小林秀雄先生は、色紙を求められて「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」と、お書きになったことがあったそうです。「無私になる」ではなく「無私を得る」、このことについて、「本居宣長」では何と書かれているのか、2021年7月の山の上の家の塾の自問自答に際して、私は次のように考えました。
――「批評」においてだけではなく、「無私を得る」とは「相手のあるがままの姿を、観点を一切無くして受け止め、真の理解に達する」というように受け取ってよろしいでしょうか。また、小林先生は「学生との対話」において「自分は表そうとして表れるものではない、表そうと思わない時に自ずと表れる」と説き、「本居宣長」においては、仁斎が「論語」、徂徠が六経に向かった学問を例に挙げています。彼らは各々が求めた孔子の言葉の真意を得ようとして、孔子との対話に専念し、それにより彼ら自身も知らなかった自分に出会った、と述べています。
これを「源氏物語」について考えれば、紫式部は、「物のあはれを知る」という自身の思想を人に知ってもらうため、源氏君を創り、彼を「物のあはれ」を知り尽くした人として行動させ、読者との対話によって「物のあはれ」の意味や価値を「創作」したのであり、そこには式部の人間像が自ずと表れ出ている、それはすなわち、式部が無私を得たということであり、それによって式部自身がより深く自分を知ったと理解してよろしいでしょうか。
いまここで、式部は「読者との対話によって『物のあはれ』の意味や価値を『創作』したのであり」と言ったのは、「本居宣長」第十六章で言われている次の言葉に拠っています。「語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った」。
「己れを捨てて/学問をすれば/おのずと己れの/生き方が出てくる」―― これは「本居宣長」が収められた「小林秀雄全作品」第27集の帯の言葉として、池田雅延塾頭が書かれたもので、塾頭は「好・信・楽」(2021年冬号 小林秀雄「本居宣長」全景(二十七))でも、次のように述べています。「小林氏が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、『彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである』と言ったこともここにつながってくる。小林氏の言う学問の伝統とは、『まねぶ』だった、模倣するということだったと言ってよいのである」。
これを踏まえれば、仁斎と徂徠は「よき人」孔子を、そして式部は「物のあはれを知り尽くした人」源氏君を、それぞれ己れを捨てて模倣した結果、他でもない自分自身を発見したのだ、というように考えられます。
たとえば、仁斎は、「論語」について「最上至極宇宙第一書」としか表しようがないと思うまで、孔子を模倣し尽くしました。その結果どうなったのかというと、「学問の本旨とは、材木屋の倅に生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。彼は、孤立した自省自反の道を、一貫して歩いた(後略)」と小林先生は言われています(「全作品」第27集107ページ)。
また、模倣される手本と自己の関係性については、次のように言われています。「模倣される手本と模倣する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」(同122ページ)。
模倣し、模倣し、模倣し尽くしてもなお、手本と自分がまったく同一になることはない、しかし、こうして手本の真の理解に近づけば近づくほど、そこに自分自身も知らなかった自己が表れてくる、模倣の結末は思いもよらなかった自己の発見である。これこそ、古書の真の理解であり、学問をする意義であると、小林先生は言われているのだと思います。
そう考えると、小林先生の批評はすべて、先生が色紙に書かれたとおり、「無私を得る」ための行為だったとあらためて思われます。さらに、人は自身の経験が邪魔をして、無前提となることが大変難しいものですから、無私を得んと励み続けることは、小林先生が大切に考えておられた「己を鍛錬する」こと、そのものでもあったと思います。中でも先生は十一年と半年、宣長さんと真の対話を続け、無私を得んとされました。その、深い思考を継続する強い力は、効率やスピードを求める私達の日常からは想像し難いものですが、私も小林先生を模倣することで「無私を得る」道を歩み続けたいと思います。
さて、ここでまた、『学生との対話』に戻ります。この本の國武忠彦さんによる回想記の中に、小林先生の講義を聴いた國武さんが、聴講記の原稿を仕上げ、それを持って先生のお宅を訪ねる場面があります。先生の指示に従い、原稿を置いて帰った三日後に、國武さんは再びお宅を訪ねます。
――(先生に)「今の学生さんはどんな本を読んでいますか」と聞かれた。「社会科学に関する本です」と答えた。「ああそう。僕は小説を読んだな。雑誌が出るのが待ちきれなかったよ」とおっしゃった。「私はこれからフランス文学をやりたいと思っています」と言ったら、「そんなものをやる必要はない」と急に大きな声を出された。「それより、君、漢文が読めるかい。僕は読めない。辞書を片手に読んでいる。漢文が読めなきゃダメだよ」とおっしゃった。先生がそう言った後で、積極的に話されたのは、伊藤仁斎や荻生徂徠のことであった。とくに、読書の仕方について、仁斎の「其の謦欬ヲ承クルガ如ク、其の肺腑ヲ視ルガ如ク」や、徂徠の「註をもはなれ、本文ばかりを、見るともなく、読むともなく」の話は、忘れることができない。これらの話は、のちに『本居宣長』の第十章に精しくお書きになった。奥様から出された鳩の形をしたお菓子にも手がだせず、五時間あまり過ごしておいとましました。……
ここで、小林先生と國武さんの五時間に及ぶこの対話の、背景を説明しましょう。先生は、1961(昭和36)年から78(昭和53)年までの間に五回、九州の各地で開かれた「全国学生青年合宿教室」に出向き、学生との対話を行いました。この教室の主宰者である国民文化研究会の理事長、小田村寅二郎先生は、小林先生に初めておいでいただけたとき、例年のように合宿記録を作成するためそのことのお許しを小林先生にお願いしました。ところがこれを小林先生は「峻拒」され、小田村先生は困り果てました。小林先生は、講義や対話のような話し言葉は、自分自身で書き言葉に調えてからでなくては公にはされなかったのです。
この合宿に参加した学生の一人、國武さんは、次のように述べています。「(小田村先生が困ったのは、このままでは)最も参加者が楽しみにしている小林先生の講義録が空白になるからだ。この困りようは、傍目にも痛々しいものであった。何とかご承諾を得る方法はないかと心を砕かれ、そこで思い付かれたのが、参加学生の一人に聴講記を書かせる、その聴講記にお目通しをいただく、という案だった。その“聴講記”が私に課せられた」。
小林先生は、本来ならば応じられない頼みを、小田村先生の熱意と妙案に感じてお引き受けになりました。上記の五時間に及ぶ対話は、小林先生の訂正加筆が朱でびっしりと書き込まれた、國武さんの原稿を間に挟んで、行われたものです。
この間、國武さんは「無私を得る」ことについての小林先生の話を、全身全霊で一言も漏らさず聴こう、理解しようとするあまり、先生の眼差しや体躯、発せられる言葉、醸される空気に、圧倒され、心身とも飲み込まれるような思いだったのではないでしょうか。それこそまさに、國武さんが、先生から予想だにしなかった無私を得さしめられた、これまで思ってもみなかった「学問」をした時間だったのではないかと想像します。
同じ『学生との対話』の後書きで、池田塾頭はこう述べています。「小林秀雄は、ドストエフスキーならドストエフスキーの、その生き方に自分を写し、そこから自分の生き方のイメージを得ようとしたのです。ドストエフスキーが、ドストエフスキーとして生れ、ドストエフスキーとして生きた『確固たる性格、実体』にまずは無心で向き合う。するとその『確固たる性格、実体』に、共鳴したり惑乱したりする自分がいる。それは今まで、自分自身でさえ知らなかった自分である。そうか、自分はこういう人間か……、この自分に対する発見の驚きが、いかに生きるべきかを考える最初の糸口になる、眼の前の他人を貶したり咎めたりしたのではそこに自分は写らない、写ったとしてもそれはすでにわかりきった、手垢にまみれた自分である、いかに生きるべきかを創造的に考えようとすれば、他人をほめることから始める、ほめるといっても追従を言ったり機嫌をとったりするのではない、その人をその人たらしめている個性を見ぬき、その個性を徹底的に尊敬するのである、そうしてこそ自分はどう生きていけばよいのかしっかりしたイメージが返ってくる、そういう確信が、いつしかおのずと小林秀雄に育ったのです」。
ここまで「無私を得る」とは具体的にどのようなことか、引用を重ねて考えてきました。かく言う私は、これまでの人生で、無私を得んとしたことがあるでしょうか。残念ながら、そういう経験を持たないなぁ、と思いながら先日、祈る自分は無私であると、はたと気付きました。私は特定の宗旨宗派の信者ではありませんが、古書としての聖典と、それを読み継いだ古人を敬う心、そういう意味合いでの「信仰」は持っています。その私が、気づいてみれば、必要があって参列した、礼拝の最中に聴こえてくる祈りの言葉を、全身で理解しようとしていたのです。
小林秀雄先生の文章にある、「無私」という言葉について考えたいというのが、私が「小林秀雄に学ぶ塾」への入塾を希望した理由でした。そして三年が経ちました。先生のおっしゃる「無私」は、私の捉えていた「無私」とは、まったく別のものでした。
先生は、無私とは他者に相対してとるべき態度であり、最後は自分自身も気づかなかった自己を知ることになることから、きわめて重要で大きな意味を持つとおっしゃっているのだと、今は思います。
これからも私は、「無私を得る」、とはどういうことなのかを考えながら、「本居宣長」を読み進めます。その道が、ようやく始まりました。
(了)