、彼は「意識の直接与件」でベルクソンが扱った自由の問題に分け入るのだが、その後五年間、「余談」はもはや一行も書かれなかったと言ってもいい。そしてベルクソンの著作の、「『白痴』について Ⅱ」の言葉をふたたび借りれば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところ」が延々と記述されて行くのである。「ゴッホの手紙」では、翻訳はあくまで翻訳としてその体裁を最後まで崩すことはなかったし、「『白痴』について Ⅱ」では、自由に再構成された登場人物たちの告白が地の文にそのまま現れるようになるとはいえ、それはあくまで小林秀雄の声色で語られ、彼の批評作品と呼べる姿を保っていた。それに対し、ベルクソンの著作をひたすら祖述しようとするこの「感想文」は、回を進むにしたがって、小林秀雄の解釈は勿論だが、彼の文体までもが消失して行き、遂には「平凡な解説」としか呼びようのないものに限りなく近づいて行く。まさに「全然兎が捕まらない批評」を、彼は書こうとしたのである。

ところが「『白痴』について Ⅱ」の時と同じく、第五十六回を発表したところで彼はソビエト旅行へ出発し、連載はまたしても中絶した。その理由については、彼自身が語った片言がいくつか残されている。だがその詮索よりも、彼が五年間もベルクソンの「解説」者に徹し続けたという事実の方が遥かに重要であると思われる。「自己を没却出来る」という小林秀雄の批評家的性向が、ここまで徹底して発揮されたことはなかった。先に引用した「余談」に続けて、彼は、「はからずも、ベルグソンの処女作を、又読み返して見る様な仕儀になり、書きながら、以前、この哲学者に抱いていた敬愛の情が湧然と胸に蘇る」と書いている。「無私ヲ得ントスル道」は、小林秀雄の胸中に湧出するこの「敬愛の情」から常に出発し、いつもまたそこへ帰って来る道であった。

(つづく)