今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。
いつもの四人による対話は、元気のいい娘が「やばい」と断言する、「姿は似せ難く、意は似せ易し」という本居宣長の逆説的な言葉から幕を開ける。その深意について、自らの思いを懸命に伝えようとする江戸紫が似合う女は、小林秀雄先生による「ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか」という言葉を挙げた…… 娘は、スマホをオフにすることにした…… はたしてその理由とは?
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「『本居宣長』自問自答」には、本田悦朗さん、田中佐和子さん、橋本明子さん、荻野徹さん、そして橋岡千代さんが寄稿された。
本田さんは、「なぜ、中江藤樹は戦国の遺風の残る荒れ野のような時代に、近世学問の濫觴となり得たのか」という問いを立てた。「独」という言葉に、そして、その言葉を藤樹がいかに「咬出」したのか、ということに注目する。小林先生は、彼の孤立の意味よりも「もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ」と言っている。そこで本田さんが紹介している藤樹の逸話も、じっくりと味わいたい。
田中さんの問いは、「なぜ宣長は、紫式部を思想家と見たのか」ということである。もちろん小林先生が用いる「思想」という言葉には留意が必要であり、田中さんは、先生が三木清氏との対談のなかで語っている「思想というものは、人に解らせる事の出来ない独立した形ある美なのだ、思想というものも、実地に経験しなければいけないのだ……」という言葉に注目している。式部が「物語」という言葉に見出したものはなにか? 田中さんの語るところに、静かに耳を傾けてみよう。
橋本さんは、小林先生が言う「無私を得る」という言葉について思索を巡らせている。「小林秀雄全作品」第27集の帯の言葉が目に入った。――己れを捨てて/学問をすれば/おのずと己れの/生き方が出てくる。そこで橋本さんは、「模倣される手本と模倣する自己」との関係性、例えば、「論語」と伊藤仁斎との緊張した関係のなかでこそ真の自己の発見があると小林先生が考えていたのではないか、ということに思い至る……
「巻頭劇場」でおなじみの荻野徹さんは、同劇場と同じ対話劇の手法で書くことを試みている。件の元気のいい娘は、小林先生が、紫式部が創作のうえで物語の「しどけなく書ける」形式を選んだことについて、古女房の語り口を「演じる」・「この名優」・「演技の意味」というような表現を使っているところに興味を持った。語り手と聞き手との関係、そのことを自覚していた式部…… 本稿もまた、対話劇だからこそ読者の心に届くものがある。
橋岡さんが注目したのは、「風雅に従ふ」という宣長の言葉である。山の上の家の塾での自問自答を通じて橋岡さんは、宣長の「道」を理解するためには、彼が言っている「小人の立てる志」という「俗」を知るべきであることに気付かされた。「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむとも」という宣長の歌を再び眺めてみた。彼が「学問」に向かう姿勢が、小林先生の「本居宣長」執筆の根幹にあったものが見えてきた。
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「『かたち』について」を寄稿された有馬雄祐さんは、本居宣長が使った「かたち」という言葉を、小林先生が使うときに一体何を意味しているのか、と問うている。荻生徂徠は、実理と空理を区別し、空理に陥ることへの警鐘を鳴らした。小林先生は、眼前の菫の花を黙って見続けよと忠告した。宣長は、「古事記」という「物」に化するという道を行った。そして有馬さんは、ベルクソンを愛読してきた小林先生の深意へと、さらなる一歩を進める。本稿は「物質と記憶」の素読を長く続けてきている有馬さんが到った、一里塚である。
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飯塚陽子さんは、パリに住んでいる。冷たい雨音、バルコニーで熟した苺、寂しがり屋の猫、深いクレバスの底へ…… そして、小林秀雄著「作家論」の最後の章が…… もはやこれ以上の付言は不要であろう。飯塚さんによって綴られた言葉を、詩を読むように、意味を取ろうとすることもなく、ゆっくりと味わってみていただきたい。ただただ言葉として、その姿のままに……
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石川則夫さんの「特別寄稿」は、前稿「続『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ」(本誌2021年夏号)の続編である。石川さんは、前稿の結びを次のように締めくくられていた。「柳田国男の『山宮考』から『先祖の話』まで引きずって来たこだわりは、我々の心身の奥底までも支配し、制御している<時間>という思想を如何にして崩していくかというところにあったのである」。話は、小林先生の「おっかさんという蛍」から、志賀直哉さんの「死を得る工夫」、そしてバッハ夫人のある「確信」を経て、いよいよ「本居宣長」という作品へと向かう……
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2017(平成29)年6月に刊行開始した本誌は、今号で通算30号の節目を迎えた。ここで改めて、本誌をご愛読いただいている読者諸氏に心からのお礼を申し上げたい。
さて、刊行第一号となった2017年6月号の「巻頭随筆」に、吉田宏さんが以下のように書いていた。
「この同人誌『好・信・楽』は、“小林秀雄に問うという奇跡”にでくわした多士済々の塾生たちの小林秀雄への質問・自答と、塾頭の『小林先生ならこうお答えになるに違いない』という返答の、真摯なやり取りであふれるだろう。感動は確かにあったのだ。『本居宣長』という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る上でこれほどの同行者はもう二度と現れない。きっと多くの人たちが、塾生一人ひとりの生きた学問の足取りの音を、また小林秀雄の著作をその生涯にわたり『好み、信じ、楽しんで』きた塾頭の声を聞き取り、受け取ってくれると信じている」。(「小林秀雄に問うという奇跡」)
秋も深まる時季に刊行を迎えた今号も、手前味噌ではあるが、多士済々の筆者による多彩な内容が溢れる誌面となった。しかしながら、「『本居宣長』という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る」には、手応えを掴みつつある感触を覚えながらも、いまだ道半ば、と言わざる得ない。同じ号で茂木健一郎さんが言っていた「小林秀雄さんから、池田雅延さん、そして『山の上の家の塾』の塾生たちへの魂のリレー」の襷の重みを、塾生一人ひとりが改めて全身で感じ取り、艱難辛苦に留まることなく、前を向いて走り続けて行きたい。次の走者は、必ず待っている。
引き続き、読者諸氏のご指導とご鞭撻を、心よりお願いする。
(了)