小林秀雄さんは常識の人である。「批評という仕事は、科学の考え方よりもよほど常識の考え方に近いやり方をするものなのである。つまり、理屈というものの扱い方が、科学的というより寧ろ常識的なところに批評があると私は思っている」と自ら仰るほど、常識というものに信を置いて批評を続けた人だ。それでは、小林さんが批評の拠りどころとした「常識」とは、一体どういったものであるのか。小林さんの『常識』と題された文章に以下の言葉がある。
「なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識が利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するかのように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収)
常識と言えば、普通、誰しもが知っている知識のようなものを思い浮かべる人が殆どであると思う。そうした通俗的な意味合いからすれば、随分と変わった常識の捉え方をするものだと、そう思われるに違いない。小林さんは、私達の私生活を支える常識の本質を、その働きの俊敏さや柔軟性に見ている。
『常識』は人工知能という言葉も無い頃に書かれた文章である。常識の貴さが計算機との対比から何気なく語られるこの文章にも、人間性の本質を射貫く小林さんの慧眼が光っている。と言うのも、近年の目覚ましい人工知能の発展が明らかにした事実が、他でもない、常識という人間にとって身近な知性こそが、人工知能にとっては最も得難いものであるという事実であるからだ。小林さんの言う「常識」を、現代の人工知能が抱える問題から照らし出してみたい。
機械による計算と人間の知性の違いについて、気になって色々と調べてみた事がある。学生の頃であったから、計算機に取って代られるような人生は歩みたくないと、そんな気持ちを抱きながらであったと記憶している。その際、「フレーム問題」という人工知能が抱える古典的な問題がある事を知った。1969年に『人工知能に見る哲学的問題』という論文で提起された問題であり、著者の一人であるジョン・マッカーシーは人工知能 (AI: Artificial Intelligence)という言葉の生みの親でもあるそうだ。コモン・センスという言葉と共に議論がなされるフレーム問題は、人工知能が抱える常識の問題だ。
フレーム問題とは、要点だけ述べれば、私達にとっては何気ない行為でも、AIが処理できるように論理的にその記述を試みるなら膨大な前提条件が必要とされるという問題だ。どんな推論にも、その土台となる知のフレーム(枠組み)が必要とされる。人間にとっては自明な前提の一々を記述していけば切りがないが、AIに自然な前提といったものは何もない。では、人工知能は如何にして、人間が判断の土台としている無数の前提を持ち得るのか。これが、マッカーシーらがフレーム問題と名付けた、人工知能にとっての常識の問題である。
フレーム問題は純粋に論理的な観点から提起された問題だが、人類はその後、AIの設計において常識をプログラミングすることの困難に直面した。例えば、クイズに答えるAIを設計する上でも、常識が障壁となった。計算機は、人が一生涯かけても覚え切る事が困難であるような膨大な知識を、一瞬にして情報として記録する。ところが、いざクイズに解答する段となると、その記録された情報の中から問われている内容に沿う適切な情報を選び出してくる事が難しい。
また、囲碁や将棋といった盤上ゲームのAIの設計では、「直観」と呼ばれる類の知性をプログラミングすることが困難であった。コンピュータは毎秒何万という人間が到底及びもつかない速度で先の展開を計算することができる。いわゆる「読み」と呼ばれる能力において、人間は計算機に太刀打ちできない。けれども、人間の棋士が「読み」を始める以前に働かせる、無数の手の中から若干の有望な手を何気なく選び取る直観が、計算機には得難いものであった。
各々の棋士の直観は、考えるというよりは感覚に親しい、対局という経験のうえに築き上げられた常識であると表現してもよいものだろう。
人工知能にとっては常識こそが難しい。これはAIに関心を寄せる者にとっての今や常識である。とは言え、近年のAIは機械学習と呼ばれる、経験を活かすアルゴリズムの開発により飛躍的な発展を遂げた。クイズにせよ、盤上ゲームにせよ、現代のAIは既に人類を凌駕している。
小林さんの『常識』という文章は、自らが学生時代に翻訳を手掛けた『メールツェルの将棋指し』の話で始まる。将棋を指すイカサマの機械が登場するこの物語の主人公であるエドガア・ポオは、「将棋盤の駒の動きは、一手々々、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけにはいかない。何処かに人間が隠れているに決まっている」という常識的な考えを手放さず、機械の目的が将棋を指すことにあるのではなく、人間を上手く隠す事にあるという事実を暴く。常識から出発し、これを手放さず、粘り強く考え続けること、その困難と大切さがポオの物語を通じて語られる。また、将棋を指す計算機は常識に反するものとして、未来におけるその実現の可能性がそれとなく否定されもする。
今、人工知能は驚異的な発展を遂げている。2016年にはディープマインド社の人工知能アルファ碁が、人類最高の棋士の一人に勝利した。人工知能の黎明期にその礎を築いたノーバート・ウィーナーでさえ、「もちろんメールツェルの詐欺機械のような”強い”機械はできないであろうが」と、そう考えていたのだから、現代のAIの躍進は人類の殆ど誰しもが予想だにしなかった事件であると言える。人類のテクノロジーは、ポオを含むかつての人々が抱いた常識の一面を越えていった。とは言え、私たちが私生活において発揮している常識をAIは未だ手にしてはいない。
20代の頃、高校を卒業して社会的な決まり事に触れる機会が多くなり、いわゆる常識を疎ましく思う時期があった。物覚えは良くない方だから知識としての常識は今も好きにはなれないが、私生活の何気ない場面にもっと「常識」があればと思う瞬間は多々ある。相手の気持ちが分からず、上手な言葉がかけられない時などは常識の不足を恥ずかしく思う。
小林さんには『常識について』(同第25集所収)という、常識を論じたもう一つの文章があり、その中で「中庸」という言葉について触れている。私達が常識という言葉を持つ以前、中庸がこれに相当する言葉であったのだろうと小林さんは言う。中庸は孔子によって初めて使われた言葉だが、以来、定義を与えて安心したがる学者達によりあれこれとやかましい議論がなされてきたそうだ。小林さんは、伊藤仁斎の言葉を借りながら、「中庸という言葉は、学者達の手によって、『高遠隠微之説』の中に埋没して了ったが、本当は、何の事はない、諸君が皆持っている常識の事だ」と言い、また「中庸とは、智慧の働きであって、一定の智慧ではない」と言う。ただし、中庸は誰しもに備わっていて、自然と働かせてもいるから、この働きの価値を改めて反省してみる人は少ない。
挨拶、買い物、会話、全く同じ状況というものはないから、私生活の何気ない行いの一つ一つに常識の働きは欠かせない。そして、その働きの貴さについては、現代の人工知能が図らずも人類に明かしてくれている。AIはある特定の課題においては驚異的な能力を発揮する。しかし、AIが上手に計算が出来るのは、その力を働かせる領域や目的が明確に規定されている場合に限られる。「汎用人工知能」の実現がAIの次なる課題であると言われているが、AIが盤上という枠組みを越えて、私達が暮らす境界線の無い実生活で上手に機能できるか否かは分からない。AIの知性は、狭く、硬いのである。
人間の常識は俊敏で柔らかい。私達の誰しもが、計算機には得難いそうした常識を備えている理由は、私達が生きているからだろう。生物が野生環境を生き抜くためには、考えるより先ず行動しなければならない。生きるという一番に大切な目的のため、私達の祖先が脈々と築き上げてきた智慧が常識の源流であるに違いない。私達の常識が私生活において最も生き生きと発揮されるのも道理だ。
AIには俊敏で柔軟な知性としての常識を得る事が難しい。そうした技術的な問題に加えて、最後にもう少し、より根本的な問題に触れて常識の話を終える。
既に述べた通り、機械学習と総称されるアルゴリズムに基づく現代のAIは、人間が規則をプログラミングするという方法では実現が困難であった数々の知的機能を備えている。パターン認識もそうした機能の一つであり、現代のAIには写真や絵に写された物が「何であるか」を人間以上に正確に判断する能力がある。とは言え、AIが私達と同じように写真や絵を見ているかどうかは、また別の話だ。色や形、或いはそれが写る素材のテクスチャーを含めて、感覚と呼ばれる独特な経験として私達は物を見る。機械的なセンサーは光の波長の差異を検知することで、赤を青やその他の色から区別する事は出来ても、そこに私達と同質な「赤らしさ」の経験が伴うとは限らないし、常識はそうは考えない。私達の経験を形づくる独特の質感は現代では「クオリア」という言葉で呼ばれ、計算機がこれを持ち得るか否かについての哲学的な議論が続けられている。
私達が現に体感している経験の質感を計算機が持ち得るか否か、ここで私見を主張するつもりはない。ただ、そうした経験の最も深い謎に関わる哲学的な問いと、AIに常識が持ち得るかという技術的な問いの間には、案外に密接な関係があるに違いないと個人的にはそう思う。赤い物を見て、青でも緑でもなく、そこに赤らしさを感じること。感覚を形作る私達の質感は、知の確かな土台として、私達の判断を根底において支えてくれているものだ。これがなければ、経験から考え、過去を振り返ることが全く意味を成さなくなる。従って、独特の直観とでも言うべき私達の感覚は、私達にとって最も根源的な常識であると言えるだろう。
「源は常識だ。誰でも知っている事を、もっと深く考えるのが、学問というものでしょう」
(「交友対談」、同第26集所収)
常識の奥は深いのだ。
(了)