感性の門より入り、又同じ門より出づる

入田 丈司

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み進めていく中で、宣長の「源氏物語」の読み方を巡る次の箇所が目に留まった。

 

「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したというのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。(『小林秀雄全作品』第27集p.196、2行目~、「本居宣長」第18章)

 

宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積もってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通して見せたのである。(同p.196、8行目~、第18章)

 

一読した時、私には謎めいた文章に感じられてしまった。「詞花言葉を翫ぶ」という古語は、現代風に言えば、表現の見事な言葉と文をでるということであろうか。しかし、「解決するというような性質の問題ではなかった」「宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積もってみた人」等、含蓄深い文言が並び、私には自問へと切り込む入り口さえ見つからない。

そこで、「詞花言葉」に着目して読み進めると、「源氏物語」の研究者達と宣長の読み方とを対照させて、小林秀雄さんは次のように記している。

 

研究者達は、作品感受の門を、素早く潜って了えば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行って了う。それを思ってみると、言ってみれば、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る。(同p.199、3行目~、第18章)

 

この「詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿」という文章の、感性の門から出て来る宣長の姿とは一体どの様なものなのだろうか。

本稿では、これを自問として追及する事で、小林秀雄さんが『本居宣長』第18章に籠めた本質を、いささかでも理解していきたい。

 

始めの一歩として、この章で小林秀雄さんが、宣長は「源氏物語」を、「ただ、歌をちりばめ、歌詞によって洗煉されて美文となった物語」「そういうもののうちの優品」と考えてはいなかった、と書いていることに注目したい。読み進めると、次のような記述が現れる。

 

この、二人(源氏君と紫の上)の意識の限界で詠まれているような歌は、一体何処から現れて来るのだろう。それは、作者だけが摑んでいる、この「物語」という大きな歌から配分され、二人の心を点綴する歌の破片でなくて何であろう。そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼(宣長)の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を指すものと感じられてくる。(同p.202、4行目~、第18章)

 

これは、宣長が、紫式部の創作意図は、歌人が一つの和歌を作る時と同様の態度で「源氏物語」を書いていると見抜いた、「源氏物語」の総体が言わば大きな和歌なのだ、との認識に達したという事であろう。

なにゆえに宣長は、かくも深い認識まで達することができたのだろうか。それは、やはり本論の冒頭にも引用した「詞花言葉を翫ぶ」態度であり、宣長は、「詞花言葉」と現実世界との対応関係を一旦切り離し、言葉と文から直接に現れる情感を能う限り受け取る事ができたゆえ、ではなかろうか。

ならば、作品に感性の門から入り、知性の限りを尽くして又同じ門から出て来る時、その手に携えているものは、「詞花言葉」を翫び、即ち言葉の世界を味わい尽くした結果の認識であって、その見事な事例が「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という宣長の言葉なのだと言えよう。

思うに、「詞花言葉」は、その精緻な連なりから、何も介さず直接に人の心に訴えかけて来る、そういう役割が備わっているのではなかろうか。

さらに、小林秀雄さんは次のように書いている。

 

歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴することを確信したのである。(同p.207、7行目~、第18章)

 

宣長は、紫式部の創作意図は、歌人が一つの和歌を作る時と同様の態度で「源氏物語」を書いており、「源氏物語」の総体が和歌と見なし得るとの認識なのだから、この引用文に書かれている歌人を式部とも見なすことができよう。また、「宣長が、『式部が心になりても見よかし』と念じて悟った」のだから、作者・式部と読者・宣長は同じ認識を共有していると言ってよいだろう。すなわち、この引用文で述べられている「歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり」は、式部また宣長も同様の認識であったと言える。

ここで注意すべきは、同様の創作意図とは言え、和歌と「源氏物語」に通底する本質的なものとは何か、ということである。この通底する本質的なものこそが、「詞花言葉」であろう。

 

これらの事より、宣長の読みの最初にあるものは「詞花言葉」であり、「詞花言葉の方から現実に向かって歩き、現実を照らし出す道を」進んだのではなかろうか。

そして、宣長が感性の門から出て来る姿とは何かとの自問に対して、それは、宣長が「詞花言葉の方から現実を照らし出す道を進み」、物のあはれを知るに至った姿である、と言えよう。

 

ここで、さらなる問題に気付かれた方も多いのではなかろうか。

それは、「詞花言葉の方から現実を照らし出す道」、また「歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは一体、何を意味するのか、という問題である。

たとえば、和歌について言えば、書かれている具体的な風物や人の言動行動を思い描いてから、歌としてどのように表現されているかに向かう、即ち、現実から歌へ向かう、現実から「詞花言葉」へ向かう、というのが世間一般に思われている認識ではないか。この問題は難題であり、以下の論は私の現状の「仮説」である。一例に、優れた和歌を一首とりあげてみよう。

 

もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる 魂かとぞ見る

(『後拾遺和歌集』1162番、和泉式部)

 

歌の大意は、あなたが恋しくて思い悩んでいると、沢の蛍も私の身体から迷い出て、あなたに飛んでいく魂かと思えてくる、ということであろう。

ここで歌の読者が、この現代語意訳を歌と古語にあてがって事足れりとするならば、それは現実から歌へと歩こうとする行為だろう。では現実から歌へと歩もうとすると何が起きてしまうかと言えば、現実の場面との結びつきに強く縛られて、歌の「詞花言葉」に溢れている情感が、具体的な場面に限定されたものへと縮んでいってしまう。そして、本来の深い情感を自ら突き離し、認識が浅いものとなってしまうのではないだろうか。

そうではなく、現実との縛りをいったん解き放ち、歌の「詞花言葉」そのものを愛でるように享受して、そののちに現実の世の中を見渡すならば、「詞花言葉」に溢れる情感が現実の場面に限定されることなく、その深さのままに世や人生のあちらこちらに存在する事、が認識できるように思える。

即ち、「詞花言葉」から現実に向かって歩き、「詞花言葉」から現実を照らすならば、その逆では起こらない、情感の普遍性が立ち現れるのではなかろうか。

さらには、「詞花言葉」に溢れる情感そのものを享受することで感性が鋭敏になり、現実の世にある多様な情感も認識できてくるように思う。

ここでは和歌を例にとって論じたが、宣長は「源氏物語」の熟読にあたり、まさしく「詞花言葉」から現実に向かって歩き、「詞花言葉」から現実を照らす道を進んだゆえに、他の者では困難であった、物のあはれを知るに至る事ができたのではなかろうか。

 

ここまで、「感性の門より入り、又同じ門より出づる宣長の姿」、を巡って考察してきた。

振りかえってみると、それは「詞花言葉」の姿かたちを探り、また「詞花言葉」の振る舞いを探る事へと、繋がっている。「詞花言葉」の世界は、極めて広大で深く、文芸の根幹である。

冒頭に『本居宣長』から引用し、私が謎めいて感じられると述べた、小林秀雄さんの言葉は、少しは霧が晴れたものの依然として峰のように眼前に在る。

さらに『本居宣長』との自問自答を続け、時には歌の創作をする中で、これからも「詞花言葉」を巡っての魅力溢れる旅をしていきたい。

(了)