「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従って矩をこえず。(孔子『論語』)」
「年をとるほど幸せになる”Older people happier”」という講演がTEDの中にある。スタンフォード大学高齢化センターのローラ・カーステンセンという方の講演で、印象に残っている話の一つだ。大人になると、歳を経るということを別段に嬉しく思う人は少ないかもしれない。けれど、「あなたは日々どれだけ幸せを感じていますか?」といった幸福度の実証的な調査をすると、「人は歳を経るほど幸せになる」という結果が出るという。喜びや感謝といった感情は年齢を経るにつれて増し、ストレスや不安、腹を立てるといった頻度は減ってゆく。何度やっても同じ調査結果が出るとのことらしい。高齢者が若い者より幸せであることは、統計的な事実であるようだ。
幸福、それは私たちの人生にとって最も大切なものであると言えるが、捉えどころのない漠然としたものでもある。ハッピー、とカタカナで表現でもすれば何となくお気楽な感じもする。そもそも、幸福度の調査というが、幸福を測ることなど可能なのだろうかと疑問にも思う。定義のしようがないところに、幸福という概念の本質があるようにさえ思われるというのに。
とは言え、幸福と年齢のこうした現象は、今のところは僕にも当てはまるような気がする。実証的なデータから「人は歳を経るほど幸せになる」ものだと言われたら、そういうものかという気がしてくるし、ぜひそうであってほしい。
高齢になると一般的には体力が落ち、健康上の問題も増えてくるから、高齢者の幸福度が若い者よりも高いという観測的事実は「高齢のパラドックス」とも呼ばれている。この事実については、単なる認知機能の低下が原因だろうと考える学者も多いのだそうだ。人生は良い事ばかりではないから、悪い出来事に対する認知が低下すれば、主観としての幸福度は増すに違いない。また、高齢による認知機能の低下は確かに起きることだろうから、幸福度の増大は、認知機能の低下が引き起こす単なる副産物に過ぎないというわけだ。有り得ない理屈ではないし、僕自身も幸福そうな大人を見るたび、似たような事を密かに思いもしてきた。今でも、そうした考えの半分は正しいと思っているが、一方では、浅はかな考えであったと反省してもいる。カーステンセンはというと、パラドックスとされる幸福の現象を人間性に関わる問題として捉えている。
「高齢のパラドックス」は単なる認知機能の低下による結果ではない、数々の実験結果がそう示唆しているのだそうだ。なにせ、認知機能の高い者ほど「高齢のパラドックス」は当てはまるとのことらしい。歳を経た人は悲しい出来事が認識できないのではなくて、悲しみと上手に向き合っているのだと、カーステンセンは言う。彼女のそうした考えは実験の裏付けを得たものであり、多様な年齢の人たちに色々な顔の写真を見せると、高齢な者ほど笑顔に注意が向かい、嫌そうな顔や怒った顔は自然と避ける傾向があるのだそうだ。また、記憶においても、色々な映像を見せると高齢な者ほどポジティブな映像の記憶が残りやすく、ネガティブな映像の記憶は残りにくい。こうした認知的な傾向は、高齢者が幸福である事実と無関係ではないのだろう。
彼女はまた、幸福へ通じる高齢者のそうした態度は、人生に残された時間の長さに係わる問題であろうと言う。当然だが、若者に比べて高齢者に残された人生の時間は短い。だから、残された人生の時間を意識しながら、良い出来事に出来る限り目を向けて、より生産的であろうと今この時間を大切にし、より感謝し、より多くの和解を受け入れる。それが「高齢のパラドックス」の内実であるに違いないと述べている。
30歳の若輩者が「高齢のパラドックス」について語るのは、何となく失礼な気がしている。同じ「幸せ」という言葉で呼んでいても、40代、50代、或いは60代や70代といった年齢の方にとっての幸せは、30歳である僕のような若造のそれとは全く質が異なるものであるに違ない。それだけは、この歳でようやく分かるようになった。それなのに、どうして「高齢のパラドックス」の話をしているのかというと、このパラドックスの他方の端、若者にとっての意味合いについては思うことがあるからだ。人生に残された時間が少なくなるにつれて、物事の前向きな側面へと意識が向かい幸福になる傾向が「高齢のパラドックス」の内実であると言うのなら、若者が不幸を感じやすい傾向も同様に人間性の一端として認めていけないはずはない。だから、ここでは「高齢のパラドックス」の若者にとっての意義について考えてみたい。
「僕はただもう非常に辛く不安であった。だがその不安からは得をしたと思っている。学生時代の生活が今日の生活にどんなに深く影響しているかは、今日になってはじめて思い当る処である。現代の学生は不安に苦しんでいるとよく言われるが、僕は自分が極めて不安だったせいか、現代の学生諸君を別にどうという風にも考えない。不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである」(「僕の大学時代」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)
若者の精神について想うとき、僕にとって、自然と思い出されるのが小林秀雄さんのこうした言葉である。「精神の不安は青年の特権である、という考えを僕は自分の青年時代の経験から信じている」とも、小林さんは書いているが、僕自身は20代を通してこうした言葉に非常に支えられてきた。「高齢のパラドックス」に係わる文献について調べてみると、人生における幸福度はU字カーブを描き、50歳頃まで緩やかに下降し、その後は上昇を続けるというのが一般的な傾向のようである。だから、「人は歳を経るほど幸せになる」という話を、そのまま青年期を含む若い年代へ当てはめることは出来ないが、とは言え、感情的な側面に限ってみれば、これは人生の全般を通じてよく当てはまる事実であるようだ。ストレスや不安といった感情は青年期に上昇し、その後は歳を経るにつれて緩やかに下降する。青年の特権とまで言い切ることは統計的には難しいが、若者には年輩者よりもネガティブな感情を抱きやすい傾向が確かにある。
認知的な側面においても、若者の意識はポジティブな事柄と同様にネガティブな事柄へも向かい、悪い出来事の記憶も年輩者に比べて残りやすい。これら精神の傾向は幸福度を押し下げる要因となるに違いないが、若者の精神にはどうして、そうした傾向がわざわざ備わっているのだろうか。単なる未熟さの結果である、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、話はそう単純であるとは思えない。「不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか」。小林さんの言葉も示唆するように、若者の精神の特性にも何かしら人生における得があるように思われる。どういった意義があるのか。若者の精神の意味合いも、高齢者の幸福へと通じる態度の由来と同様に、人生に残された時間の長さから考えてみてもよいだろう。
若者には長い人生の時間が与えられている。人生をどのように生きていけばよいか、そうした未来に対する問いを抱くことは、だから、若者にとっては必然だろう。自分はどういった人間で、何になりたいのか、発達心理学の言葉を借りるならアイデンティティの確立が、未来を想う若者にとっては大事な課題となる。そうした選択にとっては、現実の良いも悪いもありのままに受け止める批評的な精神が不可欠であると思う。経験の蓄積が少ない、過去の惰性を知らない若者にとっては尚更そうであるように思うのだが、意識が物事のネガティブな側面へも向かう若者の精神は批評的な精神に通じるものであると言っていい。これについては、例えば、ローレン・アロイとリン・アブラムソンによる次のような面白い実験がある。
ハッピーな学生とそうでない学生の認知の傾向を比較するため、ボタンの操作でライトの点滅がコントロールできる状態と、他方で、ボタンの操作ではライトの点滅がコントロールできない状態を設定し、学生に、ライトの点滅をどの程度までコントロールできたと思うかを自己申告させてみる。気分が落ち込んでいる学生は何れの設定においてもコントロールできたか否かの判断が正確である。これに対し、ハッピーな学生ではコントロールできる状態の判断は正確であるのに対して、全くコンロトールができない状態のときにでもコントロールできたと思う者の割合がかなり多くなる。気分が落ち込んでいる者の方がハッピーな者に比べて、失敗の経験を正確に把握し記憶する、つまり、現実主義者なのである。
日常の生活においては全くコントロールが不可能な状況というのは稀だろうから、上手くいく可能性に意識が向かう者の方が、現実を正しく把握しているのかもしれない。少なくとも、物事はポジティブに考えた方が生産的である。とは言え、自分にとって本当に大事な問題を浮かれた気分のままに決断する人はきっと少ないに違いない。それは、幸せな気分というものが必ずしも冷静な判断にとっては適さないという、実験が示唆するような事実を私たちが経験的に知っているからなのだと思う。
青年時代は人生という時間軸で捉えるなら、たくさんの価値と出会い、未来に自分はどう生きていくのかを選択する時期にあたると言える。批評的な精神にとってハッピーは必ずしも適切であるとは限らない。若者の精神の傾向は、そうした事情を反映した結果であるのかもしれない。或いは、むしろ、現実への期待や無知に由来する楽観性と釣り合いをとるためにネガティブな精神も必要とされるのかもしれない。いずれにせよ、現状を正しくないと感じる精神の傾向は、未来における理想の実現へと向かう原動力にはなるだろう。
人間は自身の幸福の度合いを調節しながら生きている。若者にとっての意義も認めるなら「高齢のパラドックス」と呼ばれる現象はそう捉えることもできる。「歳を経るほど人は幸せになる」という傾向が事実であるなら、それは人生というものに適応的な精神の性質であるに違いない。満ち足りて少しでも生産的であろうとする大人と同様に、理想を精一杯に探究する若者の精神も「高齢のパラドックス」の内実の一端を担う大切な人間性なのではないだろうか。幸福と年齢の現象について知ったときそう僕は思った。
冒頭で引用したのは孔子が年齢に応じた心の在り様を説いた言葉である。その一つ一つについて僕には未だ知る由もないが、人間の心の在り方は、人生を通じて確かに変わってゆくのだろう。僕の場合、きちんと幸福でありたいという思いは年々強くなっている。幸福と年齢の間に法則性があるのなら、これに沿えるようきちんと努力していたいと願う。
(了)
メモ:
・Stone,A.A., Schwartz,J.E., Broderick,J.E.&Deaton,A. (2010) A snapshot of the age distribution of psychological well-being in the United States. PNAS, 107(22).
ギャラップ社による2008年のアメリカにおける34万人を対象とした調査に基づく、幸福と年齢の関係の統計的な分析結果。全般的な幸福度が50歳を境にU字カーブを描くという知見が再確認され、またこれに加えてネガティブな感情は20代の初期から緩やかに減少してゆくという結果を報告。
・Carstensen, L.L.&Mikels J.A. (2005) At the intersection of emotion and cognition: Aging and the positivity effect. Current Directions in Psychological Science, 14(3).
ポジティブ優位性効果(positivity effect)と呼ばれる、年齢に伴い認知や記憶がポジティブな事柄へ向けられる傾向がある事実について等を紹介。
・BiRinci, F.&Dirik, G. (2010) Depressive Realism: Happiness or Objectivity. Turkish Journal of Psychology, 21(1).
うつ傾向にある人の方が健常な人よりもむしろ現実を正しく認知しているという考えは、抑うつリアリズムの仮説(depressive realism hypothesis)と呼ばれる。今なお議論が続く問題ではあるが、健常者の認知には一般的に楽観的な偏向があることは事実として認められている。
・Alloy, L.B.& Abramson, D.Y. (1979) Judgment of contingency in dpressed and nondepressed students: Sadder but wiser?. Journal of Experimental Psychology: General, 108(4).
ローレン・アロイとリン・アブラムソンによる、抑うつリアリズムの仮説の発端となった実験。