二十二 「独」の学脈(上)
1
――歯落口窄り、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、弥独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……
歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増してとりわけ舌が不自由になり、難儀していますが、そうではあっても口を閉じてものを言わなくなれば、いよいよ独りで生まれて独りで死ぬ身そのものでしょうから、講義を乞われれば一途に辞退はしないで務めようと思っています……。
これは、契沖が晩年、高弟たちに請われて始める「萬葉集」の講義を控え、昵懇の後輩、石橋新右衛門に聴講を勧めた手紙の一節である。この手紙を、小林氏は第七章に引き、契沖が行き着いた学問の核心「俗中の真」を読者に伝えたのだが、氏はいま一度これを引いて第八章を書き起す。
――先きにあげた契沖の書簡の中に、「さるにても閉口候はゞ、弥独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」とあるが、面白い言葉である。当人としては、「万葉集」の講筵を開くに際しての、何気ない言葉だったであろうが、眺めていると、いろいろな事が思われる。これは、学問に対する契沖の基本的な覚悟と取れるが、彼にあっては、学問と人間とは不離なものであるから、言葉はこの人物でなくては言えない姿に見えもする。のみならず、彼の人格は、任意に形成されたというような脆弱なものではなかった筈だから、この人が根を下した、時代の基盤というものまで語っているように思われる。地盤は、まだ戦国の余震で震えていたのである。……
こうして第八章からは、本居宣長の学問を生んだ近世の学問の来歴が辿られる。小林氏は、第四章で、「契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であったと宣長は言う」、「契沖は、宣長の自己発見の機縁として語られている」と言ったが、その宣長の自己発見の機縁となった契沖の「独」という言葉を軸に、氏は氏自身が近世学問の祖と位置づける中江藤樹へ、そして伊藤仁斎へと遡る。藤樹、仁斎の生涯と学問も、自己発見という「独」で貫かれていたのである。
ここで語られる「独」は、ひとまず「個」と言い換えてみてもよいだろう。すなわち、小林氏が、文壇に出た「様々なる意匠」以来、変ることなく追い求めてきた「個」である。近現代の思想や学問は、「個人」を排除し、「集団」を基準として客観主義、実証主義に走った。藤樹らの学問は、そういう近現代の学問とは根本的に異なり、どこまでも「個」に徹した藤樹、仁斎、契沖らの学問が宣長に受け継がれたのである。だが、近現代の学者たちは、宣長の学問を、似ても似つかぬ自分たちの客観主義、実証主義の先駆と決めつけて平気でいる、とんでもない勘違いだ、まずはそこを正さなければならないという思いが小林氏の心底にある。
小林氏は、先に、契沖が身を置いた時代の地盤は、まだ戦国の余震で震えていたと言ったが、その戦国時代とはどういう時代であったか。氏はまず戦国と呼ばれる時代の相を指し示し、契沖より約三十年早く生まれた藤樹の「独」、同じく約二十年早く生まれた仁斎の「独」が、いかにして自覚されたかを追っていく。
――戦国時代を一貫した風潮を、「下剋上」と呼ぶ事は誰も知っている。言うまでもなく、これは下の者が上の者に克つという意味だが、この言葉にしても、その簡明な言い方が、その内容を隠す嫌いがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多かろうと思うが、それも、「下剋上」という言葉の字面を見て済ます人が多いせいであろう。「戦国」とか「下剋上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、「大言海」の解は、それを指示している。……
たしかに、「下剋上」に「でもくらしい」は唐突である。わけても現代の私たちには、「でもくらしい」すなわち「デモクラシー」という外来語の訳語としては「民主主義」しか持ち合せがない。『大言海』は、国語学者の大槻文彦が日本で初めて著し、明治二十二年から二十四年にかけて刊行した国語辞典『言海』の増補版で、昭和七年から十年にかけて完成した全四巻、索引一巻の国語辞典であるが、現代を代表する国語辞典の『広辞苑』『大辞林』はいずれも単語の「民主主義」「民主政体」を併記しているに留まり、『日本国語大辞典』は、その上に「民主的な原理、思想、実践。また日常生活での人間関係における自由や平等」と記してはいるものの、これとても近代以後に舶来した西欧のイデオロギーである、おいそれとは「下剋上」に結びつかない。
だが、小林氏の言うところを子細に読んでいけば、たしかに「下剋上」は、「でもくらしいトモ解スベシ」と思えてくる。
――歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが、戦国時代は、この動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は、兵乱の衣をまとわざるを得なかったが、……
――この時代になると、武力は、もはや武士の特権とは言えなかったのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰に克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなっていた。……
いま言われている「馬鹿」は、旧来の身分や家柄の上に胡坐をかき、自分にとって有利な制度や因習に寄りかかり続けているお坊ちゃん、とでもとればわかりやすい。戦国時代の下剋上は、前時代までの身分や家柄、制度や因習等をことごとく無に帰さしめ、人間ひとりひとり、皆が皆、それぞれに素手で、自力で生きていくことを余儀なくされた。しかし、これを裏返して言えば、人は生まれや育ちにかかわらず、誰もが公平かつ平等の境涯に身をおける日がきたということだ。ゆえに「下剋上」は、「でもくらしい」なのである、『日本国語大辞典』が言う「日常生活での人間関係における自由や平等」と通底するのである。
小林氏が、「『戦国』とか『下剋上』とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、『大言海』の解は、それを指示している」と言って、「歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが」と言っているのは、室町時代末期の応仁元年(一四六七)に起って一〇〇年続いた応仁の乱の時代、すなわち戦国時代に揉まれて人それぞれの工夫次第、努力次第で自分の生き方の扉を自分で開けられる時代が来た、これは、歴史の摂理からして当然の帰結であったと小林氏が見てのことである。
第八章の起筆に契沖の言葉「弥独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」を引き、この言葉は契沖が根を下した時代の基盤というものまで語っているように思われる、地盤はまだ戦国の余震で震えていたのである、と小林氏は言った。だがそれは、契沖が生きた元禄の世になっても世情は騒然としていたというのではない。戦国の「下剋上」が日本の文明にもたらした「独」の自覚と追究、このまったく新たに経験された精神の活動は、なおも烈しく揺れていたと言うのである。
2
戦国時代は、「下剋上」を徹底して実行し、尾張の国の一下民からついには関白の座を手中にするまでに至った豊臣秀吉によってひとまずけりがついた、しかし、「下剋上」の劇は、この天下人秀吉の成功によって幕が降りてしまったわけではない、「下剋上」という文明の大経験は、まず行動のうえで演じられたのだが、これが相応の時をかけて、精神界の劇となって現れたと小林氏は言い、
――中江藤樹が生まれたのは、秀吉が死んで十年後である。……
と転調して、次のように続ける。
――藤樹は、近江の貧農の倅に生れ、独学し、独創し、遂に一村人として終りながら、誰もが是認する近江聖人の実名を得た。勿論、これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい。……
中江藤樹は、慶長十三年(一六〇八)に生れた。関ヶ原の戦からでは八年、徳川家康が江戸に幕府をひらいてからでは五年の後である。当初、二十代の頃には朱子学を崇んだが、三十七歳の年に陽明学に出会って転じ、日本の陽明学派の始祖となった。朱子学、陽明学、ともに儒学の一派であり、儒学界の二大潮流をなしていたが、藤樹の学問は陽明学の枠に収まるものでもなかった。
小林氏は、続けて言う。
――藤樹は、弟子に教えて、「学問は天下第一等、人間第一義、別路のわしるべきなく、別事のなすべきなしと、主意を合点して、受用すべし」と言っている。……
学問は、この世で最も大切な仕事であり、人間にとっていちばんの大事である、ゆえにそこからそれた道へ走ったり、それ以外のことに手を出したりしている余裕はない、この肝心の主旨をよく心得て理解し、実践しなければならない。
――又言う、「剣戟を取て向とても、それ良知の外に、何を以て待せんや」。……
人が武器を手にして向かってきたとしても、こちらは良知で立ち向かう。「剣戟」は剣と矛。「良知」は人に生まれつき具わっている知力、判断力の類で、藤樹の学問を象徴する語であるが、第九章であらためて言及される。
こうして、
――彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……
「眼に見える下剋上劇」とは、他人に勝とうとする戦いである。「眼に見えぬ克己劇」とは、自分に勝とうとする戦いである。「剋」も「克」も何かに勝つという意味であるが、藤樹は自分が自分と戦う内面の戦いを始め、その戦いを学問と呼んだというのである。
続いて小林氏は、「藤樹先生年譜」に拠って、藤樹が祖父吉長に引取られるかたちで移り住んだ伊予の国(現在の愛媛県)大洲藩での藤樹十三歳の年と、十四歳の年の出来事を読ませる。
まずは十三歳の年、吉長の身辺で刃傷沙汰が起った。小林氏は、その顛末を記した「年譜」の記事を、そっくりそのまま引用する、というより、写し取る。敢えて私も小林氏に倣う。
――是年夏五月、大ニ雨フリ、五穀実ラズ。百姓饑餓ニ及バントス。コレニ因テ、風早ノ民、去テ他ニ行カント欲スルモノ衆シ。吉長公コレヲ聞テ、カタクコレヲトヾム。郡ニ牢人アリ。其名ヲ須卜ト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ、形ヲ潜メ、久シクコヽニ住居ス。今ノ時ニ及デ、先ヅ退カントス。彼已ニ他ニ行バ、百姓モ亦従テ逃ントスルモノ多シ。コレニ因テ、吉長公、僕三人ヲ遣ハシテ、カレヲトヾム。僕等帰ル事遅シ。吉長公怪ンデ、ミヅカラ行テ、カレヲ止メ、且ツ法ヲ破ル事ヲ罵ル。須卜、イツワリ謝シテ、吉長公ニ近ヅク。其様体ツネナラズ。コレニ因テ、吉長公馬ヨリ下ントス。須卜刀ヲ抜テ走リカヽリ、吉長公ノ笠ヲ撃ツ。吉長公ノ僕、コレヲ見テ、後ロヨリ須卜ヲ切ル。須卜疵ヲ蒙ルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ、事トモセズ、後ヲ顧テ、僕ヲ逐フ。コノ間ニ、吉長公鑓ヲ執テ向フ。須卜亦回リ向フ。吉長公須卜ガ腹ヲ突透ス。須卜ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノ柄ヲトル。吉長公モ亦自カラノ柄ヲトラヘテ、互ニクム。須卜痛手ナルニ因テ、倒テ乃死ス。須卜ガ妻、吉長公ノ足ヲトラヘテ倒サントス。吉長公怒テ、亦コレヲ切ル。已ニシテ、自ラ其妻ヲ殺ス事ヲ悔ユ。后須卜ガ子、其父母ヲ殺セルヲ以テ、甚ダコレヲ恨ミ、常ニ怨ヲ報ントシテ、シバシバ吉長公ノ家ニ、火箭ヲ射入ル。其意オモヘラク、家ヤケバ、吉長公驚キ出ン。出バ則チコレヲ殺サント。吉長公其意ヲウカヾヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス。然レドモ、其意乃シ尽ク賊盗等ヲ入テ、アマネク此ヲ殺サント欲ス。故ニ却テ門戸ヲバ開カシム。乃シ先生ニ謂テ曰ク、今天下平ニシテ、軍旅之事無シ。爾ヂ功ヲナシ、名ヲ揚グベキ道ナシ。今幸ニ賊徒襲入セントス。我賊徒ヲ伐バ、爾彼ガ首ヲトレ、又家辺ヲ巡テ、賊徒ノ入ヲウカヾヘ。先生コヽニオイテ、毎夜独家辺ヲ巡ル事三次ニシテ不ㇾ怠。時ニ九月下旬、須卜ガ子数人ヲイザナヒ、夜半ニ襲入ントス。吉長公アラカジメ此ヲ知ル。乃シ僕等ニ謂テ曰、今夜賊徒襲入ントスル事ヲ聞ク。イヨイヨ門戸ヲ開キ、コトゴトク内ニ入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐タン。爾ヂ等ハ、門ノ傍ニ陰レ居テ、鉄炮ヲ持チ、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテ、コレヲウツ事ナカレト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕アハテヽ先ヅ鉄炮ヲ放ツ。賊驚テ逃グ。吉長公此ヲ逐フ事数町、遂ニ追及ブ事アタワズシテ返ル。是ニ於テ先生ヲシテ、刀ヲ帯セシメ、共ニ賊ヲ待ツ。先生少シモ恐ルヽ色ナク、賊来ラバ伐タント欲スル志面ニアラワル。吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ルヽ事ナキ事ヲ喜ブ。冬、祖父ニ従テ、風早郡ヨリ大洲ニ帰ル」……
ここまで写して、小林氏は言う。
――長い引用を訝る読者もあるかも知れないが、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っていると思うので、それを捕えてもらえれば足りる。……
そう言ってすぐ、長い引用の本意を言う。
――藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。「年譜」が呈供する情景は、敢えてこれを彼の学問の素地とも呼んでいいものだ。……
藤樹の学問が育った土地は、全くの荒地であった、とは、そこが荒地であったればこそ藤樹の学問は藤樹自らの丹精で芽をふき、育ったのだと小林氏は言いたいのである。小林氏の心裡には、現代の学者は異口同音に研究環境への不平を鳴らすが、一度でも藤樹の学問環境を思ってみたことがあるか、藤樹に比べればはるかに恵まれている諸君が、藤樹に比肩できるだけの学問をしているか、そこを自問してみるがよい、という存念がある。したがって、私たち読者には、藤樹の時代の「学問」も「学者」も、現代の「学問」や「学者」とは完全に切り離して読んでほしい、そう願ってこれを言っている。しかもここだけではない、同じ第八章の終盤に至って藤樹の著作「大学解」に言及し、「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」と言った後に、念を押すように言うのである。
――ここで又読者に、彼の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらいたい。今日の学問的環境などは、きっぱりと忘れて欲しいと思う。……
次いで、同じ大洲での、十四歳の年の出来事を読ませる。
――或時家老大橋氏諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家ニ来リ、終夜対話ス。先生以為ラク、家老大身ナル人ノ物語、常人ニ異ナルベシト。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コレヲ聞クニ、何ノ取用ユベキコトナシ。先生ツイニ心ニ疑テ、コレヲ怪ム」……
ある時、家老の大橋某が四、五人を連れて来て、祖父吉長と夜通し話すということがあった。藤樹は、家老という身分の高い人物の話である、普通人とは違っていようと思い、壁に隠れて一晩中聞いていたがなんらこれといったことはない。藤樹はこれを不審にも不可解にも思った。
この一幕を引いて、小林氏は言う、
――これが藤樹の独学の素地である。周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった。……
藤樹が祖父と家老の話を盗み聞きしたのは、藤樹自身が連夜、夜半の読書百遍に勤しんでいた、そうしたある夜、たまたま家老が訪ねてきた、ということだったのであろう。
だが、しかし、
――間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。……
祖父と家老の話を盗み聞きした年の八月、祖母が六十三歳で死に、翌年九月、祖父が七十五歳で死に、藤樹十八歳の正月、父吉次が五十二歳で死んだ。
――母を思う念止み難く、致仕を願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明さなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。……
日本の陽明学の始祖とされる藤樹の学問は、その基本に、陽明学以前の「全孝の心法」があったようだと小林氏は言う。「本居宣長」において、「心法」という言葉はここが初出であるが、第九章、第十章と、「心法」は次第に重きをなしてくる。
3
さてここまで、小林氏が辿った藤樹の実生活を、ある程度忠実に追ってきた。これは、なぜ小林氏は、藤樹の学問を語るに先立って、これほどまでも精しく「藤樹年譜」を引いたのか、その気持ちを汲もうとしてのことなのだが、小林氏は、要するに、
――藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。……
と、この「荒地」という藤樹の学問環境を強く印象づけたいがために、大洲における祖父身辺の刃傷沙汰まで省略なしで引いたのである。
その背景には、優れた学問は、なべて学者の自画像である、自画像でなければならない、という小林氏の持論があった。藤樹の学問の素地としての荒地をしっかり目に入れることで、藤樹の自画像を見る目を養う、しかしそれは、単にこの人の生立ちはこうだった、だからこの人にこの発言がある、というような、因果関係を直線的に見てとろうとしてのことではない。優れた学問、学者には、必ず他者の追随を許さない「発明」がある、すなわち、それまで表面には見えていなかった物事の仕組みや道理を明らかにするという意味の「発明」である。その「発明」はいかにして成ったか、そこを跡づけようとして小林氏は素地に見入るのである。藤樹の場合は、まず「学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり」と先に小林氏は言っていた。
こういうふうに見てくると、優れた学者は学者自身が自分の学問の素地にそのつど見入っているようにも思えてくる。小林氏は、「本居宣長」を『新潮』に連載していた時期の昭和五十年(一九七五)夏、『毎日新聞』の求めに応じて友人、今日出海氏と対談し、「交友対談」と題して九月、十月、同紙に断続連載したが(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)、そのなかで、こういうことを言っている。
――今西錦司という人の「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだらなかなか面白い。こっちは生物学者じゃないから、彼の学問上の仮説をとやかく言う事は出来ないが、今西さんはこの本の序文で、「これは私の自画像である」と書いている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉というのは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると書いている。これは面白い事を言う学者がいるなと思った。……
今西錦司氏は、小林氏と同じ明治三十五年生れの生物学者で京大教授を務めた人だが、この「学者の自画像」という学問観は、小林氏が今西氏に教えられたと言うより、昭和四十年から「本居宣長」を書いてきて、中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、本居宣長と出会い、他ならぬ彼らから彼らの「自画像」を何枚も見せられていた、しかしこの「学者の自画像」という学問観は、現代ではもう跡形もなくなっているのだろうと小林氏は悲観していた、その小林氏の前に、今西氏が現れた、今西氏の言に小林氏は一も二もなく膝を打ち、その感激を今氏に語った、事の経緯はそういうことだっただろう。
小林氏は、「本居宣長」の連載開始よりも十数年早い昭和二十四年十月、『私の人生観』を出して、そこですでにこう言っていた(「小林秀雄全作品」第17集所収)。
――私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がないという事です。そんなものは単なる言葉に過ぎませぬ。実際には、様々な種類の科学があり、見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです。対象も持たず気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない。……
こういう経緯をいまここであらためて思い起してみると、藤樹もまた自分の学問の素地を幾度も顧み、そのつど目を凝らしていたのではないかと思えてくる。小林氏は、「藤樹先生年譜」は、その文体から判ずれば藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない、と言っているが、それはあたかも、この年譜は自筆年譜ではないかとさえ思われる、あるいは、学問という藤樹の自画像のデッサンとさえ思われる、そう小林氏は言っているかのようである。それかあらぬか、日本思想大系『中江藤樹』(岩波書店)の尾藤正英氏による解説には、大要、次のように記されている。
今に伝わる「藤樹先生年譜」の写本はほぼ二つの系統に大別されるが、この両系統の本のいずれもが正保四年(一六四七)以降の記事は簡単であり、また外面的な事実の記述に留まっている、しかし、正保三年までの記事は藤樹の内面に立ち入った精細な記述に富み、それ以外の生活状況などの描写にしても、藤樹自身の回想にもとづいて記録されたのでなくては、これほどまでの迫真性には達しえないと思われる点が少なくない、藤樹がある時期、自分の生涯をまとめて語るということがあったのかどうか、そこはわからないが、正保三年、藤樹は三十九歳で健在であり、事の次第の如何を問わず、いくらかは藤樹自身、この年譜の作成に関与するところがあったと思われる、その意味ではこの年譜は、形式上は門人の著述だが、内容上からは藤樹の自伝に近い性格を帯びたものとみなすことが許されよう……。
では、なぜ正保三年までは精細で、正保四年以降は簡単なのか。藤樹は慶安元年(一六四八)、四十一歳で死んだ。正保四年と言えば死の前年である、「年譜」に注ぐ情熱も体力も、もはや衰えてしまっていたのだろうか。
だがそうなると、小林氏が一字の省略もなく写し取り、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っている、それを捕えてもらえれば足りると言った藤樹十三歳の年のあの記事は、藤樹自身の手になったものかも知れないのである、少なくとも藤樹の口述を門弟が筆記し、それに藤樹が直々加筆したかとは思ってみたくなるのである。
4
――彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……
藤樹の学問について、第八章でこう言った小林氏は、第九章に至って言う。
――何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々使っている「自反」というものの力で、咬出さねばならぬ。「君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ」と「論語」の語を借りて言い、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」とも言う。……
今日、「独学」という言葉は、「学歴」に対して用いられることが多いが、「学歴」とはどういう学校を卒業したかという経歴である、そのため、「独学」は、「学歴」なるものを有しないことを言う語としてなにがしかの陰翳を帯びてしまっている。
しかし、藤樹の言う「独学」は、そうではない。突きつめて言えば、「寸分たりとも他人の力は借りず、徹頭徹尾、自力で学ぶ」という意味であり、どこで学んだかだけが幅をきかす「学歴」よりもはるかに上位に置かれている。否むしろ、そういう「学歴」なるものには何を得たかの中身は知識しかない、そこを藤樹は、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と強い口調で言う。すなわち、先生なり友人なりが百人いようと何の役にも立たない、なぜ学問は、天下第一等の仕事であるか、なぜ人間第一義を主意とするか、という根本の問いは、自分独りでする独学でなければ一歩たりとも進まない、と言うのである。
これに伴い、先に出た「良知」の風向きも変ってくる。
――普通、藤樹の良知説と言われているように、「良知」は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、「独」という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」であると論じられている。……
ここで小林氏が言っている「準的となる観念」の「準的」には、「目標、目的」と「標準、基準」の両意があるが、一般には藤樹の言う「良知」は人すべてに内在している知力、判断力を意味する言葉であると解されており、この「良知」を正しく使って正しく生きる術を人々に知らしめる、それが藤樹の学問だとされている、そこから推せば、小林氏は、「良知」は藤樹の学問の「目標、目的」と思われているが、この最終目標と思われている「良知」も所詮は手段に過ぎない、最終の目的は「良知」を用いて「独」という言葉をどう悟得するかである、そのことは、藤樹自身が、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」という言葉で言っている、すなわち「独」は、「良知」のなかでも別格の呼び方であり、幾人もの聖人たちの学問を貫いているものである、と小林氏は言うのである。
こうして以下、藤樹の言う「独」の含蓄が示される。
――「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、倚ル所無シ」という覚悟は出来るだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う「人間第一義」の道であった。……
「聖凡一体、生死息マズ」は、聖人も凡人も変るところはない、生死の問題は誰にも止むことなくつきまとうのである、であろう。
――従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何による。それも、めいめいの「現在の心」に関する工夫であって、その外に、「向上神奇玄妙」なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである。……
「心法」「心術」という言葉が、徐々に重きをなしてくる。「心法」は、藤樹が「翁問答」で言っている「全孝の心法」に基づく言葉で、これについてはすでに第八章でふれられているが、小林氏は、この「心法」にも思想のドラマを観ていくのである。「『向上神奇玄妙』なる理」は、ここでは私たちの日常を遠く離れた、雲を摑むような抽象的人生論、あるいは宇宙論ととっておけば十分だろう。
――藤樹の学問は、先きに言ったように、「独」という言葉の、極めて実践的な吟味を、その根幹としていたが、契沖の仕事にしても、彼の言う「独り生れて、独死候身」の言わば学問的処理、そういう吾が身に、意味あるどんな生き方があるか、という問に対する答えであった。二人が吾が物とした時代精神の親近性を思っていると、前者の儒学の主観性、後者の和学の客観性という、現代の傍観者の眼に映ずる相違も、曖昧なものに見えて来る。契沖の学問の客観的方法も、藤樹の言うように、自力で「咬出し」た心法に外ならなかった事が、よく合点されて来る。……
ここで、「咬出す」という言葉の語気と気魄にあらためて打たれよう。学問は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出」す以外に別路も別事もないと藤樹は言った、これを承けて小林氏は、こんな思い切った学問の独立宣言をした者は藤樹以前に誰もいなかった、「咬出す」というような言い方が、彼の切実な気持を現している、と言っていた。
――そういう次第で、藤樹の独創は、在来の学問の修正も改良も全く断念して了ったところに、学問は一ったん死なねば、生き返らないと見極めたところにある。従って、「一文不通にても、上々の学者なり」(「翁問答」改正篇)とか、「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候。道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」(「与森村伯仁」)という烈しい言葉にもなる。……
「一文不通にても、上々の学者なり」は、文章が読めなくても立派な学者である。「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候」は、人間誰にも具わっている「良知」は天然の師であるから、人間の師がいないからといって困ることはない。「道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」は、道というものは言葉で表しきれないところにある、だから、読み書きができなくても支障はない。
――学問の起死回生の為には、俗中平常の自己に還って出直す道しかない。思い切って、この道を踏み出してみれば、「論語よみの論語しらず」という諺を発明した世俗の人々は、「論語」に読まれて己れを失ってはいない事に気附くだろう。「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし」(「翁問答」改正篇)、……
――当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……
「書を読まずして、何故三年も心法を練るか」は、直前に引かれている藤樹の高弟、熊沢蕃山の「其比中江氏、王子の書を見て、良知の旨を悦び、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをる傍輩にも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)に発している。「王子」は中国、明の儒学者、王陽明、「集義外書」は蕃山の著作である。
5
――「藤樹先生年譜」によれば、三十二歳、「秋論語ヲ講ズ。郷党ノ篇ニ至テ大ニ感得触発アリ。是ニ於テ論語ノ解ヲ作ラント欲ス」とある。彼は、「論語」のまとまった訓詁に関しては、「論語郷党啓蒙翼伝」しか遺さなかった。この難解な著作を批評するのは、元より私の力を越える事だが、尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったかを想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。……
「郷党ノ篇」、すなわち「郷党篇」は、「論語」に見られる全二十篇のほぼ中央に位置している。藤樹の心法とは、どういうものであったか、それがここで顕著に示されると小林氏は言う。
――「学而」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。……
「論語」は第一の「学而」に始り第二十の「尭曰」に至るが、これら全二十篇のうち「学而」から第十の「郷党」までがまず出来たと伊藤仁斎が言い、今日ではこの前半十篇が「上論語」と呼ばれている。「郷党」に記された孔子の日常の一例としては、小林氏が第五章に引いた厩火事の一件がある。それにしても、なぜ藤樹は、「ほとんど死文に近い」ような「郷党篇」に、しかも「郷党篇」だけに触発されたのだろうか。
――藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。道に関する孔子の直かな発言は豊かで、人の耳に入り易いが、又まことに多様多岐であって、読むものの好むところに従って、様々な解釈を許すものだ。この不安定を避けようとして、本当のところ、彼の説く道の本とは何かを、分析的に求めて行くと、凡そ言説言詮の外に出て了う。そこで、藤樹は、「天何ヲカ言ハンヤ、愚按ズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」という解に行きつくのである。……
「徳光」は、ある人物の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれた影である。「郷党篇」に描かれた孔子の日常生活の挙止は、孔子の徳の影であり、この影から、影を生んだ徳の光を思い描くためには、「論語」を読む側にそれを思い描けるだけの力量が要る、ということである。「言説言詮の外に出て了う」は、言葉では表現できないところに肝心要があるということを知る、の意である。「天何ヲカ言ハンヤ、愚按ズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」は、天はものを言うだろうか、言わないではないか、それと同じである、私が思うに、無言とは、声も聞えず匂いもしない道というものの真実そのものである……。「愚」は自分を謙遜して言う語、「按ズ」は考えをめぐらす意である。
――「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。……
藤樹は、「郷党篇」の神髄を、「描画」という言葉で表した。小林氏はかつて、李朝をはじめとする焼物に魂を奪われ、雪舟や鉄斎、ゴッホやセザンヌの絵に何年も見入ったが、ここはその自分自身の痛切な体験をしっかり重ねて言っている。氏は氏の「人生いかに生きるべきか」を考えぬく必然から、「言説言詮の外」にある焼物や絵画に正対した、それと同じ向き合い方を、藤樹が「郷党篇」を文字で描かれた絵と見てしていた。
――「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識シ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の摑み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代る事は出来ない。……
これは、小林氏の、生涯一貫した批評の姿勢でもあった。この姿勢は、「本居宣長」においても貫かれている。すなわち、ここの引用本文は、次のように読み換えられるのである。
「小林秀雄は、自分が『感得触発』したその同じものが、即ち彼が本居宣長の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。時には、大意の摑み方について忠告し、時には時代考証を試みる。しかし、これら宣長の学問に関する知的理解は、小林秀雄が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る宣長の『肖像』に取って代る事は出来ない……」。
この「自分が正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である……」は、まぎれもなく「独」の思想である。「自分」という「独」、「読者」という「独」、小林氏は、藤樹とともに、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と、いままた念を押すのである。
これも原初に遡れば、氏がボードレールに学んだ象徴詩の書法であった。人生いかに生きるべきかを考える究極の知恵は、それを果てまで考えぬく人たちの間では、洋の東西を問わず、時の新旧を問わず、まったく同じ趣で湧くのだと、氏は強く、あらためて言いたかったであろう。
――私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。……
こうして「独」の学脈は、滔々と藤樹から仁斎へと流れ下るのである。
(第二十二回 了)