宣長が見た紫式部という思想家

田中 佐和子

小林秀雄先生は、本居宣長が紫式部に見たのは「『物のあはれを知る道』を語った思想家」と書かれている。まずここで、小林先生が思想という言葉を用いる際に、混同してはいけないことがある。「思想」と「イデオロギー」は、同義語ではないということだ。思想というものは、人間一人ひとりが「いかに生きるべきか」という問いに、自ら答えることにある。一方イデオロギーは、ある目的において集団として一致団結するために、共有しようとする考え方を指す。思想とは、「いかに生きるべきか」について、自己の内面の葛藤を繰り返し、ある確信に到達するところまで、辿り着いたものを表す。だが、イデオロギーは自分の裡から自然と沸き起こるものではなく、目的達成のため、意図的に作り上げることを主眼としたもので、外部に起因する。

小林先生の言葉から、思想の本質をより鮮明に捉えておきたい。先生は、三木清との対談「実験的精神」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)で、大要、こう言われている。

―思想というものは、人に解らせる事の出来ない独立した形ある美なのだ、思想というものも、実地に経験しなければいけないのだ……。

 

では、宣長は、紫式部をなぜそういう意味での思想家と見たのか、である。小林先生によれば、宣長は「あはれ」という言葉について、以下のように考えていた。

「何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。

心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が『あはれ』を論ずる『モト』と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。(中略)彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった。『此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし』(「紫文要領」巻下)」(「本居宣長」第十四章)

紫式部は宮中における女房という立場もあり、さまざまな色恋沙汰を目にしてきたのではないか。式部は、相手の心を自分の思うようにできない恋愛をする人の情が、どのようにうごくのかを見つづけ、一人として同じ情を持ち合わせない、人間の情の不思議さを目の当たりにしたのだろう。相手に向けた自分の行いが我が心の願うように進まず、心は自分の裡にある心に目を向ける。その時、もどかしさや恥ずかしさ、さらには憂いで内側が一杯になり、目を背けることができなくなることを、誰しも経験したことがあるだろう。式部には、この溢れてしまう情と、いかに生きていけばいいのか、その問いに対する自答を人に伝えたいという気持ちが、自ずと湧き上がっていったのではないか。この情について、宣長はさらに深く思索を重ねる。

「よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある」(第十四章)

その情が高次な経験に豊かに育つとどうなるかを、小林先生は次のように述べている。「『情』は、己れを顧み、『感慨』を生み出す。生み出された『感慨』は、自主的な意識の世界を形成する傾向があり、感動が認識を誘い、認識が感動を呼ぶ動きを重ねているうちに、豊かにもなり、深くもなり、遂に、『欲』の世界から抜け出て自立する喜びに育つのだが、喜びが、喜びに堪えず、その出口を物語という表現に求めるのも亦、全く自然な事だ」(第十四章)

「情」は、高次に熟成が進むと、自主的な意識の世界を形成し、「自然」な流れによって「物語」を生み出す。小林先生は、式部が「源氏物語」の中で、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせる名優なのだと言い、「物語とは『神代よりよにある事を、しるしをきけるななり』という言葉は、其処から発言されている、言わば、この名優の科白なのであって、(中略)式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」(第十六章)と言われている。式部は「物語る」という言葉を見つめつづけた先に、人々が色々なものに触れて感受するさまを見出しただろう。そして、胸に刻印されるほど忘れられない経験をしたとき、人は内側に留めることができず、誰かに聞いてほしいと願うさまも目の当たりにしただろう。小林先生は、その情の作用を「語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂」(第十六章)であると巧みに表している。式部は、語る人と聞く人が連綿と生み出してきた「物語」の誕生という源泉に辿り着く。そこで、式部は、その物語の原動力は、「情」であることを知る。「人の情のあるやう」というものが、自ずから「物語」を生み出す瞬間を、式部自身が目に焼きつけたのだろう。宣長は、式部が「物のあはれを知る道」を語るに至る、思考の足跡を辿っていくことにより、「情」の感きの発見をする。小林先生は、宣長の発見の喜びを、行間から溢れんばかりの言葉で綴っている。

「『源氏』は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、『世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる』味いの表現なのだ。そして、この『みるにもあかず、聞にもあまる』という言い方を、宣長はいかにも名言と考えるのである。事物の知覚の働きは、何を知覚したかで停止せず、『みるにもあかず、聞にもあまる』という風に進展する。事物の知覚が、対象との縁を切らず、そのまま想像のうちに育って行くのを、事物の事実判断には阻む力はない。宣長が、『よろづの事にふれて、感く人の情』と言う時に、考えられていたのは、『情』の感きの、そういう自然な過程であった。敢て言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった」(第十五章)

式部は描写でもなく、記録でもない、「これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」と「物語」に「人の情のあるやう」を見出した。この言葉の奥深くには、式部の物語を書くことへの、並々ならぬ意志と思想が感じられる。能に「源氏供養」という曲がある。当時、架空の物語を作ることは、仏教における五戒の一つである「不猛語戒」に反するものと考えられていた。紫式部は「源氏物語」という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後、地獄に落ちたとする伝承が語り継がれ、そこから起こった紫式部を供養しようとする気運や行動が「源氏供養」の由来とされている。おそらく式部は、「物語」を書くことによってわが身に振りかかるであろう誹謗も中傷も知った上で、それでもなお、人が神代より「情」と共に生きるなかで生み出してきた「物語」の源泉を飲み、孤の中で、「情」と「いかに生きるか」という問いに、ひたすらに向き合い、「物語」にこそ、人が生きるうえでの「みちみちしさ」があるという確信に辿り着き、「源氏物語」を生み出したにちがいない。

 

最後にもう一度、小林先生の「思想というものは、やはり解らせる事の出来ない独立した形ある美なんだね。思想というものも実地に経験しなければいけないのだ」という言葉を思い出してみよう。思想というものは、説明を拒む。思想というものは、理屈や論理によって誰にでも組み立てられるような言葉の構造物ではない。その人自身にしか生み出せない独立した心の形なのだ。宣長は式部のそういう思想に身を重ね、小林先生は宣長のそういう思想に身を重ねて経験している。小林先生は「本居宣長」という物語を書くことによって、式部の思想のドラマと、宣長の思想のドラマを、奥深くからの重層的な響きで奏でている。

 

(了)