一 『山宮考』後日譚
昨年の本誌11・12月号に本居宣長の奥墓について記した際に、柳田国男『山宮考』(1947(昭22)年)の重要性を強調しておいたが、その後、さらにいろいろと思い巡らしたところがあり、現時点での続編めいたものを記しておきたいと思う。というのも、先の拙文で紹介した、小林秀雄『本居宣長』の第一回から言及される宣長の遺言書への批評がますます気がかりになって来ているからである。これを「彼の思想の結実であり、敢て最後の述作」(一)と言い、さらに「むしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」(二)とまで重視するところ、そしてそれは外部からは「申披六ヶ敷筋」としか見えない質の思想であったと評するところに、私は、柳田国男『山宮考』が掘り起こした古代の葬送神事の心性を重ね合わせた風景を描いてみたつもりであった。しかし、改めて柳田国男の仕事の道程を考えてみると、民俗学を開きつつ追究し続けたのが日本人の祖霊信仰であり、そのかつての姿と『本居宣長』の先の記述とが、私の中でより強く二重写しになり、かつ、小林秀雄と柳田国男の関係も再考すべきではないかという想いが日増しに強くなって来たのである。
先の文章で『山宮考』が非常に難解な論考であるとしたが、その周辺をもう少し広げて1945(昭20)年の敗戦以降の柳田の思考のありようを確認してみると、精髄としての「山宮考」を取り巻いている文脈が徐々に明らかになって来る。そこで、書誌的な情報を時系列に整理してみると、1946(昭21)年から翌年にかけての柳田の著作『新国学談』三部作として、『祭日考』、『山宮考』、『氏神と氏子』の3冊が並んでいたことになるが、また一方で、昭和の戦前期から折に触れて記していた論考、それは神の依代として神聖視されて来た樹木、神木、門松等への考察類があり、柳田が長年にわたって注意を払って来た対象は、山の樹木類に神の存在を見いだすという心性であったことも明らかである。なお、これらは戦後に記された論考類も含め『神樹篇』としてまとめられ1953(昭28)年に刊行されている。そして、もう一つの注意すべき論考が『先祖の話』なのである。
『先祖の話』は先の著作類に先んじて戦時中、1945(昭20)年4月から5月にかけて執筆され、敗戦後の1946(昭21)年4月に刊行されている。その序文は刊行前年の10月に書かれており、その中に本書の企図については「もちろん始めから戦後の読者を予期し」ていたとはっきりと述べている。また、最終回、「八一 二つの実際問題」の冒頭は次のように書き起こされている。
さて連日の警報の下において、ともかくもこの長話をまとめあげることが出来たのは、私にとっても一つのしあわせであった。いつでも今少し静かな時に、ゆっくりと書いてみたらよかろうにとも言えないわけは、ただ忘れてしまうといけないからというような、簡単なことだけではない。
この最終回を擱筆した日付は昭和20年5月23日と記されている。つまり、この「連日の警報」とは東京上空を襲った米軍機、B29の爆撃警報であり、3月15日の大空襲後も毎日のように続いた空襲下で『先祖の話』は書き続けられたのである。先の序文には「この度の超非常時局」という語もみえるが、柳田があり得べき戦後の日本社会を念じつつ、空襲の最中に筆を走らせていたことは実に重い意味を帯びていよう。
それでは、ここで私の想定する「山宮考」を囲む文脈の動きを簡潔に描いてみよう。
昭和、戦前期に散見する柳田の関心の底流には、神を宿す樹木を斎き祭る心性への注視が継続していた。そして、敗戦直前に書いていた『先祖の話』が戦後直ちに刊行される。続いてそこで展開された要点の具体的な深化として、『祭日考』、『山宮考』、『氏神と氏子』と詳細な考察が発表されていった。そして、これらの核心部に潜んでいる思想が日本人の伝統的な死生観に関する大きな見通しなのである。生と死という絶対的な強度をもって人間を拘束する経験と対峙し続けながら、人々はどのような作法を以てこれを受容していったのか、これを迎え入れる術と知恵をどのように育んで来たのかについて紡ぎ出された柳田の文章は、読み手の想像力を果てしなく促して止まない魅力に満ちている。
たとえば、柳田の見通しの端的な一例は『先祖の話』の自序に見える。
家の問題は自分の見るところ、死後の計画と関聯し、また霊魂の観念とも深い交渉をもっていて、国毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論はこれから何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、またどうなっていくべきであるか。もしくは少なくとも現在において、どうなるのがこの人たちの心の願いであるか。それを決するためにも、まず若干の事実を知っていなければならぬ。
家が代々継がれていき、また分家が徐々に広がっていき、先祖からの血筋が血統として縦の集団を結成していくことの意味、そうした家々に生死を反復してきた人々の生活にほぼ無意識化して引き継がれてきた行動様式の内側に、柳田は言葉にならないまま育まれている世界認識の方法を示唆していくのである。そして、戦後の日本社会を見据えた上でどうしてもこれを書かなければならなかった理由の一つとしては、他国へ出て行きそのままその土地に住み着き、そこで「一つの家を創立しよう」とする人々が増加してきたからだと最終回に改めて記しているが、もう一つの「実際問題」として、「家とその家の子無くして死んだ人々との関係如何である」として、「少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒の言う無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけにはいくまいと思う」とも言う。つまり、この『先祖の話』の最初に「家の存続」を大きな問題として掲げた柳田の発想の動機がもう一度最後に記され、これがなぜ戦中において書かれなければならなかったのかが明かされるのである。
二 小林秀雄と柳田国男
さて、『先祖の話』の内部へ入っていく前に、まずは小林秀雄と柳田国男との関わりについて、分かる限りのところを押さえておきたい。
小林秀雄と大岡昇平との対談「文学の四十年」(「日本の文学」43『小林秀雄』中央公論社 昭40・11、同書の月報に掲載)は、小林が同年6月からの「本居宣長」連載開始の直前に『正宗白鳥全集』の監修に携わっていたせいか、正宗白鳥の文体の話題から始まって徐々に佳境に入っていく。大岡が「終戦後の正宗白鳥さんとの対談はおもしろかったな」と切り出し、正宗白鳥との対談、「大作家論」(『光』昭23・11)について語り合った後に、「あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど」と言うのに対し「それは絶対にデマだよ」と小林は否定しつつ、柳田国男について次のように語り出す。
柳田さんが亡くなる前、向こうから呼ばれて三度ほど録音機持って行ってるよ。つまりあの人は、なにか晩年気になったことがあったらしい。というのは道徳問題だよ。日本人の道徳観、それを言い残しておきたかったんだよね。筆記をとってくれというので行ったけれど、結局それは駄目だったな。話がみんな横にそれちゃって、中心問題からはずれてぐるぐる回ってしまってね。あの人の研究の話をして、面倒な、辛い話になり、愚痴みたいなことになってしまった。
しかし、これに対して、大岡は柳田の研究方法、研究姿勢へのややシニカルな発言を返すのみだが、小林は続けて、
それはぜんぜん違うね。やはり日本の将来の思想問題が心配だったということだとおれは思ったね。おれは君の言うような感じをあの人に持っていないもの。
と述べている。この対談での柳田の話題はこれまでであるが、柳田国男の最晩年の思想の焦点を小林が「道徳問題」、「思想問題」と推定しているところは見逃せないものがあると思うのである。
柳田が逝去したのは1962(昭37)年8月の初めであった。
小林秀雄が柳田国男をいつ、どこで知ったのか明確には分からないが、『遠野物語』(1910(明43)年)以来、口碑、民間伝承、習俗等を採集し続け、1935(昭10)年には民間伝承の会を発足し、日本民俗学を創始した在野の研究者の存在に、その前後には気づいていたのではないか。柳田が日本の伝統の姿を掘り起こそうと企図していたその年に、「私小説論」は書かれているが、そこには次のような言葉も見える。
社会的伝統というものは奇怪なものだ。これがないところに文学的リアリティというものも亦考えられないとは一層奇怪なことである。伝統主義がいいか悪いか問題ではない。伝統というものが、実際に僕等に働いている力の分析が、僕等の能力を超えている事が、言いたいのだ。
また、当時の現代作家の作品よりも通俗作家の時代物、髷物といった作品がなぜ大きな人気を呼んでいるかについて、
現代人のなかに封建的残滓がいかに多いかという証拠だが、又この感情の働くところには、長い文化によって育てられた自由な精錬された審美感覚が働いているのであって、この感覚が、現代ものに現れた生活感情の無秩序と浅薄さを看破し、髷ものに現れた人々の生活様式や義理人情の形式が自分等から遙かに遠いと知りつつ、社会的書割りのうちに確然と位置して、秩序ある感情行為のうちに生活する彼等の姿に一種の美を感ずる。……(中略)…… 過去に成熟した文化をいくつも持ち、長い歴史を引き摺った民族の眼や耳は不思議なものだと思う。僕はこの眼や耳を疑う事が出来ない。
と、民族の伝統を認識するところは注目に値する。すなわち、ここで言う「文学的リアリティ」の濃度が、読者を作品へ惹きつける力であることは、1933(昭8)年の傑作として谷崎潤一郎『春琴抄』を評価した際の実感であったはずであり(「文芸批評と作品」昭和8・12 大阪朝日新聞)、また、同年の「故郷を失った文学」(「文藝春秋」昭和8・5)の最終部、「歴史は否応なく伝統を壊す様に働く。個人は常に否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する」と記していたことを踏まえるなら、小林がこの時期から「伝統」という言葉を自身の言葉として発音していたことが明瞭になってくるからである。そして、これ以降に文壇を賑わせる、いわゆる「日本的なもの」の問題について、1937(昭12)年には正面からこれを論じた批評も書いているが、こうした文壇的問題が拡がる以前から、おそらく私小説を考えることを契機として日本文学の伝統とは何かという問題に逢着していた小林の姿勢も浮かび上がってくるだろう。
さて、先に述べたように小林と柳田との正確な邂逅の時は明らかではないが、あるいはこれが最初の出会いではないかと推測できる出来事はあった。2019(令元)年に刊行された『柳田國男全集』(別巻1 筑摩書房)は非常に詳細な年譜を1巻にあてた労作であり、これを読み進めていくと小林秀雄の名が直接登場する出来事が2件見出せる。まずはこの柳田年譜に見える小林秀雄について洗い出してみよう。
その最初は1935(昭10)年8月で、「私小説論」の第4回(結論)の原稿を書き終えた直後と言って良い。この年の夏、7月下旬から9月まで小林秀雄は深田久弥、北畠八穂と共に霧ヶ峰で一夏を過ごしており、その間に小林は柳田に会い、柳田の話を聞いていたと思われるのである。
三 霧ヶ峰ヒュッテ「山の会」
柳田年譜、昭和10年から引用する。
八月一七日 二一日まで梓書房発行の雑誌『山』が主催する「霧ヶ峰山の会」に参加するため家族七人で新宿から中央線に乗り、上諏訪で降りて霧ヶ峰に向かう。詩人長尾宏也が建て、話題となっていた霧ヶ峰ヒュッテに泊まる。講師は他に武田久吉、辻村太郎らで、石黒忠篤、中西悟堂、尾崎喜八、小林秀雄、深田久弥などが集まる。この日の新聞に、小林秀雄、深田久弥が消息を絶つとの報道があり、話題となる。夜、赤星平馬と千枝夫婦も参加する。午前中は講話、午後は散策、夜は雑談会で、怪談話などする。
この「山の会」は、梓書房の岡茂雄が中心となって全体を5泊6日で行う講話会で、深田久弥も開催に協力していたようである。1932(昭7)年の南アルプス・鳳凰山登山以来、小林は深田との山行やスキーを頻繁にしており、おそらく深田の誘いによっての参加だったのだろう。ちなみにこの「山の会」は2005(平17)年に霧ヶ峰のヒュッテ・ジャヴェルにおいて復活され現在まで続けられている。そのhpによれば、1935(昭和10)年の会の講師は、「登山家の木暮理太郎・民俗学の柳田國男・植物学の武田久吉・中央気象台長の藤原咲平」とあり、辻村太郎は予定していたが欠席となっており、聴講生としては「尾崎喜八・中西悟堂・松方三郎・村井米子・小林秀雄・深田久弥・北畠八穂・大岡昇平・青山二郎・中村光夫・飯塚浩二・石黒忠篤ら」とより詳しく記載がある。つまり当時の小林秀雄交友圏の核心にいた人々が一斉に集まっていたのである。この会について小林はこの翌年に書いた「山」という小品で少し触れている。
昨年信州霧ヶ峯で一と夏を過した時、武田久吉博士が来て、植物の名前をみんな教わっていたが、あの草ぼうぼうの草っ原の草一本々々の名前が解ってしまったらどうなるかと思った。
と記し、散歩に寄った八島ヶ池で「山椒魚の子供」がいると石原巌に指摘され、「小屋の爺さんに佃煮にしろ」と言ったら「あれは井守だ」と正された話から、中学3年時の雲取山登山で遭難しかけた話でこの小品は終わる。また、『深田久弥・山の文学全集』Ⅰ(1974(昭49)・4 朝日新聞社)には「霧ヶ峰の一夏」(1936(昭11)・7)が収録されていて、この霧ヶ峰ヒュッテ滞在時の様子や「山の会」のことも具体的に書かれている。
去年ひと夏を霧ヶ峰で暮らした。
上諏訪から三里の道を自動車で上がって行ったのは、七月下旬のよく晴れた暑い日であった。
と始まり、「二、三日おくれて小林秀雄君がやってきて、僕の隣の室に腰を据えた。ともにここで一夏過ごすためである」とあり、午前中は勉強、午後は散歩という毎日が紹介され、霧ヶ峰高原の地勢や展望などが語られていく。この時の小林の勉強とは、アラン『精神と情熱とに関する八十一章』の翻訳作業を指しているはずである。そして「外歩きから帰って一風呂浴びると夕食になる。永い滞在客は僕等夫婦と小林君だけだったが、入れ代わり立ち代わり新しいお客があるので、食堂の夕餐はいつも賑やかだった」と、こうしたお客の中に、「文学界」仲間も入っていたのだろう。さすがに山の紀行文に慣れた深田だけに、霧ヶ峰周辺の自然観察は行き届いていて、八島平近くの「旧御射山」(もとみさやま)にある小さな社が「諏訪明神の元」であること、すなわち諏訪大社下社の山宮のことまで触れている。
さて、「山の会」についてはこう書いている。
このヒュッテに五日間、僕もその計画の一端に預かった「山の会」が開かれ、講師に武田久吉博士が来られたのを幸いに、そのお供をして、見あたり次第の花の名前を教えていただいた。……(中略)……この「山の会」には、武田さんの他に柳田国男、藤原咲平、木暮理太郎、中西悟堂、尾崎喜八の諸氏も見えて、それぞれ専門の話をされた。僕などは一介の文学書生で、自然界の諸現象にははなはだ無智であったが、これらの諸氏のお話を聞いて大いに得るところがあった。「山の会」は午前に諸先生の話があり、午後は幾組かに分かれての山歩き、夜はお茶を飲みながら笑声の絶えない団欒を過ごした。会員は二十人にも足りなかったが、和かな楽しい集まりであった。
この会に柳田が参加したのは、おそらく中西悟堂の誘いではなかったかと思われる。中西はこの前年に「日本野鳥の会」を設立し、柳田は賛助会員として会員誘致の手助けをしていたからである。では、柳田は何の話をしたのだろうか。小林も深田もこれに触れてはいないが、先に引いた柳田年譜の「八月一七日」では「夜は雑談会で、怪談話などをする」とあったが、翌「一八日」は講師として「午前中の講話で「狩と山の神」について講演する」とあり、「一九日」には「山の幻覚のこと」などを話したあと、参加者全員に見送られ、「みんなより一足先に家族と共に帰京する」と見える。この2泊3日の滞在時の「夜の雑談会」で柳田が他にどんな話をしたか年譜の記事からは分からないが、小林にとっては柳田の学問に直接触れた最初の機会であったと思われる。そこでもう少しこの「山の会」について調査を進めると、梓書房の岡茂雄が著した『炉辺山話』([新編] 平凡社ライブラリー 1998(平10)年)中に「霧ヶ峰「山の会」」が見出せる。また、その文中に中西悟堂「「山の会」の素描」なる文章が引用されており、これは石原巌編集により1934(昭9)年から1936(昭11)年にかけて梓書房から発行された月刊誌『山』第2巻9号(1935(昭10)年9月)に掲載されており、この『山』の同年9、10、11月号には、8月の「山の会」で行われた講演も収録されていた。そして幸運なことに、小林が聴講したであろう柳田の「狩と山の神」は10月号に掲載されているのである。
この岡の文章と中西の文章を読み比べていくと「山の会」のだいたいの様子も浮かび上がって来る。岡の参加は遅れて20日、帰京する柳田一行とすれ違うところからヒュッテに入る記述になるが、岡の文章が書かれたのが1972(昭47)年であるのに対して、中西は19日に霧ヶ峰へ入り、「山の会」直後に起筆しているようで、より正確な記述であろうと思われる。しかし、中西の文章でも柳田の帰京は20日となっていて、柳田年譜の19日は要修正かもしれない。17日の講話は不明、18日は柳田「狩と山の神」、19日は藤原咲平、中央気象台長で霧ヶ峰の麓、角間新田の出身、作家の新田次郎の伯父である。その藤原の山の気象に関する講話、20日は木暮理太郎「登山談義」、その夜に中西悟堂は野鳥の話をしている。そして21日は尾崎喜八「山と芸術」となっており、この尾崎の講話に触れて「けさは小林秀雄氏が新たに加わっている」と中西は記しているが、ここまでの講話に小林が参加していなかったかどうかは分からない。たとえば午前中はアランの翻訳で部屋にこもっていたのかもしれない。ただし中西が来たのは19日であるから、18日の柳田の講話を小林が聴講していたことは推測できるだろうし、すくなくとも午後や夜の談話には参加していたはずである。
この中西の文章から小林秀雄に関わるところを引用しよう。19日の夜の談話の様子から。
夜は全員が一室に集まって、長いテーブルを取り巻いての雑談会だ。……(中略)……心おきない、寛仁の空気でいっぱいな雑談会は話の止め度がなく、やがてどの辺りからか怪談に移ってゆく。柳田さんが、二人の人が同じ場所で同じコンディションの中に一つのヴィジョンを見得るものだと言われる。誰も彼も話題が豊富だ。尾崎君も、松方さんも武田さんも、街の、あるいは山の怪をどしどし提供する。
そして、8月21日の最終日には、
(朝)食後、午前の講話は先ず尾崎君の話。けさは小林秀雄氏が新たに加わっている。……(中略)……最後の夜の座談会は、議論に終始した。小林秀雄氏から「科学者は無機物の世界をも支配しようとしますか」という難問が出て、武田博士がこれに答え、尾崎君はジャン・ジオノを語り、科学は神秘道に通ずるという話になる。それから、吾々は如何に山に登るかという話になって、石原巌君、小林秀雄氏、深田久弥氏、尾崎君のあいだに一しきりの論争。
といった具合に続いている。おそらく、この年の8月17日から20日の4日間にわたる滞在期間において、柳田国男は民間伝承、民間信仰、昔話等の採集経験から得た多くの談話を小林秀雄の周辺に残して去ったのではないか。18日の柳田の講話記録を読めば、明らかに1909(明42)年に著した『後狩詞記』(のちのかりことばのき)に端を発した「山の神」に関する考察がテーマとなっているし、夜の雑談会での怪談話も柳田の知見を踏まえた独自な思考を伴っていたはずである。
この夏の霧ヶ峰ヒュッテでの柳田との邂逅は、小林にとって忘れがたい印象となっていたと私は思う。そしてそれこそが1938(昭13)年に一つの実りをもたらすのだ。
しかし、その前にもう一つの柳田との関わりを見ておきたい。
四 雑誌『創元』創刊への動き
先述した柳田年譜に見えるもう一つの小林秀雄の記事は、戦後の1945(昭20)年9月に入って、7日、14日と15日の3回にわたって小林が成城の柳田邸を訪問していたということであった。3回の訪問は次のように記されている。
九月七日 以前、山の会で会ったことのある小林秀雄が初めて自宅にやって来て、雑誌を創元社から出すので協力してほしいと言われる。
九月一四日 小林秀雄が来たので、「二十三夜」の原稿を渡そうと探したが、見つからなくて困る。
九月一五日 小林秀雄が再び訪ねてきたので、神道の研究の話をする。
7日の記述ではっきりするのは、先述した霧ヶ峰ヒュッテで開催された「山の会」の時が、少なくとも柳田国男にとっては、小林秀雄との初めての出会いだったことである。先には記さなかったが、この「山の会」は1935(昭10)年8月17~21日の1度だけで終わっている。それは翌年の夏には開かれないまま、その12月23日に霧ヶ峰ヒュッテは失火によって焼失してしまったからである。つまり「山の会」はヒュッテの再建もままならないうちに立ち消えになってしまったのであった。
また、ここで言う「雑誌を創元社から出す」とは、おそらく翌1946(昭21)年12月に創刊された『創元』のことであろう。創刊の準備期に小林が柳田にどういう協力を要請したのかは分からないが、同年10月5日には小林の従兄・西村孝次が柳田邸を訪れ、同じ雑誌の相談をしているようである。さて、小林は7日に訪れた際に、14日に受け取るはずの原稿依頼もしたのだろうが、柳田は14日には渡せず、翌15日に再訪した小林に手渡した上で、「神道の研究の話」をしたということになる。もちろんこれは小林が大岡に語った「呼ばれて三度ほど録音機持って行ってる」という時期ではない。しかし、この時の柳田は『先祖の話』を書き上げ、7月に原稿を筑摩書房の唐木順三に一括して手渡しており、8月下旬からは、「氏神祭や山宮祭について考え始め」、9月9日には柳田邸へ戦後初めて集まった門下生たち(木曜会)へ「氏神と山宮祭について話す」と記されているところを考えれば、この時期の柳田が小林に語った「神道の研究」の内実は『先祖の話』と『山宮考』、『氏神と氏子』の内容に関わるもの、すなわち日本人の固有信仰の姿をいかに浮き彫りにしていくかというものだったと想像されるのである。
さて、以上が柳田年譜から読み取れる小林秀雄の動きであるが、話を再び1935(昭10)年に戻し、8月の「霧ヶ峰山の会」からほぼ3年後、1938(昭13)年12月10日に刊行された「創元選書」に触れておきたい。
五 『創元選書』の創刊
1935(昭10)年の夏、霧ヶ峰ヒュッテでの滞在で小林秀雄はアランの『精神と情熱とに関する八十一章』を訳していたが、翌年の夏も再び深田久弥、北畠八穂とともに青森県十和田の蔦温泉(小林秀雄「蔦温泉」1936(昭和11)年9月)で過ごしている。おそらくこの夏も同書の翻訳を続け、その年の秋あたりに伊豆の湯ヶ島(小林秀雄「湯ヶ島」1937(昭和12)年2月)で仕上げているようだ。第5次小林秀雄全集別巻2所収の年譜によれば、1936(昭11)年12月に「アラン『精神と情熱とに関する八十一章』(翻訳)を創元社より刊行、「『精神と情熱とに関する八十一章』訳者後記」を附す。これが機縁で、この頃から創元社顧問となり、創元選書(昭和十三年十二月創刊)の企画に参与した」と記されている。この『創元選書』の企画立案を主導していたのが小林秀雄であることは夙に知られているところであり、その第1回の刊行が、1938(昭13)年12月10日発行の柳田国男『昔話と文学』、野上豊一郎『世阿弥元清』、宇野浩二『ゴオゴリ』の3点であったことも周知のことである。しかし、では、なぜ『創元選書』の第1号が柳田国男の著作であったのか、それが分からなかったのである。
『私小説論』の以前から度々散見していた「伝統」への言及を総体的に捉えれば、昭和初期文学の状況を「時評」しつつ、これを「故郷を失った文学」(1933(昭8)年5月)と断じた認識は極めて自然に、そしてゆっくりと日本文学の「故郷」へと促されていったのではなかったか。そうした時に「山の会」で出会った柳田国男の思索の一端に触れた経験は、少しずつ小林秀雄の脳裏にしみわたって行ったのではないだろうか。
六 終わりに
本稿の当初のもくろみは、柳田国男『先祖の話』の思考の構造を追跡することによって、『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとすることであった。しかしその前に、どうしても考えておきたい柳田国男のことについて紙数を費やさざるを得なかったので、ひとまずは「小林秀雄と柳田国男」という主題にとどめ、別稿を期したい。
最後に、柳田国男は『創元選書』第1号の創刊にあたって丁寧な自作解説を「序」として寄せており、日付は「昭和十三年十一月二十九日」と記されている。そこにただならぬ一節が見えるので引用して擱筆としたい。なぜ本書の題名が『昔話と文学』とされたのかが示唆されているからだ。もちろん、編集顧問として小林秀雄も熟読したはずである。
昔話を中心にした民間の多くの言語芸術は、常に今日謂う所の文学と相剋して居ります。人に文字の力が普及して、書いたものから知識を得る機会が多くなると、それだけは口から耳への伝承が譲歩します。小児か文盲の者かが主たる聴き手ということになれば、彼等の要求は又新たに現れなければなりません。一方には又その古くからのものを排除してしまった空隙には、ちょうどそれに嵌まるような文学が招き入れられるのであります。一口に言ってしまえばただ是だけですが、それには時代もあり土地職業の変化もあって、この文学以前とも名づくべき鋳型は、かなり入り組んだ内景を具えておりました。それへ注ぎ込まれたものの固まりである故に、国の文学はそれぞれにちがった外貌を呈するのではないかと私などは思って居ります。何べん輸入をしてみても文学の定義がしっくりと我邦の実状に合ったという感じがせぬのもそうなれば少しも不思議はありません。単なる作品の目録と作者の列伝とを以て、文学史だと謂って我慢をしなければならなかったのも、原因は或いは斯ういう処にあったかも知れぬのであります。テキストの穿鑿に没頭する此の頃の研究法というものに、私たちはちっとも感心しては居りませぬが、それをひやかすことは此書物の目的では無く、勿論我々の任務でもありません。本意は寧ろ文学の行末を見定めたいという人々に、出来ることなら明瞭に又手軽に、今まで積み上げられたものの輪郭を御目にかけたい為で、それには愈々昔話の採集を、広く全の隅々に届くように、我人ともに心がけなければならぬということを、実例に依って御話がして見たかっただけであります。
(了)