……小林秀雄『本居宣長』を読んではとりとめもないおしゃべりをする男女四人、今日は第八章から第十章あたりまでが話題になっているようだ……
元気のいい娘(以下「娘」) ボク、決めた。
生意気な青年(以下「青年」) 決めたって何?
娘 ゴーケツになるの。
青年 ええええええ!
凡庸な男(以下「男」) うーむ、それは、小林先生のいう豪傑のことかな。
娘 そう。「万葉」を読んだ契沖、「語孟」を読んだ仁斎、「六経」を読んだ徂徠、「万葉」を読んだ真淵、「古事記」を読んだ宣長。こういうオジサンたち。
男 ええと、その、どういうところが豪傑なの?
娘 卓然独立して倚るところなし、でしょ。決まりだわ。
青年 そんな無茶な。
江戸紫の似合う女(以下「女」) 元気がおありで、よろしゅうございますわ。
娘 他人は知らず自分はこの古典をこう読んだ、そういう責任ある個人的証言が出来るような人でしょ。立派。こういう人に私はなりたい!
女 素敵、Girls, be ambitious!
青年 そんなこと、できるわけないさ。非現実的だよ。
女 君はいつもそう。Boys, be suspicious ! (笑)
青年 からかわないでください、謙虚なだけです。
男 それで、その、「自分」とか、「個人的」とかいうのは、個性とか、独創とかいうことなのかな。
娘 そうじゃない。他人の受け売りをしないで、ということ。
男 ううむ、古典には、膨大な註釈の伝統があるからね。註釈の集積から抽出された理論ではなく、古典の本文を読みなさいということかな。
青年 そういう原典主義っていうのは、なにかモダンな感じがする、方法論的に。
娘 それは全然違う。あくまで、無私の精神よ。
青年 いまの学問だって、客観主義というか、実証主義というか、個人の恣意は排除しているよ。
女 でも、その中身が大違いじゃなくて。現代の学問は、それぞれの分野の専門家集団が、皆が共有する方法論で研究を進め、先行業績を踏まえつつ一定の差異が認められれば、独自業績として受け入れられるわけでしょう。個々の研究者の恣意は許されないっておっしゃるけど、その担保は、結局、他人の評価でしょう。
青年 (娘に)君の言う豪傑さんたちは違うっていうのかい。
娘 そうよ。自分一人の決断として、古典への信を新たにするためひたすら努力した。「論語」であれば、孔子が言おうとしたことそのものに耳を傾けようとしたの。
青年 何でそんな無理をするんだい。タイムマシンがあるわけでなし、孔子の声を直接聞こうなんて。僕らの目の前にあるのは、時の経過の果て、たまたま残った文献だけじゃないか。だから、厳密なテクストクリティークを経てさ。宣長さんたちの文献校合も厳格なもので、実証主義の萌芽だって聞くけど、現代の学問にはより洗練された方法論があるのさ。
女 そうやって、古典を切り刻んでしまう、それが今の学者さんたちのなさりよう。古典はあくまで、ご自身の理論構築のための素材に過ぎないのでしょう。「見るともなく、読むともなく、うつらうつらと詠め」て初めて分かるようなことは、はなから対象になさらない。再現性がないものは実証的ではないとされてしまう。現代の価値観では受け入れられない部分は、時代の制約とか、歴史的限界とかおっしゃって、切り捨てておしまいになる。
青年 じゃあ、貴女たちいったい、何が知りたいわけ。
娘 道とは何か、人生如何に生きるべきか、ということよ。
青年 そんな、いきなり戦前の学校教育における「修身」の授業みたいなこといわれても。道学者流の封建道徳の押し付けはご免だね。
女 あら、モダンの世界でも、個人の尊厳とか、人格の尊重とか、よくおっしゃるでしょう。それは何のことかしら。生きることの意味って、何かしら。
青年 意識高いのは結構だけど、答を出す見通しがあるの。
娘 豪傑くん達は、道を知るには歴史を深く知ることだ、と考えたの。
男 ええと、それは、貴女たちがさっき否定した、先人の注釈の蓄積を踏まえることと、どう違うのかなあ。
女 今風の用語法に頼らずに、古人が発した古言そのものを知りたい、だから、歴史を意識するのですわ。
男 それは、そのう、倫理的な価値の体系の歴史的な変遷をフォローする、みたいなことかな。
女 いいえ。確かに、歴史って変化ですわ。人々の暮らし向きは、時代とともに遷り変わりますもの。でも、人間が生きるということに何か意味があるとすれば、それは、太古の昔から変わりようがないと思うの。人間の価値というか、人生如何に生きるべきかについての教えというようなものが、歴史の変転の中を貫いて、伝えられているのではないかしら。それを見出すため、過去を、つまり古人の言葉や立ち居振る舞いを上手に思い出す努力をする。歴史を知るというのは、こういうことではなくて。
男 そ、そんなこと、できるのかなあ、思い込みじゃないのかなあ。
女 もちろん、簡単な事だなんて申しません。古今の別ある歴史の中に、古今を貫透する古人の教えを見出そうというのだから、大変な精神の緊張を要することですわ。でも、時代が違えばそれぞれの時代に色々な考えがある、なんて言い出したら、古人の教えにはたどり着けませんわ。豪傑といわれた方々は、時代の変化やら歴史の相対性とやらに逃げず、張り詰めた思考を妥協せず持続なさったの。
男 そうはいっても、世の中って、どんどん変わっていくよね。歴史について僕らが知り得るのは、結局、過去の人々の生活の痕跡だけじゃないのかな。しかも、言葉も変わる。人々の日々の暮らしを支えているのはその時々の言葉なんだから。そういう言葉の変化が、歴史と言うものなんじゃないの。だから、文書でも、他の物的資料でも、過去の言葉の残像でしかない。とんだ判じ物だね。
女 おっしゃるとおりですけれど。でも、過去と今とをつないでくれるのも、また、言葉でしょう。生身の人間も、その暮らしも思いも、みな消えてしまうけれど、言葉は残る。世は言を載せてもって遷る。
男 でもなあ、古今変わらぬ古人の教えというものがあったとしても、如何に生きるべきかという智慧に変わりがないとしても、それを伝え表す言葉が変化してしまうことは避けがたいのじゃないの。言は道を載せてもって遷る。そうだとすると、歴史を、つまり言葉を学んでいて、「道」にたどり着くことができるというのは、なぜなんだろう。
娘 それは、きっと、言葉が「物」だからよ。
青年 えっ、何を言い出す。
女 あら、あら、あら、そうそう、そうですわ。言葉は私たちの外にある。もちろん、私たちの頭の中、心の中、いや体の中にも言葉が詰まっていて、私たちは、言葉なしには、考えることも、喜んだり悲しんだりすることも、痛いとか寒いとか感じることもできないわ。でも私たち人間は、たとえ宣長さんみたいな大学者だって、日本語そのものを生み出すことはできない。原始の頃からの長い長い時間のなかで営まれた人々の生活の膨大な集積として、ことばが生まれた。
青年 だからなんなのさ。
女 言葉は私たちの思う通りになる道具ではないの。だから、かつて古人の口から発せられ長い年月を経て今に伝わる言葉は、石碑に刻まれ風雨にさらされ消えかけた文字の痕跡を見るように、その形を、やすらかに、見るほかはないの。
青年 で、何かが見えてきたとでもいうつもり?
女 滅相もない。わたくしなりの考えを、勇を鼓してお話ししているだけですわ。古人の言行が今に伝わるというのは、古人が言葉を発したり、何かの立ち居振る舞いをなさったりしたそのときの、人々の驚きや悦びが口伝えに広まっていき、そしてそれが、後々の世のそれぞれの時と所で、あらためて人々の気持ちを動かし続けてきたということでしょう。そういう言葉には、時と所を超えた、人間の変わらぬ姿が映し出されているのではなくて。
男 そうだとしても、それは、僕らにとってはどういう意味があるんだろう。
女 それは、ご自身でお考え遊ばせ。わたくしについては、そうね。人間の変わらぬ姿、本来の在りようが多少とも見えてくれば、それとひき照らして自分を見つめてみる。いつどこで生まれて、カクカクシカジカの生き方をしてきたというような、「時代的社会的制約」とかいうのかしら、そういう余分な物を取り払った本来のわたくしの姿が見えて来るかもしれないわ。そうなれば、人生如何に生きるべきかという問いを独りで考え抜く勇気が湧いてくるような気がするの。
男 独りになる勇気か。(娘に)で、豪傑にはなれそうかな。
娘 あのね、さっきは豪傑になりたいなんて言っちゃったけど、ホントはあこがれっていうか、ボクのアイドルだな、豪傑くんたち。だって、カワイイじゃん。
青年 カワイイ???
娘 とっても難しいコト考えてるはずなのに、しかめっ面じゃなくて、何か楽しそう。学問をする悦びっていうのかな。古人の教えに近づけば近づくほど、ハラハラドキドキしてくる。ボクも、プレゼントたくさんもらうけど、本命のカレシからのは、リボンを解くの、ちょっとためらうみたいな。
青年 そういう譬えって、何さ。だいいち、君っていったい……、
女 (さえぎって)およしなさい。小林先生も、仁斎についてこう書いているわ。(「論語」という)「惚れた女を、宇宙第一の女というのに迷いはなかった筈はあるまい」(*)
……取り留めもないおしゃべりは、取り留めもなく続いてゆく……
(*)「好き嫌い」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第23集33頁)
(了)